ナミダのクッキングNo.1896 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

本日観た映画は『サウルの息子』。
舞台はアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。
サウルは、ハンガリー系のユダヤ人。
そして、ゾンダーコマンド。
虐殺されたユダヤ人の死体処理をするのである。
いや、正確には「させられる」のである。
そして、適当な時期に、ゾンダーコマンドも抹殺される。

つまり、限られた「生」を少しでも延ばすために、心を捨て「処理機械」と化すのである。

…なんて前知識があったから、さぞ残虐なシーンが続出し、ほとんど下を向いていなければならぬかと覚悟していたのだが、それどころか不謹慎なことに、途中からだんだん腹が立ってきた。

…人間とは、なんて「愚か」なんだろう、と。

ガス室行きを命ずるドイツ人も、裸にされて「部品」と言われて死んでいくユダヤ人も、死体処理をするゾンダーコマンドも、誰一人として幸せな顔をしていない。
みんななにかにせき立てられて疲れきり、表情がなくなってしまっている。

主人公・サウルは、おびただしい死体のなかに、なぜか生き残った少年が我が子であることを発見する。
もちろん、医師(←この人も、実は囚人)によりすぐ殺されてしまい、稀有な例として解剖されそうになるのだが、サウルは何とかして「正式に埋葬したい」と思い、必死にラビを探す。

でも、サウルは感情をあらわにしない。
息子が殺されるのを見ても、遺体に触れても、まるで他人事のように無表情だ。

サウルは既に「息はしているが、死んでいる」のだ。

しまいには、何千人ものユダヤ人がいっぺんに送り込まれてきて、あきらかに「処理能力」を超過。
そうして虐殺そのものが、「もうなんでもいいから、どんな方法でもいいから殺して処理しちまえ!」と、めちゃめちゃになってしまうのである。

もちろん、ハッピーエンドで終わろうはずがない。

大混乱のなか、脱出したサウルたち。

逃げ込んだ深い森がみずみずしく、ますます腹が立ってきた。
自然はバカな人間たちのバカな言動・無意味な戦いを黙って見つめてあざ笑っているかの如く、だった。

…我が子の遺体は、川をわたる時、手から離れて流れていってしまった。





感情は形を持たぬ臓器なり        鞠子