神は人間の理解を超えた存在 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・神は人間の理解を超えた存在

 

 “……彼の酋長は、吐息を吐きながら再び口を開いて云ふ。

 『天地の間に、果して貴下の仰せのごとき独一真神なる大国治立尊の坐しますとせば、何故に斯のごとき天変地妖を鎮静せず、地上の神人をして恐怖畏縮せしめ、傍観の態度を取り給ふか。いづくんぞ全智全能の神力を発揮して、世界を救助し給はないのでせうか。吾々は真の神の存在について、大に疑ひを抱くものであります』

と云つて祝部神(はふりべのかみ)の教示を待つた。

 祝部神は、事もなげに答へて云ふ。

 『宇宙万有を創造し給うた全智全能の大神の経綸は、吾々凡夫の窺知する所ではない。吾らは唯々神の教示に随つて、霊主体従の行動を執ればよい。第一に吾々神人として、最も慎むべきは貪欲と瞋恚と愚痴である。また第一に日月の高恩を悟らねばならぬ。徒(いたずら)に小智浅才を以て、大神の聖霊体を分析し、研究せむとするなどは以ての外の僻事(ひがごと)である。すべて吾々の吉凶禍福は、神の命じたまふ所であつて、吾々凡夫の如何とも左右し難きものである。之を惟神(かむながら)といふ。諸神人らはわが唱ふる宣伝歌を高唱し、天津祝詞を朝夕に奏上し、かつ閑暇あらば「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と繰返すのが、救ひの最大要務である。吾々はこれより外に、天下に向つて宣伝する言葉を知らない』

と云つた。”

 

     (「霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻」『波上の宣伝』より)

 

 

・ラーマ・クリシュナの言葉 

 “ある日、幾人かの者が神の属性について議論を始め、その属性が理性にかなったものであるかどうかを論じた。そのとき私もそこに居合わせた。ラーマ・クリシュナは彼らを制して、こう言った。

 「もうたくさんだ!たくさんだ!神の属性が合理的であるかどうかを論じて何になります?神は善だとあなた達は言うが、理論で神の善について、私を説得することができますか?幾千人を殺したあの洪水をみなさい!善をなす神がそれを起こしたことをどうして信じられます?この洪水は汚物を洗い流し、土地を肥沃にしたと言えるかもしれません。・・・しかし善い神は、罪のない男女や子供を幾千人となく呑み込まないでそれをやることはできなかったでしょう。」

 そこでその対話者の一人が言った。「それじゃ、神は残酷だと信じなければなりませんか?」

 「ばか!」ラーマ・クリシュナは叫んだ。「誰がそんなことを言うか!両手を合わせなさい、へりくだって言いなさい、『私どもはあなたの性質や行為を知るにはあまりにも弱すぎます。どうか私どもをお照らし下さいませ!』・・・理屈を言わないで、愛しなさい!」”

   (「ロマン・ロラン全集15『ラーマ・クリシュナの生涯』」みすず書房より)

 

 

・聖なる山、アトス山からの言葉 〔ギリシャ正教〕

 “神は原理とか、頭で考えられた信仰とか、なぞ解きの手順などではありません。神はペルソナ、位格あるかた、生きておられるかたなのです。また、わたしたちが従わなければならないのは法だとか、戒律だとかにではなく、人格になのです。わたしたちの修道院では、ある特定の戒律に従いません。修道院長に従うのです。従順はある関係の内面性にくらいしているものです。愛していればいるほど、わたしたちを治めている人に従うことがやさしくなるものです。そこにまた、わたしたちの大きな喜びもあるのです。神を愛する人は神の掟を果たすのに何の苦痛もありません。神の戒めの道を喜んで走るのです。
 ファリサイ派の人たちはいろいろな戒律の文面にしか気をつけませんでした。彼は自分たちの犠牲よりも、むしろ愛を望んでおられるかたを愛することを忘れていたのです。”(アトス山、シモノス・ペトラス修道院、ディオニュシオス神父)

        (ジャン・イブ・ルルー「アトスからの言葉」あかし書房より)