自死の理由 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

出先で立ち読みした新聞に、息子を亡くしたお母さんの記事が載っていた。

中学生だった彼は、クラスの人気者で勉強も体育もできる方、家庭も何の問題もない。

それなのに、自殺した。

死の直前まで、普通に笑い、普通にしゃべって、いつもと同じように普通に生活していたそうだ。

そして、遺書もない。

 

お母さんにしてみれば、なぜ息子が死を選んだか全く分からない。

学校も当然、調査したが、原因らしきものは全然見つからなかった。

それでも、彼は、相当前から自殺を計画していたらしい証拠が幾つか出てきた、という。

 

お母さんは、学校側の調査に不審を抱いている。実際、学校が都合の悪いことを隠している可能性もあるかもしれない。

だが、もし本当に、「自殺する原因が全くない」としたら……

 

私は、原因が何もないのに命を絶つ理由、分からなくない。

私自身、特に中学生、高校生のとき、生きていたくない、だから死にたいと思ったことが何度もある。

別に、これといった理由などない。

細々した不平や不満、怒りはあったが、どれも冷静に考えれば、死ぬほどの事項ではなかった。

それでも、死に至るまでの苦痛が怖くて、実行に至らなかっただけだ。

 

今だって、そういう思いは心のどこかにある。

何かにつけ、生きるってしんどいだけじゃん、と。だから、死んでもいいし、なんて。

ただ、中・高校生のときには気づかなかったことが1つある。

生きるのはしんどい、だから死んでもいいと心で思ったとしても、私の意識しないところで私を構成している細胞の1つ1つは生きるために必死の努力をしている、ということ。

酸素を取り入れ栄養を吸収し、排泄したり汗をかいたり血液を循環させたり、それは私が意識せずとも勝手に細胞たちが頑張っているのだ。

私が死に至るまでの苦痛を極度に恐れるのも、それらの細胞のなせる業かもしれない。

だから、幾ら自分に刃物を向けても、自分を刺すその瞬間まで、細胞たちは生きる道を模索している。

それは敬意を払うに値する、と60年以上生きてきて思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

確実に 息絶えるとき その日まで

鞠子

 

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