ナミダのクッキングNo.2287 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

今、カバンに入れて持ち歩いている文庫本は内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』だが(←昨日のブログに書きました)、スイミングサウナで読んでいるのは、三島由紀夫『小説家の休暇』。
よりにもよって、なんで対極にあるよな作家の作品を読んでいるのか。
特別な理由などない。
偶然、こうなってしまった。

三島は『小説家の休暇』の中で、太宰治をメッタ打ちにしている。
特に『六月三十日(木)』(←『小説家の休暇』は日記スタイルになっている)。
顔がきらい・田舎者のハイカラ趣味がきらい・文体がきらい、と太宰に対する 「嫌悪」のオンパレード。

この『六月三十日(木)』だけ、以前、コピーされたものを読んだ。
それで『小説家の休暇』を買ったのだが、実は他のページにも太宰を斬ったくだりがあった。

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とんでもない比較だが、アドルフの弱さと太宰治の弱さとは、何たる違いであろう。私がアドルフの弱さを愛してやまないのは、それと正反対の文体の強さのためである。弱さを表現し、自分の内面のこの病菌に頑強に耐え、自分の弱さをひとつも是認せず、しかもその弱さを一瞬も見張ることをやめない精神! こういうものと、太宰のふにゃふにゃな文体の暗示するものとは何たる相違であろう。しかし私が太宰の悪口を言い出したらキリ がなくなるから、ここでやくたいもない比較文学(!)に耽ることはやめにしよう。(『七月二十七日(水)』より)
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ここまでくると、無責任な第三者は笑える。
太宰のヤロ―、絶対に許せん!思い出しただけでもムカムカする!
歯ぎしりする三島が見えるみたい。

でもやっぱり、三島は太宰を認めていて、くやしかったんだろうなあ。
自分には絶対に太宰のような作品は書けぬ、と。

三島にとっては、百閒も許せぬタイプの作家ではないだろうか。

この『小説家の休暇』、三島ならではのすきのない濃厚な文章できっちり塗り固められている。
出てくる小説や作家の名前も「初めて聞いた」ようなものばかりで、さっぱり実感がわかない。

日記もどきなんだから、もうちょっと肩の力、抜いてさらりと書いてよ!
…それができないから、三島はさぞ苦しかったのではないかしら。
それなのに、太宰のヤロ―ときたら、やすやすと自分をさらけ出しやがって。

…と凡人・鞠子は難解な文章に怒ったり、「三島vs太宰」を勝手に想像したりしつつ、苦心しながら読み進めておりまする。