田中小実昌さんの『ミミのこと』を読んだ。
ろう者であるミミ。戦後、彼女が生きるすべは、身体を売る以外なかった。
そのミミと関わりを持つ主人公の男。
つまり「悲しく哀れな最下層の2人」という単純な構図なのだが、これが不思議なことに悲しいとか哀れとかという感じは全然しないのである。
読み終わった後、むしろ清々しさすら覚えるのはなぜなのか。
男に、服を脱いでストリップをやれと言われ、何のためらいもなく服を脱ぐミミは、おそらくその行為そのものの意味がよくわかっていない。
ミミにも男にも、戦後の混乱期、「生きるためなら何でもやる」という必死さは感じられない。ある意味冷めており、ある意味普通であり、かといって世の中や人のせいにすることもなく、デカダンというほどの思想もない。
だけどやっぱり清々しいのはなぜなのか。
男とミミの純愛‥‥‥
読後、裏表紙の解説に「純愛」という言葉を見つけてなるほどと思った。
そう、この2人の間にあるのは純愛なのだ。
ときどき2人で笑い合うシーンが出てきたり、あるいはそれを回想したりするシーンが出てくるのだが、別に取り立てて面白くもない小さなことで笑い合う2人は、純愛以外の何物でもない。
昔読んだ作品の中で小実昌さんが言っていた、「言葉にした途端にウソになる」にとても感動したことを思い出した。
心の中を100%言葉に置き換えて言ったり書いたりすることは不可能なのだ。
自分が持っている語彙で心中を表しきることは不可能であり、さらに言うとき、書くとき、飾ったり盛ったり、足したり引いたりする。
ミミはろう者なので、作中、ミミの言葉は何もない。意味不明な単音と身振り手振りだけだ。
これはまさしく、小実昌さんの主張どおり。
しゃべれず聞こえないミミにはウソがない。小実昌さんの理想だ。
事実、ありふれた愛の言葉など全然ないし、愛し合っていることが決定的にわかる場面はゼロなのだが、読者にとっては「純愛」と意識せずに「純愛」を感じ、清々しさを感じる理由はこのあたりにあるのかもしれない。
書ききれぬ 想いに心 持て余す
鞠子