ナミダのクッキングNo.808 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

少し前、『声に出して読みたい日本語』という本が流行った。(今も流行ってんのかな?)

私も、すばらしい文学作品は、「声に出して読むとまた違ったすばらしさが味わえる」、と思う。
でも、この本はどうも買う気がしなかった。

あちこちの作品から、ここぞという部分をピックアップしてあるんだよね。(←読んでないから、違ってたら申し訳ない)
やっぱり文学作品は、本来、「全体を通して読んでこそ」、だと思うからさ。

毎年、決まった時期になると、朝刊に模擬試験だか入学試験だかが載る。
ある時、国語の問題として、太宰の『津軽』が取り上げられていた。
太宰を育てた子守・タケとの再会シーンだ。
私も『津軽』の中ではこのシーンが一番好き。
何度読んでも泣けてしまう。

でもそれは、『津軽』を初めから読んだからだ。
さらには、太宰とタケとの間柄や背景を、他の太宰の作品等から知っているからだ。

一部分を抜き出して、国語力をつけさせようというのは限界がある、と思う。
もちろん、「抜き出された部分を見て全体に興味を持つ」ことも大いにありうるし、「抜き出された部分」だけでも、すばらしいものはすばらしいので、全否定する気はさらさらないが。

試しに、太宰の『惜別』からピックアップ。

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文明というのは、生活様式をハイカラにすることではありません。つねに眼がさめていることが、文明の本質です。偽善を勘で見抜くことです。この見抜く力を持っている人のことを、教養人と呼ぶのではないでしょうか。

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いったいに、アメリカ人の科学に対する態度は、不健康です。邪道です。快楽は、進歩させるべきものではありません。
(中略)
僕はエジソンという発明家を、世界の危険人物だと思っています。快楽は、原始的な形式のままで、たくさんなのです。酒が阿片に進歩したために、支那がどんなことになったか。エジソンのさまざまな娯楽の発明も、これと似たような結果にならないか、僕は不安なのです。これから四、五十年も経つうちには、エジソンの後継者が次々と現れて、そうして世界は快楽に行き詰まって、想像を絶した悲惨な地獄絵を展開するようになるのではないかとさえ思われます。

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「太宰自身の思いに違いない」ということを、登場人物にストレートに語らせている気がします。
その内容自体が、どきりとするほど核心を突いている。

でも、
全体を通して読むと、その醍醐味がもっと満喫できる。

もちろん、どこが琴線に触れるか、あるいは全く触れるとこなしか、読み手の勝手。
どう読もうが自由。

だからこそ、本は手放せないわけで。