ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -9ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 ここのところ、コロナウィルスがらみの記事ばかり連続していて恐縮です。やはり世の中的にはそれ一色になってしまうのは日本全国のみならず世界人類の生命身体が現在進行で脅かされている一大事だから致し方ないという思いがあって、例えば『いつ街』カテゴリのような過去の旅記録紹介の、本来コロナと何の関係もない記事であってもつい本題に入る前のマクラのところにコロナの話題を挟んでしまう…。こんな状況、一体いつまで続くのだろうか──
 で、この『日本語』コーナー最新記事もコロナがらみの言葉です。以前からある単語や諺がコロナがらみで使用頻度が高まったとか、コロナにかこつけて思い出したとかいうのではなく、おそらくは今回初めて言われ始めた言葉──それが表題『濃厚接触』である。そして、先に断っておくと、僕はこの『濃厚接触』という表現には少なからず違和感があって、以下の文章もそれに沿った論調になります…。
 まず『接触』という言葉は本来ある物とある物の一面が触れることであり、それ以上でも以下でもない、強い力で押されれば『接触』ではなく『圧迫』であり、触れるだけでなく擦れれば『摩擦』である。触れる以上でも以下でもない『接触』に濃厚も淡白もあるのだろうか?
 …という僕のこの疑問を、単なる言葉尻だと思っていたら痛い目をみるのではなかろうか? ことは多数の死者を出している医学上の感染症の話なのである──普通に『接触』と言わずに敢えて『濃厚』とつけてしまうことで、ちょこっと軽く触れただけなら『濃厚』じゃないから大丈夫だとか、まして接触すらしてなければ問題ないだなんて誤解を招いたりしないかな? 「おぉっ、5ミリのニアミス、ギリセ~フッ!」なんて言ってる人、いない? ソーシャルディスタンスなんて言われて2メートル以上離れることを推奨する呼びかけが広くされてる状況なんだから、濃厚も淡白もない、接触自体も、ニアミスだって当然アウトでしょうよ。
 繰り返すが、現在進行形で多数の死者を世界で出している感染症の予防にかかわる用語なのである。単なる言葉のアヤですまされることではないでしょう。こうなるよりもずっと前からあった言葉だというならともかく、そういうわけではないのだから、誤解を招く言い回しは極力しないようにした方がよろしいのでは? このコロナに関しては騒がれ始めた当初から、子供はかからないだの、BCGが感染予防に効果的だのと、根拠不明なうわさ話がいくつもひとり歩きしてきたけど、それだけまだ未解明な謎がいくつもあるということである。であればせめて言葉だけでも正確に用いて、余計な誤解でのミスリードの可能性は極力避けるようにしたいものである。
 まあ、いずれコロナが収束して濃厚でも淡白でも安心して何にでも接触できるようになれば、こんな言葉も使わずにすむようになるだろう。早くそうなってくれないかなぁ…。
 









 新型こロナウィルスの感染拡大を受けて首都圏で緊急事態宣言が出された頃、それを受けて県独自で緊急事態宣言を出したのが福井県だった。県内の感染者はその時点で100人そこそこで、首都圏はもちろん全国的にも特に目立った数字ではなかったのだが…、福井県が発令に踏み切った理由は、人口10万人当たりの感染者数が東京都についで全国2位だったからだった。人口では鳥取、島根に次いで3番目に人口の少ない福井県。ちょっとした政令指定都市程度の人口しかない中で100人という数字は、やはり深刻というべきであろう──危機感を持った早めの対応が功を奏したのか、福井県の感染者数はその後ほとんど増えず、北陸3県の中では突出して少なくなっている…。
