インフルエンザワクチン💉の接種も始まった様で周りには接種者がチラホラいます。
いつもよりも痛かった。
とか、
新型コロナワクチンとの兼ね合いを気にする人
もいますが、それでも「打たない」という選択肢はない様です。
そこら辺の感覚はわたしには理解できないのですが、
みんなと同じに
とか、
医師や専門家の言う通りに
(行動)していれば安心。…という人が多いのだという事が、今回のコロナ禍で更にハッキリわかりました。
「更に」と書いたのは、わたしはかつて「発達障害界隈」でその事実に直面し免疫があったからです。
衝撃的だったのは昨日の夜に流れてきたTwitterで、
発達障害児のお母さんの「プロ化」
という言葉。
医師や専門家に「発達障害」は治せません。
そもそも「発達障害」という言い方そのものがもう古くて
「神経発達症」で発達のヌケなので成長や発達でヌケが埋まった(なくなった)ら治るからです
だけど、それを知らずに医師や専門家に期待ばかりを膨らませて依存してしまうと後でがっかりするし、
そこに頼れないと思った親が
「自分が(で)何とかしなければ」
…と謂わば「プロ化」して活動をしているというものらしいです。
そういえばわたしが知っているそういう人達の共通点は
子ども達が治っていない。
ということ。
それは全国的に活動している人に限ったことではなくローカルでもいえることです。
わたしがそこに向かわずに済んだのは頼る(信じる)べきは専門家や医師ではないとわかっているからです。
10年以上前の事ですが、当時幼児期だったチョロちゃんは感情のコントロールが苦手で、よくパニックや問題行動(?)を起こしていました。
ある日、バスに乗る前に些細な事で機嫌を損ね、バスに乗った途端に二人がけのシートの足元に横たわり動かなくなりました。
日中の時間帯でバスの中はガラガラでしたが、みんな怪訝そうな顔でチョロちゃんとわたしを見比べていました。
目的地までは数分間でしたが、その短い時間ですら周囲の目が全身に痛く、当時のわたしにとっては正に「針の筵」でした。
その短い時間でわたしは
この子を育てるという事はこういう事に慣れる事なのだ腹を括りました。
そうしたら何やらモヤモヤしていたものが吹っ切れました
どんなに療育に通っても有名な先生と繋がっても子どもを治すことはできません。
その先生達には子どものパニック一つ止められません。
せいぜいできてパニックになった後のフォロー位です。
パニックにならずに済ませられる子にはできないのです
それがわかったら必要以上に依存することもなくなりました。
そして腹を括ったのでいい意味で怖いものがなくなりました。
脳内更新…シフトチェンジがうまくできました
その後、就学の時も、周りの言葉ではなく子ども自身にとって何がいいのか?
子どもはどうしたいと言っているのか?
を考えて決めました。
当時は
二次障害になったら大変だ。
とか、
思春期になったら崩れる。
というようなことをが実しやかに言われましたが、お陰様で杞憂に終わりました
修羅場(?)は何度もありましたが、だからこそ頼るべきは医療関係者でも専門家でもないことがハッキリしました。
子どもは自分に必要なヌケを自分で埋めるかのように成長していき、それに比例してわたし自身も本来持っていた親としての勘を取り戻せて元気になりました。
この経験があったから、コロナ禍で医師や専門家と言われる人達が様々な事を言って恐怖心を煽ったり、みんなが一斉に同じことを強いられるような状況下におかれた事に違和感を抱いたし、その感覚が間違っていない。と思ってもいます。
相変わらずマスク着用もワクチン接種も当たり前であるかのような日本の状況です。
少し前の記事ですが心筋炎について書かれています。
やはりモデルナ社のワクチンに限ったことではありませんでした。
こんな風に問題視される前からわかる人にはわかる事だったのですね。
チョロちゃんも他の生徒や教職員がマスクを着用する中、着けないという意思を貫いています。
学校側はあくまでも「話さない時に限る」という制限をつけていますが。
わたしも周りがどうであれそれを支持しています。
外で会う人の殆どが未だにマスクを着用しています。
未だにそうじゃ無い人に会う方が珍しい状況です。
ですがTwitterの中で出会った多くの人達はそれぞれの立場で自分で確かめ主体性をもった行動をしています。
実際にリアルの友達も、お母さんが腹を括っているか否かで子ども達の成長に雲泥の差があることを実感しています。
そしてそれは、子どもに知的障害があるか否か関係ありません
頑張っているお母さんへ
新しい一日が始まりました
今日も一緒に育児を楽しみましょう