神聖歌劇(演劇による魂の救済) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・神聖歌劇(演劇による魂の救済)

 

 “大本の『神劇』の歴史は、大本の教典「霊界物語」口述一周年を記念して、大正十一年十一月六日、綾部の五六七(みろく)殿で上演されたことに始まる。当日は午後六時から初代総裁(出口王仁三郎聖師)自ら斎主となられ、神前に御礼奉告のあと、「霊界物語」を題材に「少女劇」「老壮劇」などが上演され、約八百名が鑑賞。好評を博したと記録にある。

 信徒の間に、この斬新な教典を普及させようと、初代総裁は「霊界物語」の劇化を勧められ、「大本は、お筆先に『神様の芝居以外できぬ』と書いてある。それで物語を書いといたのや。世の中の芝居を皆神様の芝居にさせねばならないのや。その内に毎日大本でも常設芝居をやるようになる」(雑誌「昭和青年」昭和六年七月号)と、当時の青年に話されている。

 昭和七年一月には亀岡天恩郷に「神劇研究会」がつくられ、亀岡公会堂で対外公演が行われた。「実に素人離れした熱演であり、劇は暗い地獄より明るい天国に展開し歓喜と感謝に充ち、浄明の雰囲気にとろけこむが如き想いあらしめた」(「真如の光」昭和七年一月号)と伝える。初代総裁も臨席され、二日間で三千人が入場した。

 昭和十年八月の初代総裁生誕祭、十月の皇道大本大祭には、総裁自らの脚色・演出で「霊界物語・天祥地瑞の巻」をもとにした「神聖歌劇」が上演され、初代総裁も “天之峰火夫の神”の役、語り部として出演された。この歌劇は第二次大本事件発生前日の十二月七日、松江の島根別院大祭でも上演された。

 一連の神聖歌劇には、一般にはわからない、深い神業的密意もあり、出口澄子二代総裁は「今年になって『天の岩戸開き』の夢を見させて貰いましたが、その夢とほとんど変わらないことを、聖師様がお芝居でされていて、驚きました。もう神界の岩戸は開けていて、その型を神劇で見せて貰ったのだと思います」と語られている。(「真如の光」昭和十年十二月号)

 再発足後も天恩郷では劇団「白梅座」が結成され、さかんに神劇が行われた。昭和四十七年四月には三代総裁の古希を祝い、出口家、本部職員総出演で「天の岩戸開き」が上演された。現在でも、大本青年祭、少年祭などに、神劇が奉納されている。

 「現在の喜劇、悲劇や歌劇には、心から満足出来るだろうか。『人生のユーモラスな半面を見得るような劇』をどれだけ持っているだろうか。見たあと自分が救われたと感じるような劇を、見たことがあるだろうか。現在の、苦悩と恐怖と怨恨と反抗とを表現しているような劇から、私は本当の『救い』が来ようとは思わない」(「神の国」大正十二年七月号)と、魂の救済がある芸術を神劇で創造しようという高い志を、当時の関係者は語っている。今日の文化状況も、当時と同じではないだろうか。殺伐としたドラマが、テレビ番組に溢れている。

 子供から大人までが一緒に参加して楽しむ、神人和楽の世界。神劇は、楽しみながら豊かな神の情に触れ、人間の魂を向上させる力を持つ。来るべき二十一世紀の「霊性文化」の原形が、大本の神劇にあるように思う。”

 

         (「人類愛善新聞」平成2年1月号 『大本と神劇の歴史』より)

 

 

・ルドルフ・シュタイナーの「神秘劇」(秘儀としての芸術)

西川――新たな秘儀の芸術としての演劇を、シュタイナーの神秘劇に即して考えてゆきますと、神秘劇の序幕にエステラという女の人が出てきて、ソフィアという神智学者風の女性の芸術観を批判するんですけれど、現代の芸術の観点から言いますと、その批判はかなり当たっているんですね。

 まず、エステラは人生の苦悩、人生の真実を深く捉えている演劇、これは自然主義的な演劇なんでしょうけれど、そういう演劇を愛しています。ところがソフィアは、そういう演劇は不毛な人生批判で、人生の本当の深みを解き明かしていないと言います。シュタイナーは「普通の人間が日常行っていることを舞台で演じることはギリシャ人にとって、馬鹿げたことでした。彼らが意図したのは、人間の中に神を捉えることだったのです。……人間に意志を与えるために人間の中に入ってくる深みの神、ディオニュソスを古代の人々は舞台の上で見ようとしたのです」(「人智学と文学」)と言っていますが、そして、これはニーチェが『悲劇の誕生』の中で展開した芸術論にもつながる洞察だと思いますが、シュタイナーの神秘劇は、シュタイナー神秘学の核心たるカルマ論の上に構築された、カルマの秘儀の芸術になっています。”(高橋巌+笠井叡+西川隆範+鎌田東二『オイリュトミーにおける秘儀と芸術』)

 

               (高橋巌監修「オイリュトミー」泰流社より)

 

 

