お筆先(文盲の開祖に降ろされた「神の御言葉」) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・お筆先 (文盲の開祖に降ろされた「神の御言葉(みことば)」)

 

 “……はじめは、もっぱら神の啓示は開祖の口を通し、言葉をもって伝えられ、のち間もなく  ‶なおよ筆を持て‶と神から命ぜられ(明治25年)、以来ご昇天まで二十七年間、「お筆先」を通じて神意を伝達されることになった。その間書かれたものが、半紙一帖(二十枚)を一冊として約一万冊にのぼった。

 この際のもっとも大きな特徴は、ぜんぜん字を知らない開祖が、文字をもって「神意を伝達」されたことである。一八九二年(明治25年)の旧正月、はじめて神が開祖に向かって‶なおよ筆を持て‶と言われた時、字を知らない開祖は、たいへん当惑されて、「 ‶筆を持て‶ といわれても、わたくしは字を知りません」と申し上げたところが、神は ‶そなたが知らんでも、神がかかって神が書くのだから、ただ筆を持てばよい‶ とのことで、急に筆墨紙を用意して、紙をのべ、筆を持ったところが、ひとりでに手が動いて一気呵成に書けてしまったという。

 ところが、書くのは書いたが、それが字であるやら、字でないやら自分でも分からない。そこで仕方がないので菩提寺へ持って行って坊さんに見てもらったという。

 坊さんは、開祖と、書いたものとを等半に見比べながら、「おなおはん、これあんたが書いたのですか」といって何度も念を押して聞きただした。開祖はそれに対し、「ご存じのように、わたくしは字を知りません。ところが、神が筆を持てといわれるから筆を持ったところ、ひとりでに手が動いて、こんなものを書いてしまいましたが、これはなんでしょうか」と尋ねられた。

 坊さんは非常に驚いて、「これは大変なことが書けている。ひとつ読んで聞かそうか」といって読んで聞かされたのが、次に掲げる大本神諭の最初の一節だったという。

 

 三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは強いもの勝ちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ。悪神にばかされて、まだ眼がさめん暗がりの世になりておるぞよ。これでは世は立ちては行かんから、神が表に現われて、三千世界の天之岩戸開きを致すぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新(さら)つに致してしまうぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて、万古末代つづく神国の世に致すぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いは無いぞよ。これが違うたら、神はこの世に居らんぞよ。

 

 お筆先の原文はすべて「ひらがな」ばかりで漢字は一時もないが、のち出口王仁三郎師によって右のように漢字混じりとし「大本神諭」として発表するに至った。

 開祖の書かれた一万冊のお筆先は、全文「ひらがな」で書かれ、漢字は一字もない。しかし数字の一、二、三から十までが、ところどころ使われている。たとえば  ‶めいじ三じゅう七ねん一がつ‶  などのようなのがある。またその書体は、素人の眼からみれば、かな釘流の小学一年生の字かと思われるのだが、専門書家の評では‶神韻縹びょうたるもので、凡人の書ではない‶と驚嘆している。日没後の暗闇の中でも灯火なしに書かれたと伝えられ、開祖自ら ‶紙の上にはいつも金色の文字があらわれ、その通りに運筆するので、灯を要しなかった‶ と語られている。

 日本にも外国にも、むかしから自動書記現象というのが稀にある。しかしそれは、あらかじめ字を知っている人たちの間に起こった現象である。しかるに大本開祖の場合は、まったく目に一時(いっちょうじ)もない「いろは」の「い」の字も知らない無学文盲の方に起こった現象で、世界的にみても稀有の出来事だったといえよう。(ミウラ)”

 

   (「人類愛善新聞」昭和53年8月号 『大本の特異性、その教義と実像③』より)

 

 

・文盲の預言者、ムハンマド(マホメット)

 “……イスラム全体にとって、またスーフィーズムにとって、旧約聖書にあらわれる主要な預言者は重要であり、ダヴィデとソロモンの言葉も欠かすことができない。また、コーランに含まれる、処女マリアと神の御言葉(ロゴス)であるキリストの処女降誕の奇跡も、「真理」の諸相をあらわすスーフィ―的象徴として重要である。処女マリアに御言葉(ロゴス)が降臨したことは、文盲(ウンミー)の預言者ムハンマド(注)に神の言葉が下ったことと等しいからである。キリスト教の奇跡がキリスト降誕であるように、イスラムの奇跡はコーランの下降である。”

(注)コーラン7章157、158節で、ムハンマドは「アンナビー・アルウンミー(民衆出(ウンミー)の預言者)と呼ばれている。しかし「ウンミー」には「文盲の」という意味もあるので、後代において、ムハンマドは読み書きを知らず、それゆえ書物によって歪められていない清浄な心をもった預言者として解釈されるようになった。すなわち、彼の知識は書物を通したものではなく、すべて神からの啓示によるものであった。

 “「神の御言葉(みことば)が人の心に下るとき、そして神的霊感が人の心と魂に入るとき、それはまさに、死者を蘇らせるイエスの息吹をもった子供が人の中に宿ったかのごとき状態である。」(ルーミー『精神的マスナヴィー』より)”

      (ラレ・バフティヤル「スーフィー イスラムの神秘階梯」平凡社より)