 そんな、人口規模的には全国で下から3番目な福井県。それでも県都である福井市はさすがにそこそこ都市としてのたたずまいは見せてはいるが、やはり同じ北陸の金沢や富山に比べると印象が薄い感は否めない。それは、初めて降り立った福井駅のたたずまいも同じ。今でこそ新幹線の延伸を見越して立派な高架駅に生まれ変わったものの、僕が降り立ったその当時はどこにでもありそうな地方都市の3~4階建てくらいの駅舎で、ステーションデパートなるものが入居した民衆駅だが外見からはそれがあまり感じられず、いかにも昭和の国鉄な感じの駅ビルだった。尤も機能重視でシンプルで小奇麗な鳥取駅や松江駅よりは重厚な貫禄があって、そこはさすがに県都の駅だな、とは思ったが…。
 駅のすぐ脇にアーケード商店街があって、その通りの中は買い物客でそこそこ賑わってる感じがあったが、バスターミナルだけでなく路面電車も乗りつけてる駅ロータリーはそれ自体も前を通る道路もかなり広く、それに比して周辺の建物はさほど高くはないので逆に人の密度が低くて賑わいが足りない印象。決して商業ビルとかが少なかったり建物が疎らだったりしてるわけではないのだが、やはり県都の駅前ということで要求が高くなってしまう分イメージ的に損してる感じだろうか。
 という印象をロータリーに出た時に持った僕だが、そこはやはり県都である。路面電車の通る大通り沿いに出てみれば商店も豊富で人のにぎわいも違っていて、歩きながらそこそこ光景を楽しにつつ、夕暮れを迎えたのだった──市街地のメインを過ぎたあたりからは飲食店の妖しい看板が目立つようになる。その夜の僕はその一角にあるサウナに潜り込んでそこの仮眠室で宿泊。大都市にあるサウナよりは小規模ではあったが、その分地元のおっさんのローカルなノリが強く感じられて、僕的には趣深いものがあった──ホテル取って個室に泊ったのではこういう地元のナマの生活の匂いはなかなか感じられないからなぁ…。僕がひとり旅の宿泊にサウナを使いたがるのは、値段が安いからというだけでなく、そういう感覚を味わいたいから、というのは間違いなくあるかも知れない。
 そのサウナまでは福井駅から歩いて着いたのだが、散策しながらであるから距離はかなりある。せっかく路面電車が通ってるのだからと、翌朝サウナを出た僕は福井駅まで乗って見る。やはり広島出身者としては路面電車の乗り心地と車内からの街の景色は捨てがたいものがある──JR福井駅には上述の駅ビルの反対側にも駅舎らしきものがあるのだが、こちらはホントに裏口で、駅機能しかないこぢんまりとした駅舎に通じる道も狭く、周囲に建物が密集してる分ごちゃごちゃしてる感じだが、これはこれで趣がある。そちら口側には、京福電鉄(現・えちぜん鉄道)の福井駅があって、こちらも地方私鉄駅らしいそれなりの駅舎のたたずまいであるが。そこから東尋坊や勝山市方面への電車が出ている。この日の僕はそこから電車に乗り、こちらの行程へと向かったのでした──
 









 コロナウィルスが猛威をふるって緊急事態宣言が出され、アーティストのコンサートもDVDやCDのリリースまでも軒並み延期されたり中止になったり、テレビの歌番組でさえもリモートだったり過去の再放送だったりで、アーティストの生の歌声に触れる機会がめっきり減ってしまったことは前回記事でも書いた。そんな中でも新曲を作ってあたためてたり動画で配信したりして各アーティストは活動の再開に備えてるわけだが、思うように活動できない彼らは、ファン以上に苦しい気持ちでいるに違いない。
 そんな中で曲作りに励むアーティストたちの楽曲たちが「コロナに負けるな」的な応援系に比重が傾いてしまうのは、まあ致し方ないことではあるだろう。自分たちも苦しい中でみんなを励まして元気を与えていこうとする姿勢は、それはそれで頭が下がるのではあるが…、でもこちらの記事にも書いたように、こういう非常時の応援ソングの常として、そのメッセージ性が曲の付加価値を超えてひとり歩きしてしまい、楽曲自体とかけ離れたところで持ち上げられた結果として純粋に音楽として味わいづらくなってしまう傾向があり、つい敬遠しがちになってしまうのだが、その気持ちを表すこと自体が不謹慎に感じられてこちらも自己嫌悪という悪循環で、その手の曲にはどうにも触れづらくなってしまう──実際今回もいくつか出てるらしい「コロナに負けるな」系の曲たちをつい敬遠してる自分がいるのは否めない。もちろん純粋に楽曲としてもいいものも中にはあるのだろうし、もったいなくはあるのだが…。
