“昔から出雲の日御碕神社には旧の正月になると必ず龍蛇が海を渡ってくるので、その旧正月になると日御碕の海岸には、神社および付近の住民は心身を清めて龍蛇を待つ。すると、やや嵐のような状態となって海洋が騒がしくなると、海を渡って龍蛇が上陸して来る。それを待ち受けて三宝に乗せ、神社に奉るのである。
このことは昔から行われている行事の一つであるから、その所の人は当然のごとく不思議とも思わず、毎年くりかえされている。だが他国の人にとっては、そんな馬鹿な、龍蛇なんて、しかも陸上の動物が海を渡って来るなんて。またどこから来るのだ…とおとぎ話のごとく問題にしない。筆者も話を聞いた時、迷信だと思っていた。
しかし出雲の古い歴史などを研究し、実態を見るにいたって、これは不思議と非常に興味をひかれた。ある時、出口聖師と共に出雲より対馬にわたる事になり、対馬の浅茅湾のそばにある神社に参拝したとき、聖師は、
「わしは拝殿のそばまで行くが君はずっと下で拝め」
ということであったので、言われるままにしていると、聖師の神言の祝詞が半ばまで進んだとき、白い一丈もある蛇が聖師の後を通って社殿の横に行った。驚いて聖師に注意の声をかけた時、聖師はちょっと後ろを向いて、顔を一寸と動かされて、うなずかれたまま祝詞を最後まであげられ、それが終わると、
「大国、見たか、これだよ」
と言われた。
後に「出雲にあがる龍蛇は、この神の使いで、毎年ここから出て行くのじゃ。今の人には分からん、ここが日本海岸からは龍宮で、その龍宮の使いが日御碕神社に毎年渡って行くことになっているのじゃ」との事であった。
なるほど、あの対馬の港湾の水の色は、青みを帯びて実にきれいであり、その神社には何か神厳なものがある。しかも日露戦争の時には、その龍蛇が三十匹もあがったことは出雲の海岸の人達は事実を見ており、疑っていない。また龍蛇は尻尾が平らになって海中を泳ぐに適応しているのである。
天橋立のすこし海岸よりにある漁師が、子供のなぶる亀を買い受けて日本海に放してやった。するとある日、大きな亀が出て来て龍宮へ案内いたしますと浦島太郎を背に乗せて龍宮へ案内したというおとぎ話が伝わっている。
このことは、聖師の説に従うと亀は船であり、龍宮とは対馬であり、浅茅湾の神社の使いであって、浦島太郎はその時女性の宮司の姿を見て乙姫と思い、対馬で年を経て本土に帰国したことになる。当時、神司は女性であり、古来からの神司は女性が主であったことを噺として伝えたものであるということであった。卑弥呼も神司であり、その地方を治めていたという歴史的のものも同一であって、昔は女性が神司であり、地方を治めていたのである。”
(「いづとみづ」№83 大国美都雄『神統の火と水⑤』)
“陰暦の十月十三日がその祭りである。竜蛇とよばれるこの海蛇は大小さまざま、30センチから2メートルにおよぶ大きいものもある。背は固い鱗でおおわれ、口には鋭い歯がある。祭りの日ではなくとも、大社の稲佐の浜のものは大社へ、日の御碕の海岸であがった竜蛇は日御碕神社へ、北浦の海岸のものは佐太神社へと、かならず土地の人はそれぞれ奉納することになっているが、神社ではこれを剥製にし、豊作、豊漁あるいは火難よけ、家門繁栄のしるしとして、信徒の人々は競ってもらいうけて帰る。この竜蛇信仰は、いつごろ始まったのかは明瞭でないが、室町末期にすでにあったことは記録に明らかである。”
(千家尊統「出雲大社」学生社より)