ポナペ (ムー大陸の至聖所) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ポナペ (ムー大陸(黄泉島、よもつしま)の至聖所)

 

 “聖師さまは、「ポナペはムー大陸の最高至聖所で、地球のへそにあたる所だ」と述べられ、さらには、「ポナペの島は、大本の神紋と同じ形をしていて、欧亜大陸の雛型である」とも説かれている。事実、ポナペは、梅の花が開いたような形で、本島の周囲には、九つの離島があり、それを線で結ぶと、まさに欧亜(ユーラシア)大陸の形になるのである。

 1931年(昭和六年)三月、この島に、聖師さまを社主と仰ぎ、大本人類愛善会事業部ポナペ開栄社が設立された。製氷工場、農園などの経営が主な事業であったが、同年八月十五日には、本部より、本田安治郎、本田繁安(現四海平安)両氏他数人が派遣されて大本ポナペ支部が設置された。”

 

 “聖師さまは、昭和十年十月初旬、ポナペへの巡教を発表された。同年十一月二十二日、聖師さまは、紀州の熊野本宮大社に参拝され翌晩、湯浅支部(現紀伊分苑―大本本部長森清秀氏の生家)にお泊りになられた。そこで、『目もはるにかすめる雲の果て遠く吾はポナペへ進みゆくなり』とのお歌を色紙にご染筆になり、清秀氏にお下げになった。そして、「わしは、これから本部にちょっと帰って、それから、すぐ島根別院の歌祭りに参列する。その歌祭りをすましたら、その足ですぐポナペへ行く」とおっしゃった。その歌祭り執行当日の十二月八日早朝、第二次大本事件が勃発した。

 昭和十一年三月十七日、当局は、大本と人類愛善会の諸機関のすべてに、解散命令を下した。四海平安氏等現地出向者は、なんとか滞まり、愛善農園を存続させたいと念願したが、種々の事情で、それもかなわず、後事を高塚忠俊氏に託して、日本へ引き揚げた。その後、日本は泥沼のような戦争に足を踏み入れて行った。やがて、大本の切り開いたナンマンポルの開拓地は、日本軍が、飛行場にしてしまった。

 昭和十七年八月、未決からお帰りになられた聖師さまに、四海氏が当時の引き揚げの様子を申し上げると、「今、南洋へどんどん進出しておるが、あれは皆帰ってきよるのや。その型をおまえらやったんじゃ」、「それでは戦争は負けですがな」、「そうじゃ」というおことばであった。

 後にこれらの島々は、米国に占領されてしまい――大本事件で四海氏等が引き揚げたように――敗戦によりサイパン、パラオ、ポナペ等の南洋の島々から、日本人は、惨憺たるありさまで引き揚げねばならなかったのである。”

 

      (「おほもと」昭和56年2月号 高瀬順亮『大本とポナペの友好史』より)

 

 

 “今の太平洋の戦いは黄泉比良坂(よもつひらさか)の戦いである。南洋の島は陥没した黄泉島の高い所である。(昭和十九年四月九日) 〔参照:霊界物語第十巻第一章。第十五章乃至第三十一章。古事記上巻「黄泉比良坂」の段。〕”

 

            (木庭次守編「新月のかけ」より)