 でも、僕だけでなく多くの人もそう感じてるのかどうか、今回その手の曲で多くの人の耳に触れて広く知られてる曲って『うちで踊ろう』くらいではないかな? この曲はいわゆる暑苦しい頑張れ系ではなく、こんな状況の中だけど楽しみを見つけ出して肩の力抜いて気楽にいこうよ的な、星野源らしいソフトなさりげなさと、動画での多種多様なアーティストのコラボの面白さが、上述の頑張れ系に抵抗ある層にもスコーンと入り込めたのだろう。まあ、歌詞をじっくり読んでみると優等生的なメッセージ色は少なからずあるんだけど、そこはボサノバ風の穏やかなメロディで緩和されて、クサさはほとんど感じない。動画コラボに続々と参入者が集まったところも源ちゃんの人徳というべきだろうか。ともすれば欲求不満でクサクサしがちなステイホームに参加型の楽しさを提供してくれた星野源、恐るべしであるw
 とはいえ、うちで踊って楽しむのにも限界があるし、半年後も1年後もうちで踊って過ごすってわけにもいかない。僕たちもそうだけど、アーティストたちももちろん同じである。感染者は減少傾向にあり緊急事態宣言も解除されたとはいえ、ここで気を抜いたら元の木阿弥になりかねない。まだまだ踏ん張っていきましょう。外でみんな手を取り合って踊れる日を夢見ながら──

 








 この記事日付の今日は、本来ならば両国国技館での大相撲夏場所の千秋楽が行われてて、場所の台風の目である新大関朝乃山の活躍を始め両横綱を中心とする幕内優勝争いも大詰めで土俵がかなり盛り上がってるはずだった。本当ならば5月中に開催を終えてるはずの夏場所だが、コロナウィルス感染拡大の影響で先場所に続く無観客に加えて当初の予定よりも2週間遅れの開催となり、各力士ともますますコンディション調整に苦労しながらも、そんな悪条件の中でも健闘する各力士たちの熱戦に土俵は15日間盛り上がっていた──みたいな記事が、ホントだったら書けるはずだったのだが…。
 しかし、すでに皆さんよくご存じの通りその後夏場所は中止されることが決定し、今日までの15日間、土俵の中でも外でも力士たちの熱闘の模様が伝えられることも、その様子にファンが声を上げて盛り上がることも全くありませんでした──仕方あるまい、当の力士の中に感染者が複数出てしまい、あまっさえその中から死者までも出てしまったのだから。
 陽性反応が出て感染が確認されたのは高田川部屋の師匠(元関脇安芸乃島)や十両の白鷹山を始め、大半が高田川部屋の所属力士であり、亡くなったのも部屋所属の三段目力士で、地方巡業などでは初っ切りでおなじみだった勝武士。感染確認から死亡までの経緯を見るに、発熱から入院に至るまでの保健所への連絡のつかなさやその後の待機期間の長さもさることながら救急搬送時の病院からの受け容れ拒否によるたらい回しなど、いろんなことが後手後手になってる感は否めず、それも不幸な結果の一因には違いないだろうけど、やはり集団生活かつ稽古などで密な濃厚接触の頻度が高い相撲部屋生活の特殊性ゆえに殊更に感染が広まってしまったというのが最大の要因に思えてしまう。今回高田川部屋が不幸なことになってしまったが、当然他のどの部屋で同じことが起きてもおかしくないわけで、相撲部屋での生活スタイルが根本から見直されねばならないのかも知れない。それにともなって相撲という競技のスタイルも大きく変えていかねばならない面も出てくるだろうけど…、神事に端を発して殊更に旧弊な伝統を重視してここまできた相撲界が、基本的な生活スタイルの部分を果たしてどこまで大胆に変えることができるだろうか──?
