真言密教と大本 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・真言密教と大本

 

 “(現地研修会)第一回目に高野山をえらんだ理由は少なくとも三つある。第一は稚姫君命(わかひめぎみのみこと)と高野山開基の因縁。大本神諭の「艮の金神(うしとらのこんじん)稚姫君命が出口の神と現れる時節が参りたぞよ」(明治36年)に見るように稚姫君命は大本開祖の本霊の神である。この神が弘法大師を高野へ導き、守護されていたという。大師は高野山開創にあたり、最先に伽藍の高台にこの神を祭祀している。丹生明神社がそれである。

 第二は大師のみろく信仰。大師は「入定の後は、兜率天に往生し、弥勒菩薩の御前に侍るべし。五十六億余年の後、必ず慈尊と共に下生して吾が先跡を問ふ……」と遺訓しているが、大本では神諭に「みろくの神が御出ましにおなりなさる時節が参り……」とみろくの神の下生を開示する。

 さらに大正八年には、真言宗大僧正の丸山貫長が出口王仁三郎聖師をみろくと報じ、弘法大師から伝わる如意宝殊の宝玉を聖師に献上した事実がある。昭和に入って山岡瑞円(四国六十一番香園寺住職)が、みろく下生の実現をたずね、弘法の丹波に伝わる預言「古川のほとりに一人の神人あらわる 月の輪萩の山」の神人は、まさに出口聖師なり、と観じ、来訪したこと。さらに筆先には「この方も一時弘法とあらわれて」(大国美都雄氏調べ)とあるように、みろく神と弘法の予言と聖師とは一つの糸につながってくる。

 第三は、大師の宇宙観、とりわけ「阿字本生」に代表される真言陀羅尼と大本言霊学との関係である。

 聖師は「本当の言霊学を用いたのは弘法大師ぐらいのもので、真言というのは言霊のことである」また実在の本質について「独り真言密教のみは果分可説と説破し、『阿字本不生』『阿字大日』という根本説を提供している」と高く評すと同時に、一方「真言密教はコトバの発作を詳細に解説したけれども、彼には大いなる欠点が存在して居て全く空虚な議論におわってしまった」と真言と大本言霊学との根本立脚点の違いを明らかにしている。

 研修会はこの三点をめぐって行われ、高野山側からは松有慶高野山大教授が「真言について」を、「島田信了高野山真言宗教学部長が「弘法大師のみろく信仰」を講話、熱心な質疑も続行され、真言密教の今日の教学を窺うことができた。

 一行はこの後伽藍、弘法大師の御廟、霊宝殿をめぐり、さらに勉学院で早朝の密教行に奉修する機会を得、千数百年の大師信仰の根強さを体験した。

 大師はこの地を蓮華台と神通し、根本道場を創建したが、一行には綾部亀岡の聖地と類似した風土を感じることができた。ことに再修理中の稚姫君命を祀る神社に参拝の折には、綾部に祭祀さる大本開祖の神霊を思わずにはいられなかった。

 大師入定地とされる奥の院には、あらゆる階層の墓石が十万余基もたち並んでいるが、不思議な静寂と安堵感がただよっている。

 「高野山創建は最初天皇と貴族の寄進により行われたが、大師没後急速に荒廃し、一時は山上に一人の住む者もなくなった。それが高野聖(こうやひじり)を中心に大師信仰が一般庶民に拡がり教勢を回復した。一般大衆のこの信仰が高野山の真言密教なのです」との島田氏の言葉を裏付けているようであり、大本の今後に大きな示唆をうけた。(以下略)”

 

  (「人類愛善新聞」昭和54年11月号 長谷川洋『空海の弥勒信仰をさぐる』より)