隣市の中学校で、能登半島支援のため生徒会が中心となって募金活動を行い日赤に寄託した旨、新聞に載っていた。
1月中に3日、校内で募金活動を実施したところ、7万円以上のお金が集まった。
これは生徒会が想定した以上の金額であること、そして、同様の募金活動が他のいくつかの中学校でも行われていることが記されてあった。
美談、なんだろうけど、これ、私は微妙に違和感を覚える。
募金箱にお金を入れたのは「中学生」だ。
つまり、原資は彼ら・彼女らの「親」ではないか。
よしんば「お小遣いとかお年玉から出しました」だとしても、「そんな持ち金はない」子どもだっているのではないか。
現に私は、中学生のころ、定額のお小遣いなどもらっておらず、自身でお金の管理はしていなかった。
それなのに、校内で募金活動がなされるとなると「無言の圧力」を感じ、「出さざるを得ない」ことになり、かつ「金額の多い少ない」まで気にしなければならないではないか。
地震の被害を受けた人たちを助けたい。
その気持ちは重々わかるが、募金は決して強制されてやるものではない、と私は思う。
義理でやらざるを得ない仕事関係など、大人の事情ならある程度、割り切らなければならないだろうが、支援の方法はいろいろある。
特に小学生や中学生なら、みんなで一緒にできる支援の方法を考えるのも学びにつながると思うのだが。
箱の底 音の違いに 顔を見る
鞠子