 場所が中止になった各力士たちも、場所に照準を合わせてのコンディション調整が狂ってしまったのもさることながら、なにより自分たち自身いつ感染するか、というか現在感染してないかどうかわからない状態で闇雲に頑張れと言われても酷ではあるのかも知れない。みんな一緒だからというのも気休めにはなりにくいだろう…、でもやはり、そんな限られた条件の範囲内でできる最大限の努力をするしかないわけで──
 不謹慎を承知で敢えて言ってしまえば、場所が開催されていれば上述白鷹山は全休を余儀なくされて来場所の幕下陥落は必至だったわけで、それを免れて来場所治癒した状態で臨める、とプラスに考えてそれをモチベーションにすることもできるのではなかろうか。他の感染した力士もそうだし、コロナ以外でも大ケガで長期離脱を強いられてる友風なども、一場所助かったと捉えて励みにできるのでは? 亡くなった勝武士は相撲の世界が好きで周囲の受けもよく、引退後も相撲に関わっていきたいと考えていたらしい。彼もきっとみんなが今回のことをプラスに考えて頑張ってくれることを望んでると思うぞ。
 次回の名古屋場所は今のところ、無観客ではあるが開催の予定。全国的に感染が終息傾向にあり、プロ野球など他のスポーツも再会を視野に入れてることから、今度は予定通りの場所開催となると思われる。コロナ禍の沈滞ムードを土俵で吹き飛ばしてもらいたい、マジでマジで。
 









 先月初めに、コロナウィルスの感染者が多く発生してる首都圏を中心とする一部の都府県を対象に緊急事態宣言が出され、その後まもなく宣言の対象は全都道府県となった。それにともない飲食店やライブハウス、パチンコ店のみならず多くの公共施設でも軒並み営業時間短縮や休業となり、一般市民にも不要不急の外出を自粛する要請が出されて、平日の勤め人も在宅勤務のテレワークが推奨され、このGWも『ステイホーム』が呼びかけられて行楽地への人でも故郷への帰省もしないで自宅で過ごす人が大半という、およそ大型連休らしからぬGWに終わったのだった──
しかし、先の見えない無期限の休業で収入も途絶えたままでは当然生活は成り立たないわけで、経済的その他の事情で自粛期間中も出勤したり店を開けて営業したりしてる人も少なからずいた──そして、そんなお店の入口に「店を閉めろ」「こんな状態でまだ営業するのか」などのビラを貼りつけたり投石で窓ガラスを割ったり、あるいは県外ナンバーの車にイタズラされたりの被害があちこちで出るようになった。そう、いわゆる『自粛警察』と呼ばれる人たちである。
 今回の自粛要請は、コロナウィルスの感染者が街に出回ることで周囲の人に伝染させ、感染が拡大するのを防止するためであり、その感染者とは、疑わしい人全員の検査が不可能なおかつ検査の精度も完全ではない以上、ぶっちゃけ今現在自分が感染していないと確実に断言できる人は僕も含めて誰もいない。自身が感染者かも知れないという認識で、自身のウィルスを他人にうつさないためにこそ、今は自粛が必要なのである──それを破る人を取り締まるのはある意味"自警団"みたいなものであり、彼ら自身も正義のつもりなようだし、こちらも一見そのように錯覚してしまいそうになるのだが…。
 しかし、実際に行われている上述のような行為は、これ明らかに器物破損であり脅迫であり強要であり、いずれも触法行為である。感染防止目的だとしても、そこはやはり『目的は手段を正当化しない』わけで、犯罪は犯罪であるから、容認されるべきではなかろう──そもそも外に出歩いてそういう店をあちこち探してる時点で自分たちも自粛を破ってるわけであり、彼らが取り締まってる店主と全くの同罪なわけだし、そこにさらに現行法上の犯罪まで犯してしまってるわけだから、上述、経済的その他の事情で営業する店よりも悪質度は高いといわねばなるまい。『自粛警察』に彼ら自身が考えてるような正義なとは断じてないのだ。
 そんなわけで、実際に触法行為で治安を乱してるのは『自粛警察』の方なのだから、国家警察の方も積極的に連中を取り締まってガンガン摘発してもらいたいものである。安易に『警察』と名乗られてメンツを潰されたカタチなわけだし──自身、経済等の諸事情でやむなく稼働してる側の人間なので、当事者の立場からもその辺切にお願いしたいものです。

 









 毎度おなじみの…、というには間隔開きすぎてますが──「『グミシン』カテゴリ恒例の「ニュースは変わる」シリーズ。久々も久々…、って前回の振り返りの時にも書いたが、前回は2年ぶりで、今回はそれをさらに上回る3年ぶりである」、って前回の振り返りの時にも書いたが、今回も2年5ヶ月ぶりである。前回の"3年ぶり"が間に1年程度の記事休止期間を挟んでることを考えれば、実質的にはそれ以上のブランクと言えよう。なので前回同様の「ほとんど『そう言われればそんなことあったな』な話題もあったりする」間隔も前回以上だったりするんですが──それでも今回もこれまで同様、書いた当時とその後で見解が大きく変わってなくて以前の記事をまんま追認して終わるものが大半だったりするのかな…?
