「かいしんしたうえにもかいしんしてくだされよ」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「かいしんしたうえにもかいしんしてくだされよ」 (「かいしん」の意味)

 

 “御井敬三先生といえば、鍼灸の大家としてまた教主様の御言葉により飛鳥を守る為生涯を捧げたことで余りにも有名な方です。その御井先生が出雲に来られた時に伺った話でございます。(以下御井先生のお話)

 

 《まだ聖師様が御元気でいらっしゃった頃でしたが、お筆先を拝読していますと随所に「かいしんしてくだされよ」のお言葉が出て来ます。何とか本当の意味を知りたいと考えれば考える程わからなくなってしまって、そうなると矢も楯もたまらなくなって紀州の家を飛び出すと亀岡へ駆けつけました。早速聖師様にご面会をお願いして部屋に入りますと、先客に中年のご婦人が一人おりました。ご婦人が『聖師様お筆先に「かいしん、かいしん」とたくさん出て来ますが、どういうことですか』と聞かれるのです。自分は何と同じような事を思う人もある事か、と感心していますと、聖師様はこともなげに「かいしんという事はな、天地をお造りになった親神様がおいでになるという事を知り心から神様をお斎りさせて頂くことや」と答えられました。何だそういうことだったのかと、ご面会の目的は達したのですからすっかりわかった気になって帰国したものです。家に帰るとすぐお筆先をまた開きました。ところが今度は「かいしんした上にもかいしんしてくだされよ」とあるのです。さあ、またわからなくなりましてがっかりすると、すぐに亀岡へ再び向かいました。聖師様にまたお聞きするつもりです。聖師様のお部屋では前とは違う婦人に、何か話しておられました。私が坐ると、その婦人が『聖師様、お筆先の中に「かいしんしたうえにもかいしんしてくだされよ」と書いてありますがどういうことですか』と聞かれるのです。不思議な事だと思いながら坐っていますと、聖師様は「それはなあ、かいしんという事は天地の親神様があったとわかってお斎りさせて頂く事で、次にかいしんした上にもかいしん、というのは、その神様の教えを知らせていただき一つづつ実行させて頂くということやがな。だから何ぼでも、かいしんした上にもかいしんせんならんのや」とご教示して下さるのでした。私はなるほどそうだったのかと喜び勇んで紀州の家に帰っていったのでした。》

 

 聖師様ご昇天より早くも二十六年、お話しくださった御井先生も昇天されましたが、お筆先を拝読するたび「改神」「かいしんした上にもかいしん」の文字に思い出されるのです。”

 

           (「おほもと」昭和49年2月号 松平隆基『間接教示』より)

 

 “「大本」では「かいしん」に就いては聖師様によって「改神」「改信」「改心」と同音意義三様の表現でお示し頂いております。聖師様のこの三様のご表現については、それぞれ深遠な意義がこめられているものと拝察されますが、自らの体験を通して私なりの解釈を許して頂きますならば、「改神、改信、改心」はそれぞれ別個のものでなく、一つのものではないかと思われます。(以下略)”

 

           (「おほもと」昭和49年2月号 高沢志郎『かいしん論』より)

 

 

・「神に向き直り、向き直れ」(聖書の中の言葉、「悔い改めよ」は誤訳である)

 

 “イエスは四〇日の断食の後、悪魔(サタン)に試みられ、その誘惑に打ち克ち、数々の奇跡を起こしていきました。その教えの第一声は「悔い改め福音を信ぜよ」だったと記録されています。(マルコによる福音書第一章十五節)

 この「悔い改め」という日本語は、新約聖書ギリシャ語のメタノイアの訳語です。キリスト教が入ってきたことでできた言葉です。それまでの日本語の世界にはなかった心持ちと言ってよいでしょう。

 イエス自身はユダヤ人で、ヘブライ語とアラム語を使い、ギリシャ語は話さなかったようです。イエスのオリジナルの言葉はおそらく「シュブー、(神に)向き直れ」だったのですが、この言葉が失われ、後にギリシャ語で記録されたメタノイア(心を変えること、回心)が、キリスト教の核の言葉として流通していきました。イエスのヘブライ語のメッセージと、後世のギリシャ語の記録との間には見逃せない違いがあります。今回はヘブライ語聖書に基づいてギリシャ語のメタノイアのおおもとを学び、キリストのメッセージを理解したいと思います。”(P174)

 

 “心からの悔い改め、それも個人の内心の問題に踏み込んだ内容は、ヘブライ語聖書では厳密にはエゼキエル書十八章の一箇所しかありません。以下、原文に忠実に訳してみます。

 

 『それゆえ各人の行き道に応じて私がおまえたちを裁く。イスラエルの家よ、とわが主ヤハウェは言われる。向き直り向き直れおまえたちの全ての背きから。そうすればおまえたちに罪のつまづきは無くなるだろう。全てのおまえたちの背きを自分の上から投げ出せ。それはおまえたちが犯した背きである。自分に求めよ、新しい心と新しい霊とを。なぜ死ぬことがあろうか、イスラエルの家よ。私は誰の死をも喜ばない、と主ヤハウェは言われる。おまえたちは神に向き直り、生きよ。』

 

 「向き直れ」は合計3回出てきました。人間の犯した背きから、神に向き直れという預言です。ヘブライ語は繰り返しを好む言語で、「歩きに歩いた」とか、「向き直り向き直れ」という表現をします。日本語でも「どんぶらこ、どんぶらこ」といった表現があちこちに見られます。「向き直り向き直れ」という繰り返しによって、意味を強めているのです。

 この「向き直れ(シューブー)」は、ほかの預言のエレミヤ書にも書かれていて、おそらくイエス時代にも使われていた言葉です。エゼキエル書のこの言葉には、「人間が生まれつき罪を背負っている」とか、「アダムから罪が入ったから人間は全て罪深い」といった考え方はありません。とてもシンプルに、体の向きを直すという意味が中心です。「原罪から救われるために神に向き直れ」などとは全く言っていないことに注意してください。つまり「人間は生まれながらに罪の中にある」という考えはありません。

 エゼキエル書十八章で問題になっているのは、イスラエルが犯した背きの内容と、そのひとりひとりの決断、そして個々の魂の行き先です。とくに問題とされている「おまえたちの背き、ビシュエヘム」とは、他の神々と姦淫をし、神の掟に従わなかったことです。その状態からひとりひとりが立ち直り、悪事から離れて、魂の死から逃れることをエゼキエルは勧めているのです。”(P179~181)

 

      (山口勇人「キリストの理解 ヘブライ語聖書から読み解く」イザラ書房より)