PHP新書:小和田哲男著:「豊臣秀次」読了 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

PHP新書:小和田哲男著:「豊臣秀次」読了。

 

1585年:豊臣秀吉関白、就任。

1591年:千利休、切腹。

1591年:豊臣秀吉、全国平定。

1591年:豊臣秀次、2代目武家関白就任。

1592年:文禄の役。

1592年:豊臣秀頼、誕生。

1595年:豊臣秀次、切腹。

1595年:聚楽第取り壊し。

 

豊臣秀次がなぜ切腹させられたか気になったので、読みました。

謀反の罪となってるが、どうも冤罪らしいです。

 

1591年、豊臣秀吉の弟:豊臣秀長や息子:鶴松が死去すると、身内はほんと数えるほどになります。

そして、24歳の甥:豊臣秀次を関白に就けます。

豊臣秀吉は関白を退いた人の呼び名の太閤を名乗ります。

太閤は無官です。

が、豊臣秀吉は朝鮮出兵に残りの人生を費やします。

朝鮮出兵の指揮を秀吉がやり、国内統治を秀次がやる二重構造です。

 

秀次は24歳ながら和歌・連歌・茶の湯や能に明るく、文化面の素養があり、公家衆とうまく付き合っていました。

ただ秀吉が、文禄の役で全国の大名を朝鮮に集結させているので、国内統治はほぼ仕事が無いかも・・・

 

そこで1593年淀殿が秀頼を誕生させることになる。

 

秀吉は秀頼に関白になって欲しく、秀次が疎ましくなり、無実の罪を着せたのでは無いかと言われている。

秀次の一族の女・子供みな処刑した凄惨さであった。

 

もしかしたら、この事件が関ヶ原で東軍を勝たせることになったのではと思ってしまう。

天下泰平の世に秀次はふさわしかったかもしれない。

しかし、武の人秀吉は引退せず、朝鮮出兵して明まで攻め込もうと思っている。

多分、秀吉自身、戦いでしか自分を誇示できなかったかもしれない。

文化人としてはコンプレックスを抱えてたかも。

全国統治が下手で、太閤検地も苛烈で不評だったと言われてる。

国替えもかえって不興を買っている。

教養のある秀次に嫉妬していたとも考えられる。

秀頼と秀次は25歳も差があるので、秀次がうまくやれば、順調に秀頼に継がれると思う。

しかし猜疑心が強い秀吉は、秀次一族が秀頼に継がせないかもと思ったのかも。

 

秀吉は、太閤になってからあまりにも汚したなと言う印象です。

家康はその権力移譲を見ていたから、秀忠をちゃんと育てられたのかなって。

秀吉は、家康の良い反面教師になったなあって。