 そう思って前回の振り返り以降の記事を改めて読み返してみたが…、こちらの記事にせよこちらの記事にせよ、そしてこちらの記事にせよこちらの記事にせよ「あ、そんなこともあったな」っていうよりも、オリンピックにせよ日大にせよ相撲界にせよ現在それどころではなくてこの時の記憶など吹っ飛んでしまってる、と言った方が当たってるかも知れない。そんなニュースどころではないという意味ならこちらの記事やこちらの記事もそうであろう。これらのニュースがあったこと自体を失念してた人、たくさんいるんじゃない? コトによるとこいつこいつなんかも忘れてたり、してません──? で、例のごとく「この当時書いた内容と現在の僕の考えはさほど変わっておりません」といういつも通りの結論になるわけだけど、文言は同じでもその背景に「今はそれよりも重要かつ深刻な問題の最中であって、きちんと精査してる余裕がない」というのは間違いなくあることは否めない。当事者にとっては現在進行形の問題で現在も同様に深刻で重大なのだろうけど、僕を含む一般的なニュースの受け手の感覚って、そんなものなのでは?
 この件なんかは、日本人としては決して無関心で忘れてしまっていい話では決してないのだが、こちらもその後ほとんど話題にはなっていない。尤も話題にしていないのは韓国の方も同様であり、話題をストップしてる事情も日本のそれとおそらく同じであろう。向こうも今はそれどころではないはずなので。できればこのままずっと忘れていてくれると助かるのであるが。
 日本人として決して無関心で忘れちゃダメといえばこちらの件も同じ。もちろん今はもっと大事な問題の最中だし、そちらにより注力することは皇室の方々もお望みになるでしょうから、一旦保留しとくことには異論はないけれど、でも落ち着いたら改めて考察して、よりよい方法を模索していかねば、と思います。
 ──で、再三書いてる「それよりも重要かつ深刻な問題」というのは、言うまでもなく新型コロナウィルスである。感染爆発の危険も医療崩壊のおそれもまだまだ消えたとは到底言えないのが現状で、そんな状況が日一日変化してるのも同様。記事に書いた「不確定な情報が錯綜していて断定的なことが書けない」「こういう時こそ情報に惑わされて右往左往しないよう訂正でありたい」という考えも現在も同じである。なのでこの記事でも改めて言及することは避けるが、ただ、最後まで手を抜かずに手洗いにマスク等、当たり前の予防策を淡々と継続して行きましょうという、とにかくこれに尽きるだろう。
こうしている最中にも新型コロナウィルスの猛威の影に隠れて国内外では様々なニュースが生まれては消えている。この『グミシン』記事で取り上げてるニュースもそれらの中のワンオブゼムでしかないのではあるが、それでもこれからも事情の許す限り大小を問わずいろんなニュース記事を取り上げて行き、定期的にこういう振り返りの場は作っていきたいと思います。
 









 古くからよく聞かれる諺である。意味は「どんなに小さかったり弱かったりするからといっていじめたり莫迦にしたりはできない」ということ。人間関係に置き換えてみれば、どんな人にだってそれぞれどこかに秀でたところや魅力などがあり、またその得意な分野に対するプライドというものを持っている。その人の一面だけを見て安易に見下すようなことはしてはならない、といったところだろうか──
 諺で言われてる内容的には至極当然なことである。普段僕らは、身近なコミュニティ内にいる人たちの一面、例えば職場での仕事ぶりや飲み会での様子、マンションの管理組合なんかでの活動ぶり等を見て、相対的に劣っている人を見つけては小莫迦にしたり毛嫌いしたりしてないだろうか。そんな人にも別のいい一面があったり、人としてのプライドがあったりすることなど思いもしないで──誰でも秀でたところがあるということは、逆に言うと誰でも不得意分野があってそちらの一面では相対的に劣った人であるということ。自分自身もその相手に別の一面で見下される隙はある、と思えば、相手を尊重することは自分自身のためにもなるわけである。
