内田百閒の『ノラや』を読んだ。
内田家に住み着いた野良猫の「ノラ」だったが、あるときふと家を出て帰ってこなくなった。それからというもの百閒先生、心神喪失状態。ノラを探すこと以外、何も手につかなくなり、「お探しのノラかも?」情報に周囲の人を巻き込んで走り回る。懸賞金をつけ、英字広告までつくり、見つかった後のお礼文まで用意するが、ノラの行方はようとして知れず、泣き暮らす日々。
…って、全くバカバカしい。
大のおとなの男が、野良猫を想って己を失うとは何事か。
…と思えないのはなぜなんだろう。
『ノラや』は日記形式で、毎日、女々しい心中がしつこいほどダラダラ書きつらねられているのに、「なんだ、これ。もう読んでられない」と思うどころか「次の日は? で、その次の日は?」「ノラ、どこにいる。出てこい、帰ってこい」と読み進めてしまう。
そうして気がつくと、百閒先生を応援してしまっている。
ちなみに私は、特別ネコ好きではない。嫌いではないが、自分で飼うことは絶対ありえない。せいぜいよそのネコを見て楽しんでいるレベル。それでも百閒先生の応援団になってしまうのは、
「内田百閒の筆力」
としか考えられない。
○○が××だからすごい、と具体的に言えない。難しい言葉も言い回しも基本的にない。だが、百閒先生の痛ましい心が、文のあちこち、行間、あるいは文の裏側から否が応でも伝わってきてしまうのだ。
それと、あえて挙げるなら、
「内田夫婦」と「出てくる人々の人間らしさ」
奥さんもノラに並々ならぬ愛情を持っていることはよくわかるのだが、百閒先生のように心神喪失状態ではない。現実をきちんと見据えている感がある。だが一方で、女々しい夫を決して軽蔑しない。そんな夫を、むしろ温かく包み込むような女性として描かれている。
こういう妻だったら、こういう夫婦だったらどんなにいいだろう、と思う。
そして、巻き込まれた人たちも、全く迷惑そうでなく、懸命、かつ真剣に走り回る。その姿から、百閒先生がどんなに愛されていたか、想像できてしまうのだ。
情報を寄せてくれる人たちのなかには、もちろん嫌がらせや非難めいたことを言う人もいるのだが、好意で連絡してくれる人ばかりが目立つ。懸賞金狙いという下品な人が見当たらない。
結局、ノラは帰らず、百閒先生はかわいそうだが、今、読んでいる私にとっては、SNSで拡散とか炎上とか、そんなものとは無縁の時代の「古き良き時代の人間模様」が懐かしく思えてならないのだ。
ノラは内田夫妻に有り余るほどの愛情を受けていたのに、それでも出て行ってしまった。
理由はわからない。
百閒先生の言うように、道に迷って帰れなくなったのかもしれない。
だが、安住の地に居続けることは、ネコの矜持が許さなかったのではないか。大事にされればされるほど、その思いが強くなったのではないか。
だからノラは、意を決して出て行った、そんな気がしてならない。
ネコ探す ゆとりの人やら 時間やら
鞠子