「聖言」の内的な意味 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・神から発せられた「聖言」には文字上の意味の他に内的な意味がある。

 

 “大神が予言者と物語り給ふ時は、太古即ち神代の人間に於けるが如く、其内分に流入してこれと語り給ふことはない。大神は先づおのが化相を以て精霊を充たし、此充たされた精霊を予言者の体に遣はし給ふのである。故に此精霊は大神の霊徳に充ちて其言葉を予言者に伝ふるものである。斯の如き場合は、神格の流入ではなくて伝達といふべきものである。伝達とは霊界の消息や大神の意思を現界人に対して告示する所為を云ふのである。

 而して此等の言葉は大神より直接に出で来れる聖言なるを以て、一々万々確乎不易にして、神格にて充たされてゐるものである。而して其聖言の裡(うち)には何れも皆内義なるものを含んでゐる。而して天界に在る天人は此内義を知悉するには霊的及び天的意義を以てするが故に、直に其神意を了解し得れども、人間は何事も自然的、科学的意義に従つて其聖言を解釈せむとするが故に、懐疑心を増すばかりで到底満足な解決は付け得ないのである。茲に於てか大神は、天界と世界即ち現幽一致の目的を達成し、神人和合の境に立到らしめむとして、瑞霊を世に降し、直接の予言者が伝達したる聖言を詳細に解説せしめ、現界人を教へ導かむとなし給うたのである。”

 

 “前巻にもいつた通り、天人は現界人の数百言を費さねば其意味を通ずることの出来ない言葉をも、僅かに一二言にて其意味を通達し得るものである。故に開祖即ち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直に其意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それ故に其聖言を細かく説いて世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が、相応の理によつて変性女子の肉体に来り、其手を通じ、其口を通じて、一二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、其内分に流入せしめむ為に、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。故に開祖の『神諭』を其儘真解し得らるる者は、已に天人の団体に籍をおける精霊であり、又中有界に迷へる精霊は、瑞の御霊の詳細なる説明に依つて、間接諒解を得なくてはならぬのである。而して此詳細なる説明さへも首肯し得ず、疑念を差挟み、研究的態度に出でむとする者は、所謂暗愚無智の徒にして、学で知慧の出来た途中の鼻高、似而非学者の徒である。斯の如き人間は已に已に地獄界に籍をおいてゐる者なることは、相応の理によつて明かである、斯の如き人は容易に済度し難きものである。何故ならば、其人間の内分は全く閉塞して、上方に向つて閉ぢ、外分のみ開け、その想念は神を背にし、脚底の地獄にのみ向つてゐるからである。而して其知識はくらみ霊的聴覚は鈍り、霊的視覚は眩み、如何なる光明も如何なる音響も容易に其内分に到達せないからである。されど神は至仁至愛にましませば、斯の如き難物をも、種々に身を変じ給ひて、其地獄的精霊を救はむと、昼夜御心を悩ませ給ひつつあるのである。あゝ惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)。“ 

 

       (「霊界物語 第四十八巻 舎身活躍 亥の巻」『第一章 聖言』)

 

 

・アレキサンドリアのオリゲネス(2~3世紀 エジプト)の聖書観

 

 “オリゲネスは、人間が体・魂・霊から成るように、聖書も体・魂・霊から成り、体としての文字通りの意味、魂としての道徳上の意味、霊としての神の永遠の神秘や来るべき代のことを表している意味があると考える。彼はいう、「ソロモンの格言の書の中には、聖書の理解にあたって遵守すべき原則のようなものが明言されている。『あなたは思慮深さと学識をもって、これらのことを三回(三回という言葉は70人訳のみにみられる)あなたのために書き記しなさい。それは、あなたに問いただす人々に真理の言葉をもって答えるためである』と。したがって、各自がその魂のうちに聖書の理解を三回記すべきなのである。それは、まず単純な人々が、いわば聖書の体そのもの――聖書の普通の歴史的な意味を、ここで聖書の体と呼んでいる――によって教化されるためであり、次にある程度進歩し始め、より一層深く洞察しうる人々が聖書の魂そのものによって教化されるためであり、ついに完全な人々・・・が、『来るべき善いことの陰影を宿す』霊的律法によって教化されるためである。したがって、人間が身体と魂と霊とによって構成されているといわれるように、人間の救いのために神の賜物として与えられた聖書も同様に構成されているのである」(四・二・4)。

 ところが、ごくわずかではあるが、文字どおりの意味には取れない箇所がある(四・三・1~2にその例があげられている)。それらは、聖書には文字どおりに理解される意味のほかに、霊的な意味もあることを理解させるために、神が故意に、挿入させたものである(四・三・9)。これが、「つまずきの石」である。したがって、「土の器の内に隠された宝」のように、聖書には常に霊的な意味が隠されているのであるから、この霊的な意味こそ聖書の中に探し求められねばならないのである。まさに、この霊的な意味の探究に、彼はその生涯のすべてをかけたのである。もちろん、聖書の意味を究めるには、聖書の真の著者である聖霊に満たされなければならない。そのためには心を清め、神に従う生活に精励せねばならない。だが、それにしても、人間の知恵はあまりにも貧弱で、神の無限の知恵を仰ぎ見るのは、神の知恵であるキリストと完全に一つになり、キリストと共に父なる神の顔を仰ぎ見る時のことである。” 

        (小高毅著「オリゲネス 人と思想 113」清水書院)

 

 

 

・「般若心経秘鍵」(弘法大師空海作)

 

 “如来の説法は一字に五乗の義を含み、一念に三蔵の法を説く。”

 

 

 

・聖クラーン(コーラン)第三章第五節

 

 “(アッラー)こそはお前にこの聖典を下し給うた御方、その中にはこの聖典全体の母体〔基礎的、本質的部分の意〕とも言うべき、文句のはっきりしたところと、それから別に曖昧なところとがあって、心の中に邪曲を宿す者どもは、えてしてこの文義曖昧な方に取りつきたがり、それをもとにして異端騒動を捲き起こそうとはかったり、また自分勝手な解釈をこころみようとする。だが本当の解釈はアッラーだけが御存知。しっかりとゆるぎない知識をもつ人々は、《私どもはそれ〔コーラン〕を信じておりまする。すべては神様のおつかわし下さいましたもの》という。ただ心ある人々のみ(かくのごとく)正しく反省する。”