主神は神素盞嗚大神 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・霊界物語において、主神(すしん)とは神素盞嗚大神(かむすさのおのおほかみ)である。

 

 “最上天界即ち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神(おほくにとこたちのおほかみ)が天地万有一切の総統権を具足して神臨し給ふのであります。そして大国常立大神の一(また)の御名を天之御中主大神(あめのみなかぬしのおほかみ)と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれ給ふのであります。この大神の御神徳の完全に発揮されたのを天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)と称へ奉るのであります。そして霊の元祖たる高皇産霊大神(たかみむすびのおほかみ)は、一名(またのみな)神伊邪那岐大神(かむいざなぎのおほかみ)又の名は日の大神と称へ奉り、体の元祖神皇産霊大神(かむみむすびのおほかみ)は一名神伊邪那美大神(かむいざなみのおほかみ)又の名は月の大神と称へ奉るのは、此物語にて屡(しばしば)述べられてある通りであります。又高皇産霊大神は霊系にして厳(いづ)の御霊(みたま)国常立大神(くにとこたちのおほかみ)と現はれ給ひ、体系の祖神なる神皇産霊大神は、瑞(みづ)の御魂(みたま)豊雲野大神(とよくもぬのおほかみ)又の名は豊国主大神(とよくにぬしのおほかみ)と現はれ給うたのであります。この厳の御魂は再び天照大神(あまてらすおほかみ)と顕現し給ひて天界の主宰神とならせ給ひました。因(ちなみ)に天照皇大御神様と天照大神様とは、その位置に於て神格に於て所主の御神業に於て大変な差等のある事を考へねばなりませぬ。又瑞の御魂は、神素盞嗚大神(かむすさのをのおほかみ)と顕はれ給ひ、大海原の国を統御遊ばす神代からの御神誓である事は神典古事記、日本書紀等に由つて明白なる事実であります。然るに神界にては一切を挙げて一神の御管掌に帰し給ひ宇宙の祖神大六合常立大神(おほくにとこたちのおほかみ)に絶対的神権を御集めになつたのであります。故に大六合常立大神は独一真神にして宇宙一切を主管し給ひ厳の御魂の大神と顕現し給ひました。扨(さ)て厳の御魂に属する一切の物は悉皆(しっかい)瑞の御魂に属せしめ給うたのでありますから、瑞の御魂は即ち厳の御魂同体神と云ふ事になるのであります。故に厳の御魂を太元神と称へ奉り、瑞の御魂を救世神又は救神と称へ又は主(す)の神と単称するのであります。故に此物語に於て主(す)の神とあるは、神素盞嗚大神様の事であります。主の神は宇宙一切の事物を済度すべく天地間を昇降遊ばして其(その)御魂を分け、或は釈迦と現はれ、或は基督となり、マホメツトと化り、其他種々雑多に神身を変じ給ひて天地神人の救済に尽させ給ふ仁慈無限の大神であります。而して前に述べた通り宇宙一切の大権は厳の御魂の大神即ち太元神に属し、この太元神に属せる一切は瑞の御魂に悉皆属されたる以上は神を三分して考へることは出来ませぬ。約(つま)り心に三を念じて口に一をいふことはならないのであります。故に神素盞嗚大神は救世神とも云ひ、仁愛大神(みろくのおほかみ)とも申上げ、撞(つき)の大神とも申し上げるのであります。この霊界物語には産土山(うぶすなやま)の高原伊祖(いそ)の神館(かむやかた)に於て神素盞嗚尊が三五教(あなないきょう)を開き給ひ数多の宣伝使を四方に派遣し給ふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界即ち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍し給うた事実であります。ウラル教やバラモン教、或はウラナイ教なぞの物語は、大抵顕界に関した事実が述べてあるのです。故に三五教は内分的の教を主とし其他の教は外分的の教を以て地上を開いたのであります。故に顕幽神三界を超越した物語と云ふのは右の理由から出た言葉であります。主の神たる神素盞嗚大神は愛善の徳を以て天界地上を統一し給ひ、又天界地上を一個人として即ち単元として之を統御したまふのであります。譬へば人体は其全分に在つても、其個体にあつても千態万様の事物より成れる如く天地も亦同様であります。人間の身体を全分の方面より見れば肢節あり機関あり臓腑あり、個体より見れば繊維あり神経あり血管あり、斯くて肢体の中にも肢体あり部分の中に部分あれども個人の活動する時は単元として活動する如く、主神は天地を一個人の如くにして統御し給ふのであります。故に数多の宣伝使も亦主神一個神格の個体即ち一部分として神経なり繊維なり血管なりの活動を為しつつあるのであります。天人や宣伝使のかく部分的活動も皆主神の一体となりて神業に奉仕するのは恰も一個の人体中に斯の如く数多の異様あれども、一物としてその用を遂ぐるに当り、全般の福祉を計らむとせざるはなきに由る如きものであります。即ち全局は部分の為に、部分は全局の為に何事か用を遂げずと云ふ事はありませぬ。蓋(けだ)し全局は部分より成り部分は全局を作るが故に、相互に給養し相互に揖譲(いふじょう)するを忘れない。而して其相和合するや部分と全局とに論なく何れの方面から見ても統一的全体の形式を保持し且つ其福祉を進めむとせないものはない。是を以て一体となりて活動し得るのである。主神の天地両界に於ける統合も亦之に類似したまふのである。凡て物の和合するは各其為す所の用が相似の形式を踏襲する時であるから、全社会のために用を為さないものは天界神界の外に放逐さるるのは当然である。そは他と相容れないからであります。用を遂ぐると云ふ事は総局の福祉を全うせむために他の順利を願ふの義であり、そして用を遂げずと云ふは、総局の福祉如何を顧みず、只自家の為の故に他の順利を願ふの義である。此はすべてを捨てて只自己のみを愛し、彼はすべてを捨てて只主神のみを愛すと云ふべきである。天界にあるもの悉く一体となりて活動するは之が為である。而して斯の如くなるは主神よりするのであります。諸天人や諸宣伝使自らの故ではない。何となれば、彼等天人や宣伝使は主神を以て唯一となし、万物の由りて来る大根源となし、主神の国土を保全するを以て総局の福祉と為すからであります。福祉といふは正義(ただしき)の意味である。現世に在つて、国家社会の福祉(正義)を喜ぶこと私利を喜ぶより甚しく、隣人の福祉を以て自己の福祉の如くに喜ぶものは、他生に於ては主神の国土を愛して之を求むるものである。そは天界に於ける主神の国土なるものは、此世に於ける国家と相対比すべきものだからである。自己の為でなく、只徳の故に徳を他人に施すものは隣人を愛することに成るのである。天界にては隣人と称するは徳である。すべて此の如きものは偉人であつて、即ち高天原の中に住するものである。三五教の宣伝使は皆、善の徳を身に備へ、且つ愛の善と信の真とを体現して智慧と証覚とを本具現成(ほんぐごんじょう)してゐる神人計りである。何れも主の神の全体または個体として舎身的大活動を不断に励みつつある神使のみで、実に神明の徳の広大無辺なるに驚かざるを得ない次第であります。願はくは大本の宣伝使たる人は神代に於ける三五教の宣伝使の神業に神習ひ、一人たりとも主の神の御意志を諒解し、国家社会の為に大々的活動を励み、天国へ永住すべき各自の運命を開拓し、且つ一切の人類をして天国の楽園に上らしむべく、善徳を積まれむことを希望する次第であります。太元神を主神と云つたり、救世神瑞の御魂の大神を主神と云つたりしてあるのは前に述べた通り太元神の一切の所属と神格そのものは一体なるが故であります。読者幸に諒せられむことを。” 

