クリスマスとは  〔ロシア正教会〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・クリスマスとは  〔ロシア正教会〕

 

〔モスクワ大主教フィラレトス(19世紀)による降誕祭(クリスマス)の説教〕
 “神は永遠にその崇高な栄光を楽しんでいた。……栄光は内的完全性の啓示であり、あらわれであり、反映であり、被服である。神は永遠に同じ実体をそなえたその「子」の永遠の誕生により、そしてまた、同じ実体をそなえたその「霊」の永遠の発出によって、ご自分に啓示する。このようにして、その一体性は、聖三位一体のなかで、本質的で、不滅で、不動の栄光に輝く。「父」である神は、「栄光の父」であり(エフェソス1・17)、神の「子」は「その栄光のかがやき」であり(ヘブライ1・3)、かれ自身、「世界がつくられる前に、父の栄光をもっていた」(ヨハンネス17・5)。同じように、神の「霊」は、「栄光の霊」である(ペトロス4・14)。神は、この固有な、内在的な栄光の中で、あらゆる栄光に越えた完全な福楽をたのしみ、いかなる目撃者も必要とせず、いかなるわかち合いも受け入れる事ができなかった。しかしながら、その無限の寛仁と愛とによって、その福楽を通じ与え、その栄光をわかち合う至福者をつくりたいと望んだ。そこで、神は、その無限なかずかずの完全性を出現させて、ご自分をその被造物に示す。その栄光は天のもろもろの力のなかに示され、人間のなかに反映し、見える世界に荘厳をまとわせる。神はこの栄光を与える。わかち合いのために神に招かれた者はこれを受ける。しかし、この栄光は神に帰る。そして、いわば、神の栄光のこの絶え間ない回帰のうちにこそ、被造物の至福な生活と福楽とが存するのである。……
 

 神が人類のなかに存在するやいなや、「生命と信心とにかかわる神の力のすべてのたまものが、わたしたちに与えられた」(ペトロス1・3)。そのため、わたしたちの弱さは神の力にみたされ、わたしたちのいつわりは神の真理によって消し去られ、わたしたちの闇は神の光明によって照らされるのである。……これこそ、この日の栄光の秘儀であり、秘儀の栄光である。光明の天使たちは、われわれに先立って、この栄光のあけぼのを見た。するとすぐ、それをわたしたちに告げて叫んだ。「天のいと高きところには神に栄光あれ」。今は、もはや、この栄光のあけぼのではなく、真昼である。わたしたちの栄光もまた立ち上がり、天の住民たちの方へのぼらなければならない。”

       (J・メイエンドルフ「聖グレゴリオス・パラマス」中央出版社より)