蛭子(ヒルコ、エビス)について | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・蛭子(ヒルコ、エビス)について

 

福禄 『アハヽヽヽヽ、コリヤ御尤(ごもっと)もだ。オイ戎(えびす)、コレサ聾(つんぼ)どの、エベスどの エベスどの エベスどの 貴神(こなた)は、マア舳(へさき)に出て釣許(つりばか)りして厶(ござ)るは一体、こなたは何う云ふ福の神ぢやい。福の神にも色々あつて、雑巾を持つて縁板などをフクの神もあれば、尻をフクの紙もある。きつぱりと素性を明かして呉れないか』

戎 『俺かい。おれはナ、何事も聞かざる、見ざる、言はざると云つて、庚申の眷属を気取り、三猿主義を固守し、只堪忍をのみ守つて居るのだ。徳は堪忍五万歳だ。抑も拙者は、蛭子(ひるこ)の命と云つて、正月三日寅の一天に誕生した若蛭子(わかえびす)だ。商売繁昌を祈るが故に欲の深い連中から商売の神と崇められて居るのだ。誠に目出度う候ひけるだ、アハヽヽヽヽ。十日戎の売物は、はぜ袋に、取鉢、銭がます、小判に金箱、立烏帽子、桝に財槌(さいづち)、束熨斗(たばねのし)、お笹をかたげて千鳥足』

 

          (「霊界物語 第六十五巻 山河草木 辰の巻」『七福神』より)

 

 

・ストレンジャーであり障害者である「福の神」

 

 “エビスの名が、元来は外来の者あるいは外来の神を示すように、エビスが他の世界から訪れて来た神であることを示す伝承は多い。先にあげた、大分県杵築町納屋ムラのエビス神社の御神体は、かつては近くの高須ムラの漁師の網にかかった石であり、そこで祀られていたのであるが、この人々が農耕を行い下肥を扱うのを嫌い、夢の中に現われて納屋ムラへ移してほしいと告げたので移されたのだという。また山口県玖珂郡余田村北迫の流恵酒社の御神体は五〇〇年か六〇〇年前に広島に祭られていたものが流れて来たものであるという。先に述べた鹿児島の内之浦ではエビスさまは他所へ旅することを喜ぶという信仰がある。”(波平恵美子「ケガレの構造」青土社より)

 

 (複数の王朝があったという)“そういう視点で「古事記」や日本書紀」を読むとワクワクするような話が転がっています。前にも少しお話ししたと思いますが古事記の冒頭でイザナギとイザナミがよびかけあってセックスをします。その時イザナギ、イザナミは陰と陽です。柱の回りを回り声をかける時、男のイザナギの方から声をかけなければいけないのに女のイザナミの方から声をかけてしまうわけです。そして子供が生まれるのですが、それが足のない子なんです。足のない子は蛭子といいます。これでは役立たずなので葦船に乗せて海に流してしまいます。それであらためてイザナギの方から誘ってセックスをし直すんです。それで生まれたのがアマテラスとツクヨミとスサノオです。つまりそこからがまともな神様ということになっているんです。

 このことはいろんな意味を含んでいますが、それがすぐさま男尊女卑ではないのだとしきりに言う人がいて、確かに古事記を陰陽思想で読んでいくと様々な記号的な意味がわかるのですが、時代から言うとやはり古代の母権制を葬るということが非常に大きなテーマとしてあったと言っても間違いないと思います。しかも父の権力を確立する時にその境目になるのが障害児の誕生だということは非常に面白いところです。

 これは何故かというと征服者の一番恐れていることは血の汚れなんです。血の汚れというのは凄いジレンマで、自分が征服した民族への恐怖のあまり同族結婚を繰り返していくとだんだん劣性遺伝子が溜まってきまして障害児が生まれる確率が高まります。それを避けるために血を汚さなければいけません。初期の天皇家には特にそのジレンマが強かった。障碍者が生まれると自分が征服した民族の神、伊勢とか出雲にお参りする。つまり伊勢神宮や出雲大社というのは初期の王権にしては征服された民族への鎮魂の象徴です。だからそこに行ってお詫びをしにいくわけであります。

 障害者の象徴としての蛭子をつかって障害者を無かったこととして葦舟に乗せて流したという神話をつくったわけです。ところがその神話というのはすでにそれ以前にいた瀬戸内海の海洋民族が持っていた神話なんです。しかしそれはぜんぜん意味の違う神話で、これは今でもハワイやポリネシアに残っているので辿ることはできます。三人兄弟の話であほな兄さんが二人いて大変元気でスポーツマンですが根性が悪いんです。だから酷く抑圧的な王政をしいてしまいます。三番目にとてもきだてのいい子が生まれるのですが、その子は足がないのです。それで葦舟に乗せて流してしまいます。葦舟というところで南太平洋の産物だという事がわかりますね。その三番目の子は海の神様に拾われて結局立派に育って帰ってきます。ところが帰ってきたら上の兄さんの政治があまりに酷いのでそれを打倒しましてすばらしい国を作ったという神話があります。このような話がメラネシア・ポリネシア系に残っているわけですから瀬戸内海の漁民にも残っていたに違いない神話です。

 古事記はその前半だけを使って葦舟に載せて障害者を流したというところで終わるのが「古事記」の冒頭です。ところがそれでは終わらないという事でその続きを作ったわけです。瀬戸内海の漁民は自らの神話の中で障害者である蛭子が海の中でりっぱになって帰って来た。それがエビスなんです。足がない神さまです。だから舟の中で座ったきりです。いつも釣り竿と鯛を抱えていますね。それは海洋民族の守り神だということを意味しています。大和朝廷に制圧された海洋民族の護り神です。エビスはつまりストレンジャーなんです。わざわざストレンジャーという名の神様を呼び出してそれは日本の古代の海洋民と騎馬民の争いの一つのパターンです。海幸彦と山幸彦もその一つです。

 そうやって天皇家に切り捨てられた側が抵抗する神話を生み出していったということ。今でもそこの神社で語りつがれている古事記外史というのが存在するんです。そうすると古事記というのは様々な文化がうずまいている日本でたまたま勝った側から書き直していますけれども、そこにはよくみると負けた側の事も書いてあるんです。それをちゃんと細かく読むともっともっと面白い読み方ができるんです。

 こういうことを言ったのは石川三四郎というアナーキストです。石川三四郎が獄中で非常に丹念に「古事記」を読みまして石川三四郎選集第一巻で「古事記神話の新研究」というのがあります。これは明治時代の文章で獄中で書いたものですから決して読みやすくはないのですけれどもその後の石田英一郎や吉田敦彦の研究を予感していたとしか思えないくらい非常に面白いことを書いているわけです。そういう意味では「古事記」「日本書紀」を現在の関心から読み直してみるという事は絶対に必要な事です。”(津村喬「石川三四郎『古事記神話の新研究』をめぐって」より)

 

       (津村喬「世紀末 The End Of Century」関西気功協会出版部より)