伊勢の香良洲神社 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・伊勢の香良洲神社 (大本開祖・出口ナオ=稚姫岐美命(わかひめぎみのみこと)を祀る)

 

 “大本神諭明治四十五年三月十五日に、

 「出口直七十七才明治四十五年の三月の八日立ちて御伊勢の大神宮殿に参拝を致したのはまだ昔から無い事でありたぞよ。御加良洲のお宮に同じ身魂の出口直を引き添うて御迎えに参りたお供は結構でありたぞよ。世の変わり目の金輪際の折でありた……」

と示されており、明治四十五年三月八日国常立尊の神勅によって大本開祖、聖師、二代教主、三代教主、役員信者約一三〇名が伊勢神宮に、引き続き賀良洲神社に参拝され、開祖はこの参拝後水行を止められた。

 天照大神の妹君である稚姫岐美命がこの社の祭神となられたことについては、次のように説かれている。本部常任参議大国伊都雄氏、道場次長木庭次守氏の説明によると、

 神代の昔、わかひめぎみのみこと(稚姫岐美命)の再生であられる初稚姫命(はつわかひめのみこと)の住居跡に琉(りゅう)の宝玉をご神体として生田神社が建立された(霊界物語第二十二巻、三十三巻「三千世界の梅の花 かおりゆかしく実を結び よもの春野をかざりたる 桜も散りてむらむらと 咲きみだれたる卯の花の 白きを神の心にて 生田の森の片ほとり 花をあざむく玉能姫 初稚姫のふたりづれ 初夏の景色をながめつつ 再度山の山頂に 神のみ告げをこうむりて 登りゆくこそかしこけれ、」「これが言依別の命さまより預かりました琉の宝玉でございます。あなたはこの玉をどこまでも保護して、長くこの森におとどまりくださいませ。わたしは神命により、玉能姫、駒彦と共に球(きゅう)の玉を持って、紀の国路へまいり、これを祀らねばなりませぬから、どうぞ、よろしゅうお願い申します」)が、この神社の分霊を次のような伝説によって現在の香良洲神社にお祀りしたものである。

 

 神代の昔、素戔嗚尊と稚姫岐美命とを大日孁(おおひるめ)尊様が、天津罪を犯したものとして生木を割くようにして、遥々高麗の国へ稚姫岐美命様を追いやられた。風の朝雨の夕、天教山を遠く離れた異郷にあって、尊恋しさに泣き明す姫命は、思ひにたへかねて烏の羽裏に恋文をしたため、この切なる思いの願はくは途中妨げらるる事なく尊様の御手に入れかしと祈りを篭めて烏を放つた。烏の羽裏に文を書いたのは、黒に墨、誰が見ても一寸分らぬようにと用意周到なるお考えからであつた。烏は玄海の荒浪をこえ、中国の山又山を遙か下界に眺めつつ息をも休めず、飛びに飛んで伊勢の国まで辿りついた。この時烏はもう極度に疲れてしまつて、この地で死んでしまつたのである。

 今のお烏神社のあるところがその地なのである。だからお烏神社の御神体は、この烏の羽根だというのである。一方、尊からの御返事を待ちわびた姫命は、いつ迄たっても烏が復命しないので、遂に意を決して自転倒島へと渡られた。また同じ思いの高天原での素盞嗚尊も、朝鮮からの便りが一向ないので痛く心をなやませられて、遂に自ら朝鮮に渡られたが、壇山に到着された時には、姫命の影も見えなかつた。お二人は行き違いになったのである。

 かくて稚姫岐美命は遂に紀州の和歌の浦でなくなられたのである。玉津島明神というのが、姫君をお祀りしたものである。(玉鏡 ― 素尊と稚姫岐美命)

 これによって、香良洲神社の祭神が稚姫岐美命であり、大本開祖の御精霊であって天照大神のお妹子であるとされているのである。……(中略)

 さらに、「おからす」という言葉に関しては、種々の文字(賀良須、加良須、香良洲、お烏、御加良洲)が使われているが、いずれも大和言葉の発音からそれぞれ引用したものの如くである。しかし「からす」という言葉は言霊学上、天照大神、素戔嗚尊、稚姫岐美命に深い因縁があることが明らかにされている。”

 

       (「おほもと」昭和38年1月号 西村雄一『香良洲神社』より)