君が代斉唱・国旗掲揚…それらに強い拒否反応を示す人々がいる。
だが、私は深い思い入れもなく、深く考えることもなく、これまで君が代も歌ってきたし、国旗掲揚も見てきた。
ちなみに、君が代を歌おうと思うと、かなり音楽的な力量がいる。たとえば、「さざれー石のー…」の部分など、「さざれ」と「石」の間でブレスしちゃいけないよね、きっと。
ところで、これほど「主義・主張の根幹」に関わることではないのだが、私の仕事において、どうにも拒否反応をおこしてしまう事柄がある。
それこそ深く思い入れず、深く考えなければ、こんなこと、決まった時間だけさっさとやってのけられることなのだが。
それはなにか、というと…
「会議中、揃いのユニフォーム着用」と「バッジの装着」を強制されること。
揃いのユニフォーム、もっとストレートに言えば「法被」といわれるヤツだ。
これらを全員が身につけることで、「連帯感が生まれ、団結力が高まり、テンションあがる」と言う人々が少なからずいる。
私はこれ、生理的に受けつけない。
なんといっても、「法被が似合わない」&「バッジを装着できるような服装をしていない」。
だから、美意識に合わないのだ。そういうものは身につけたくない。
それから、老若男女、ビックサイズからスモールサイズまでいるメンバーが、全員「同じ格好をしている」のが耐えられない。
なにより、
法被を着てバッジをつけても、私は「連帯感も、団結力も、テンションアップもない」。逆に、やる気喪失する。
着たい人は着ればいい。現に、とっても似合う人もいる。「一律に強制される」ことに非常な反発を覚える。法被を着ようが着まいが、どうでもいいことではないか。
しかし、
今日から始まる半年間の新プロジェクトは、今後この「法被着用」が提案されるのだそうだ。
私は今年度から、このプロジェクトに関わらないことになっている。その決定にはもちろん「別の痛み」を伴うため迷いもあったのだが、「法被着用」の件を聞いて、つくづく「別の痛み」に感謝した。
「法被着用」で会議に出るより、「別の痛み」に耐える方が断然いいわ。