ナミダのクッキング№1877 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

今日、ちょっぴり悲しかったこと…

今回の映画鑑賞は『放浪の画家ピロスマニ』。
1969年、だから今から50年近く前に作られたことになる。

題名の通り、グルジアの画家、ニコ・ピロスマニの半生を描いた作品。
確かに古く、CGもなければ凝った音楽もない。
だが切り取られたワンシーンワンシーンが、まるで絵画のように静謐でかつ美しく、登場人物たちが奏でる音楽が素朴でかつ物悲しい。

ピロスマニは、「描いた絵を酒やパンと引き換える」という暮らしをしていた。
なにものにも束縛されない。
描きたいものを描きたいように描く。
これは、ハタから見たら、非常に不安定な貧しい暮らしだ。
だが「表現者」としては、最高の生き方とも言える。

ところが、ここに「俗っぽい」ものが勝手に入り込む。
ピロスマニの絵を「高く評価する人々」が現れるのだ。
いわゆる「金銭欲」など全くないピロスマニをないがしろに、絵が一人歩きし始める。

これが不幸の始まりとなった。

画家たちの会合によばれ、そこで述べた絵に対する思いが非難され、軽蔑された。
新聞は、「基礎ができてない。今から学んでも遅くない」とイヤミたっぷりの記事を載せた。
そうこうしているうちに、みんな、彼の周りから去っていってしまう。
圧倒的な孤独と貧困の中に、彼は置き去りにされるのだ。

ピロスマニはあくまで「描きたいものを描きたいように描きたかった」だけなのだ。
それをまわりが、無神経に破壊していく。

大変切ない映画ではあったが、グルジアの風景、その落ち着いたトーン、そしてピロスマニの絵の強くて素朴な美しさは充分満喫できた。
また、ピカソの言葉、「私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだ」に救われた。


描かれた全てのものが息をする    鞠子