筑摩選書:土田健次郎著:「江戸の朱子学」を読み始めました。
きっかけは朱子学の祖・朱熹の言い分と、長らく徳川幕政のブレーンとなった朱子学者・林羅山の一門、林家の朱子学は違うのではないかと思ったから。
「江戸の朱子学」のP25まで読んだが、朱熹の「理気二元論」が人によって解釈が違うことが分かった。
朱熹が何を伝えたかったか、言語化するのが難しいと言うもの。
これは自身の経験でもあったけど、物理法則はたいてい目に見えないから仕組みが分からない。
朱熹はこれを分かるように言語化しようと試みたような気がする。
筆者も解釈を説明しているが、ここでは自分の解釈を述べます。
理は森羅万象の理で「仕組み」や「そうなること」ではないかと思います。
気は筆者も言ってたように、「エネルギー」や「力」みたいなものかなと思います。
筆者がニュートンがリンゴを落とすことによって万有引力が働いていることを例にした。
自分もそれに倣って、気は「リンゴを落とせば自然に下に落ちる」
この働きが気を意味してるのでは無いかと。
理は下に落ちる現象が起こる理由ではないかと。
その説明を言語化できないから、理気について様々な解釈がなされたのでは??と思った。
自分のこの解釈も自分の思い込みではある。
それを踏まえて人間の理気は、、、
例えば、殿様が成果が思わしくない部下に難しい命令を発するとする。
そうすると、部下はプレッシャーを感じる。これが気。
部下の動きや判断が鈍るのが理。
そして、部下が達成出来なかったことを報告する。
殿様は不問にしブレーンに助言を求めてアドバイスする。
部下は今度はやる気を感じる。これが気。
厳しくするだけではダメなのが理。
これは自分の経験上の理気だが、人によって当てはまる当てはまらないが出てくる。
だから理や気を確定させられないのかなとも思った。
殿様に武威だけではダメと諭し、官僚としての武士の能力を開花させるためには?のマニュアルみたいなのが徳川綱吉の時代の朱子学かなって。
で、江戸幕府の朱子学は現代の学術書だけでなく、ビジネス書、自己啓発も兼ねていたのでは?と思った。
反朱子学が時代を進めると多く出てくるが、この「江戸の朱子学」にも後述される。
まだ読んで無いが・・・
予想だが、、、先人の知恵だけを模倣して、自分で考えなくなる現象が起こってきたのでは?と思った。
だから陽明学と言う実践の学問が出てきて、実践して感じろみたいになったのでは??
現代的感覚すぎるかな??
もうちょっと「江戸の朱子学」を読まないと、自分の思い込みで完結してしまう。
それも危険ですね^^