74歳の男性が、新聞に投書していた。
49歳からジムに通って筋トレと有酸素運動。
天ぷら、フライ、砂糖、甘いものは口にしない。
アルコールはビールを決まった量だけ。
タバコは吸わない。
薬は飲んでいない。
徹底した歯磨き。
読書、詰め将棋、ウォーキング、英文多読で認知症予防とともに、脳や運動神経を使っている。
全ては、健康のためだ、と。
若いころの私なら、こういう投書を読むと「そらそら、御苦労さん」と呆れたし、「ま、せいぜい頑張れば」と冷ややかに思った。
そんなに節制して、長生きしてどうするのか、とも思った。
今だって、行き過ぎた健康志向、健康信仰はどうかと思う気持ちは十分にある。
だが、この年になって、それらの気持ちもちょっと質が変わってきた。
この74歳の男性、健康志向、健康信仰というより「ルーチン」なのではないかと思うのだ。
健康のために○○をしなければならない、とか、××をしてはいけない、というより、毎日自分の決めたことをこなすことが、一番の安心なのではないか。
私が毎日泳いだりステップ運動をしたりして、「運動しない日はない」状態にあるのも、健康とか美容とかといった当初の目的以上に、「毎日やらないと気持ちが悪い」ため、その気持ち悪さを払拭することのほうが優先順位が高くなってしまった。
でも、他人から見たら、「何でそんなに健康にこだわるの」ということになるような気がする。
私には、もうこの74歳男性をバカにすることはできない。
私も同類だ。
そして、これもある意味「老い」の特質なのではないかと思ったりするのだ。
少し右 少し左が 分からない
鞠子