久々に面白すぎる本に出会った。
面白いだけじゃない。ところどころ、泣けてしまうのである。
内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』(筑摩書房)
百閒の作品は、これまで読んだものすべて、ひょうひょうとしてユーモラスで、極上の笑いを誘う文章に満ちていた。
百閒さん、漱石の弟子だということは知っていた。
堂々と『贋作吾輩は猫である』などという小説を書いていることから、相当慕っていただろうことも知っていた。
だが、『私の『漱石』と…』によると「百閒の漱石への入れ込み方はハンパない」ではないか。
今風に言えば、完璧な「ストーカー」。ただし、追っかけ方が面白すぎる。
例えば、
漱石先生がふらりと百閒の部屋にやってきた。
ところがこのお部屋、「漱石グッズだらけ」。漱石先生が描いた絵、書、『草枕』の冒頭を書いた軸、俳句…どっちを向いても漱石の筆跡ばかり。
百閒曰く「漱石展覧会の真中にご本人の先生が座って、面白くなさそうな顔をしている」。
わかる!このときの雰囲気!漱石の苦々しそうな顔。
だって、漱石にとっては、書き損じばかりだったのだから。
現にあとから「あんなまずいもの、かけておかれると気持ちが悪いから、持ってきて破かせろ。代わりに新しいものを書いてやる」という手紙まで送っている。
百閒にしてみれば、今まで大事にしていたものを破られたらたまらない。「それは勘弁してほしい」と頼んだものの、先生は頑固で聞いてくれなかったのだそうだ(つまり破かれた)。
書いた本人にとってはゴミ。
持ってた人にとっては宝物。
この構図、あまりに滑稽。
漱石の笑い方を真似したり、書斎の机も似たようなものをしつらえたり。他にも抱腹絶倒のエピソードばかり。
百閒は心底漱石が好きだったのだ。単なる尊敬だけにはおさまらない。「新種の恋愛感情」みたい。他にこの心情を表す言葉が見つからない。
だから、漱石が亡くなった時の混乱はすさまじい。
その前後の記憶がばらばらにほどけてしまっている。大勢の人がごったがえすなか、大笑いしたり突然号泣したりする。(百閒だけでなく、トイレに落ちてしまった人もいるのだが)
「二十年この方、いろんな目に会ったけれども、こんな事を繰返した覚えはない。さうして、これから先も、もう一生涯さう云う事はなささうに思はれる」
この『漱石先生臨終記』の章、銀行で読んでいて、思わず私ももらい泣きしてしまった。