     (「霊界物語 第四十七巻 舎身活躍 戌の巻」 『総説』)

 

 “無量無辺の声音の変化は、窮極する所を知らないが、之を還源すれば、只(ただ)一音の「ス」に帰一する。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が万有を捲き収めて帰一せる絶対一元の静的状態が、即ち「ス」である。宇宙根源の「ス」は、現に差別界に生息する人間では経験する事は出来ぬが、小規模の「ス」は間断なく経験し得うる。万籟(ばんらい)声を潜ひそめ、天地間、寂たる境地は、即ち「ス」である。安眠静臥、若しくは黙座鎮魂の状態も、同じく「ス」である。「ス」は即ち絶対であり、中和であり、統一であり、又潜勢力である。有にあらず、又無にもあらず、有無を超越したる一切の極元である。統(す)べる、皇(すべらぎ)、住む、澄む、済すむ等の「ス」は、悉く同一根源から出発した言霊の活用である。

 既に宇宙の間に八百万の神々が顕現された以上は、是非とも宇宙の大元霊、天之御中主神の極仁、極徳、極智、極真、極威、極神霊を代表して、之れを統一主宰する一神がなければならぬ。換言すれば、「ス」の言霊の表現神がなければならぬ。神典『古事記』には明瞭にこの間の神秘を漏らしている。三貴神の御出生の物語が、即ちそれである。” 

     (「出口王仁三郎著作集 第一巻」 『大本略義』)