悪は存在しない | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

大自然の中、雪が積もった美しい湖の前で見つめ合う女の子と親子の鹿。

親鹿は、背中に銃弾の跡がある。

 

手負いの動物、それも子どもを連れているとあれば、対峙した人を襲うに違いない。

 

女の子は森の中で行方不明になり、父親と都会から来た男が懸命に探していた。

やっと見つけたがこの状態。

都会から来た男は思わず女の子に駆け寄ろうとする。

父親は、ありったけの力でその男を止める。首を絞めて、殺さんかの如く力をこめて男を止める。

 

その男同士の格闘の向こうの方で、女の子は倒れる。

父は倒れた女の子を抱き上げ、さらに森の奥の方へ歩いていく。

 

都会の男は一瞬立ち上がるが、また雪の中に倒れ込む。

親子鹿の姿は、もうそこにはなかった。

 

…というのが、映画『悪は存在しない』(『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー国際長編映画賞を取った濱口竜介監督の作品)のラストシーンだったのだ。

尻切れトンボ、意味不明…… そんな状態に放り込まれた。

 

つつましく山の暮らしを営む集落に、グランピング施設を作る話が持ち込まれ、その後…という触れ込みだったので、私は単純に想像していた。

都会から、利益オンリーの企業がやってきて、静かな集落をかき回す。集落の中にも、反対派と賛成派がいて仲間割れする、なんて。

 

もちろん、それっぽい内容もあるし、集落の人もグランピング施設の説明にくる都会人も、それぞれ心に苦しいもの、そしていいものを抱えているのもよくわかるし、動物だって植物だって懸命に生きていることは一目瞭然で、題名の「悪は存在しない」は納得できる。

山の上に住む者は汚水を流したりして下に住む者に迷惑をかける。上に住む者は、そのことを決して忘れてはいけないし、そのことに配慮しなければならない。それが上に住む者の義務だというとつとつとした区長の語りもとても説得力があった

だがしかし、最後のラストシーンはどう解釈すればいいのか。

そもそも、この女の子と父の背景も全く分からない。

 

ネットでいろいろ検索していたら、「この父親は、鹿なのだ」という御意見があった。

そうか。それもアリか。

だけど……

 

悪は存在しない、という前提で、様々渦巻く疑問を飲み込み自分なりに解釈する。

そういう映画だったのだと自分を納得させている。

 

 

 

 

 

 

 

 

考える ネタが放られ それも有り

鞠子

 

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