 しかし、ここでいう『五分の魂』ってやつ。諺で引き合いに出される際には大概は『長所』みたいな意味で語られることが多いのだが、例えばケンカの腕っ節が強いとか口ではかなわないとか、害を及ぼすような場合にも当てはまるだろう。蚊や蚤に刺されれば痒くて参ってしまうし、ヘタすると病気になってしまうし、仔猫にだって引っ掻かれれば痛い。クラゲにさされれば生命だって落としかねない。人間から見たら悪かもしれないが、いずれもそれら動物の普通の生存のための活動だったり護身だったりするわけで、小さかったり下等動物だったりといってナメてかかると痛い目を見るよ、という意味では十分『五分の魂』である。
 で、表題のこの諺、子供の頃に習って知ってはいたがその後目にすることはなくなり、そういう諺があること自体もう何十年も失念していたのだが…、今年になっていきなり記憶に甦ってきたのだった──僅か50~200nmほどしかない極小生物にこうも世界中の人類が何万人も生命を落としたり重症肺炎で苦しんだりしてる状況ってのは、まさにこの『一寸の虫にも五分の魂』ってやつではないだろうか。そう、新型コロナウィルスによる世界的なパンデミックである。これまでさまざまな感染症の脅威をなんだかんだで乗り切ってきたんだから今回もまた、って感じで当初はこの新型コロナをナメてかかってたところは間違いなくあると思う。その結果、一寸にも満たない虫の五分以上の魂にこれでもかとしっぺ返しを食らっているというのが現状であろう。
 僕らとしては普段から念入りに手を洗い、不要不急の外出を控え『三密』を避けるしかないのだが、それをやっても感染は避けられないし、ワクチンや特効薬の開発にも時間がかかりそうである。『一寸の虫』を侮ったしっぺ返しとしてはあまりにも大きすぎる代償を、この先も結構長い時間、僕たちは払い続けねばならないだろう──人間はそんなに偉くはない。ナメずに真剣にコロナと向き合わねばならない。
 









 先月、僕にとってはこの上ないショックなニュースが突然飛び込んできた。大林宣彦監督の訃報である──何年も前に、肺がんで余命宣告を受けていることは報じられていたが、病気と闘いながらも精力的に映画の制作をこなし、その情熱が病気を押しのけたのか、半年の余命宣告を受けながら何年も第一線の現場で活躍されていたので、まだ大丈夫とすっかり安心していたところへの突然の訃報である。そりゃショックである。尾道三部作『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』は僕にとって永遠の青春の名作だし、その後も『おかしなふたり』『異人』たちとの夏』『ふたり』などなどいくつもの名作でたくさんの感動をいただいており、またいろんなエッセイやインタビューなどを読ませていただいてその優しくも豊かなお人柄も感じられて、もう僕にとっては『巨匠』などという陳腐な言葉では言い表しきれないくらい大きな存在だったから。まさに、心にぽっかり穴が開いたような気持ちである…。
 その、亡くなられた4月10日というのは、実は結果的に遺作となってしまった最新作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が封切りされるはずだった日なのだが…、ご多分に洩れずコロナ感染対策のために封切りは延期されており、公開日も未定となっている。あらすじ内容から察するに、監督の映画人として、また反戦家としての監督の、まさに渾身のメッセージが込められていると察せられるだけに『幻の封切日』に旅立たれたというのが何とも皮肉な気がしてしまうと同時に、そんな監督の平和を希求するメッセージさえも潰してしまうコロナ禍に、より一層憤りを禁じ得ない。誤解を恐れずに言ってしまうが、中国ってホントに罪な国である──
 実は大林監督映画は30年ほど前にも中国がらみで作品内容が台無しになってしまっている。『北京的西瓜』という、中国人留学生を献身的に助けて、多くの若者から『日本のお父さん』と呼ばれた千葉県の八百屋のご主人の実話を基にした映画なのだが、中国に帰って出世したかつての留学生たちとご主人が中国で再会するシーンの現地ロケが、例の天安門事件の政情不安によって中止され、そのシーンは37秒(1989.6.4の各数字の計)の空白で表され、パンフレットで監督は「これはもはや映画的表現などではない。これは政治でも報道でもない、映画としてのギリギリの主張」と述べている。監督自らの『敗北宣言』である。そして今年また中国からのコロナ禍に敗北、そして訃報──つくづく中国が恨めしい。
