ナミダのクッキングNo.314 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

『若き日の友情-辻邦生・北杜夫往復書簡』を読んでいる。

…っていうか、まだ読み終わらない。
さっさっと読み進められない内容。おまけにハードカバーの単行本で持ち運びが不便なため、なかなか進まない。機会を見つけては少しずつ読むしかない。

さてこの本、平たく言えば「文通の記録」だ。パリで評論や翻訳の仕事をしながら、文学を志す辻と、医師であり作家である北との13年にわたる文通。
でも、たかが手紙…では済ませないほど示唆に富む言葉があちこちに散らばっている。

例えば…

近代絵画については僕はあまりみてまわる元気もなく、ゴッホやピカソについては書き手はいくらでもある。フェルメールもないではないが、僕に一番近い感じなので書きたい。それから好きな小説家についての幾つかの本を書きたい。日本はもちろん世界から離れ、ただ書くことを通して社会と接触しているだけの、そんな静かな規則的な、2、3の親しい友達と時々話をする生活を送りたい。いろんな意味で、この世的なものから離れたいし、そんなものへの未練がなくなってきた。第一、わずらわしい。静かであること、他人と喋らないこと、余分の本など読まないこと-恐らくリルケがそうであったような孤独な生活が願わしい。日本にいてどれだけ実現できるか知らないが、とまれ、願っていたようになるのが僕の人生なのだろう。フランスの田舎の、小さな城で薔薇と空にかこまれて晩年を送れたらどんなにいいだろう。僕にとって日本もフランスも文学も地上の事実としては無意味にみえる。一口でいえば永遠のなかに住むこと-それが願わしい。
(昭和35年1月31日辻からの手紙)

う~ん、達観している半面、書くことに対する静かな闘志。異国の地からこんな手紙をもらったら、たまらない気持ちになるだろうなぁ…

辻はよくこう言っていた。人はいつでも小さなシャボン玉のようなものに入っている。そのシャボン玉に外界の現象が映る。人が成長するにつれ、シャボン玉も大きくなる。外界がまた別の視野から彼の目に映る。
人それぞれで、初めから大きいシャボン玉に入っている者もおれば、その逆の場合もある。自分自身のシャボン玉から出て、何やかやとしないこと。(北によるまえがきから)

頭をガ~ンとやられたみたいです。これはキツい指摘。

この二人、才能あふれるだけでなく、本当にお互い信頼しあい、相手の才能を尊敬し合っている様子が存分に伝わってきます。

そういう相手に出会えることもあるんだね…

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