霊流 (ある信徒の体験) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・霊流 (ある信徒の体験)

 

 “第一ページを開いた時、残る八十一巻を思い、非常に憂鬱な気持ちがした。その反面、ようやく物語を手にすることができた、という相反する気持ちが複雑に混じりあっていた。物語の一番はじめには基本宣伝歌がのせてあった。それを見てなんだかほっとした。節をつけて気持ち良く宣伝歌を唱えた。

 さて、それから拝読させていくと何かわからぬ神代のことが、むずかしい見たこともない漢字などを使って書かれてある。拝読してゆくうち再び気が重くなってきた。心の中で「千里の道も一歩から」と自分に言いきかせながらがんばった。

 拝読させていただくことは非常にありがたいことであるということは、観念的にはわかっている。しかし実際拝読していてありがたいという実感は少なかった。古事記について書かれてあるところもあるし、面白おかしく物語みたいに書かれているところもあって、神代の歴史書とマンガをいっしょにしたような感じのところもある。

 物語の中には宣伝使が天の数歌をあげるだけで、群がる悪人がたちまちクモの子を散らすように逃げたり、神言を奏上するだけで、暴風荒れ狂う海がたちまちおだやかになったりする場面が多くある。はじめは、まるでおとぎ話かなんぞのようにしか思えなかった。

 ある時いつものように拝読していたら額に何か温かい圧力を感じた。この時「アッ‼ これだ」と思った。以前礼拝の時感じたものと同じものであった。体で物語の不思議さを感じたのである。物語に関するはじめての体験である。

 それからは物語に対する考え方が変わった。私達凡人にはとうてい物語の底に流れている深い意味は理解しがたい。ただ素直な気持ちで拝読することが一番大切であると痛感した。

 今日も拝読しながら、何も思わずただ素直に向かわせて頂きたいという気持ちだけである。”

 

         (「おほもと」昭和49年8月号 『青年・霊界物語に学ぶ』より)