・R・シュタイナー作 「薔薇十字神秘劇 『第一部 認識の関門(秘儀への参入)』」より

 

エステラ

 「貴女とは久しい間のお付き合いですので、よくご存じのはずですけれども、私は、自分の生まれや常識的な考え方が良いとしているものを毎日毎日追い求める生活から、何とか抜け出すことができました。私が知りたいと思ったのは、どうしてこんなに多くの人間が、見たところ何の罪もないのに、苦しみを背負わなければならないのか、ということでした。そして、人生の喜びや悲しみについて、もっとよく知ろうと努めました。また、私の手の届く限り、色々の学問もして見て、何とか解決の糸口を見つけようとしました。――そうですわ、今ちょうど問題になっていることをとり上げてお話ししましょう。私、本当の芸術とはどんなものかわかりましたの。それがどんなに人生の本質をとらえ、真理につながる一層高い世界を示すものかが、私にも見えるようになったと思います。そういう芸術を味わうことは、時代の鼓動を聴くことだと思うのです。ですからソフィアさん、もし貴女がそういう生きた芸術に興味をお持ちにならず、つまらない教訓めいた寓話としか私には思えないものを大事がられ、生きた人間よりは人形のようなこしらえものの方を尊重なさるとしたら、また、本当の人生の中で毎日私達の心に訴えかけて来るものとは縁遠い、象徴的な出来事ばかりに関心をお持ちになるとしたら、私は鳥肌の立つ思いがするのです。」

 

ソフィア

 「エステラさん、貴女は、貴女の目には小賢しい概念としか映っていないちょうどその場所に、実は最も豊かな生があるのだということを、頑なに斥けていらっしゃいます。そして、貴女が生命に満ちた現実とおっしゃるものも、その源泉にさかのぼって測るのでなければ、ただそれだけでは貧弱極まるものだ、と言うに違いない人達だってあってよいはずですのに、それが貴女にはおわかりにならないのです。こんなことを申しますと、お怒りになるかも知れません。でも私達はお友達ですから、はっきりお話しした方がよいと思います。貴女も、ほかの多くの人たちと同じように、霊性と呼ばれているもののうちで、ただ知力を荷う部分しか御存じありません。霊性の思考的側面しかわかっていらっしゃらないのです。自然の中にある発芽力が生命体を形づくっていくのと同じように、根源的な力によって人間を形づくっていく、生命を持ち創造力を持つ霊性のあることを、貴女はお認めになりません。そして、霊性を否認するものとしか私には思われないような種類の芸術を、多くの人達と同じように、これこそ素朴で根源的なものだとおっしゃいます。私達の持っている世界観はそうではなく、素朴な生命力と完全に意識された自由とを、一つのものに融合するのです。私達は素朴なものを意識的に私たちの内部へ取り入れ、しかもそれによってその素朴なものの持つ新鮮さ、充実、根源性を、いささかも減退させません。貴女は人間の性格などは、言うなれば、自ずから形成されるはずのもので、せいぜい我々に出来るのは、それについて考えるだけだ、と思っていらっしゃいます。思考がいかに創造的霊性の中へ入り込んでいき、存在の源泉に触れ、自らが創造性の萌芽であることを証明するかを、貴女は頑なに認めようとはなさらないのです。種子の内蔵する発芽力は、植物がどのように成長して行くべきかを、あらかじめお説教などしないで、植物の中に住む生きた本質としての自己をまず顕現するのと同じように、私達の理念はお説教などいたしません。それは生命を燃えたたせ、それを私たちに贈ってくれるために、私達の本性の中へ自己を投入して来るのです。私に人生が意味あるように思われるようになりましたのは、ひとえにこのような理念が私にも理解できるようになったおかげなのです。おかげで私は生きる勇気を得たばかりでなく、洞察力と強さとを持てるようになり、私の子供達を通俗的な意味で勤勉な、外面的人生に役立つ人間に作り上げて行くことから一歩を進めて、心の中に深い平安と充実とを持つ人間に育てて行けるかもしれないという希望が生じました。あれこれ申しますかわりに、一言だけ言わせていただきます。貴女が多くのお仲間と一緒に抱いていらっしゃる夢は、現実ないしは人生と人が呼んでいるものを、貴女がことある毎に幻想だとか夢想だとかけなしていらっしゃる、あの深い体験に結びつけることが人間に成功したとき、はじめて実現するものなのです。それが私にははっきり見えていると申し上げて良いと思っております。貴女が本当の芸術だと信じていらっしゃるものの幾つかは、私にとりましては全く不毛な人生批評にしか過ぎないと申しましたら、お腹立ちになるかもしれません。でも、飢えた人、嘆き悲しむ人、板の上で腐っていく人の外面だけを眺めていたのでは、飢えも癒せず、涙も乾かせず、腐敗の根源を見通すこともできないでしょう。普通に外面に見えるものは、人生の本当の深みや、万物相互の深いかかわり合いの真相からは、大変に遠くへだたっているのです。」

 

          (「ルドルフ・シュタイナー研究 創刊号」アディン書房より)