 それでも監督はきっと中国を批判することはなかったとは思う。上述『北京的西瓜』の中でも直接天安門事件には触れていないしもちろん批判も一切出てきていない。今回の封切り延期もきっと寛大に受け止られてたことだろう、それだけに余計残念である。早くコロナを収束させて、監督の遺作が、それに込められた平和のメッセージがより多くの人の心に届きますように。合掌──
 









 もうみなさんよくご存じの通り、コロナウィルスを原因とする新型肺炎が世界中で猛威をふるっており、日本でも全国で感染者が毎日増えており、特に東京では1日の新たな感染者数が100人を超える日も出てきたりして、ついに政府も重い腰を上げて緊急事態宣言が出されるに至った──そんな中、アーティストのコンサートも軒並み延期や中止となり、ライヴでアーティストの生の歌声に触れる機会はすっかりなくなってしまった。実際に大阪その他で複数のライヴハイスで集団感染が発生してる状況があったりするから、これは仕方のない措置ではあるのだが…。
 ならばせめてカラオケで好きなアーティストの曲を思う存分歌って発散してやろうか、なんて思っても狭いカラオケルームは集団感染の温床になりやすいということで営業自粛要請が出され、実際に軒並み休業している──じゃ家でアカペラでひとりカラオケやるか…、いやいや、大声で歌う行為が感染の危険を高めるとまで言われてしまったのでは、それもままならない。各アーティストの音楽を楽しめる空気は、どこにもない。今は全世界人類の生命がかかっている非常事態だから、エンタメを楽しんでる場合ではないだろと言われればそれまでではあるのだが…。
 そんな中、動画サイトではさまざまなアーティストが今までの楽曲MVや無観客ライヴの映像が無料配信されている。普段著作権がらみで動画配信されなかったり、誰かが不法に配信してもすぐに消されたりでなかなかお目にかかれないあのアーティストやこのアーティストの楽曲がたくさん観られるこの状況は、もちろんこんな時期に楽曲に幅広く触れられるのは素直に嬉しいし、観に来れないファンに楽曲を届けてくれようとしてる各アーティストの意気にも感服はするけれど、でも上述の著作権や版権等のからみを思うと単純に喜んでいいのかどうか非常にフクザツなものがある。
 アーティストにとっても、また音楽事務所にとっても興行収入がプッツリ断たれて苦しいお財布事情を強いられる状況であり、そんな彼らの好意にただ甘えてタダで楽曲を単純に楽しむことに、何か後ろめたさというか申し訳なさを感じてしまうのは、僕だけ? じゃないよね? みんなそうだよね? …であればこのコロナ禍が収束した暁には、今回の好意を確実に返すためにも、みんな積極的にCDやDVDを買ったり、ライヴに足を運んだりしましょうよ。それでアーティストとファンたちの一体感も強まれば、まさに災い転じて福、Win-Winになるではないか、ねえ。
 いずれにせよ、まずはコロナが収束しなければ、なわけで。アーティスト各位も我々ファンも、何とかここは踏ん張って乗り切っていきましょう──

   








 よく笑い話として言われること──病院の待合室にて「どうもお待たせ~、あれ? 今日は○○さんは?」「あら、そな言うたら今日来てへんなあ」「どないしたんやろ、どっか悪いんかな?」で、その後そのオバハン2人は午前中ひとしきり世間話で盛り上がり「あ、そろそろお昼やな。ほなこれで帰るわ」「ああ、また明日な」──実際にそんなことがあるかどうかはわからないが、たまに病院を受診して待合室にいると、そんなノリに見えるオバサンたちに遭遇することは、確かにある。
 それらのオバサンたちは決して暇つぶしではなく実際に病院に用事があって来てるのかも知れないが、大半はちょっとした症状だったり、薬をもらいに来たりしてるだけで、そんな重症である場合は少ないと思われる。重症だったらそんなに頻繁に病院まで歩いてこれたりしないわけで──その意味では上述、笑い話として書いた「○○さんおらんけどどっか悪いん?」も丸っきり笑い話でもないのかも知れない。
 一連の新型肺炎騒動で不要不急の外出の自粛が呼びかけられ、さらに病院は逆に感染源になりかねない状況の中、それらオバサンたちの姿は、果たして待合室からは消えたのだろうか? 中高年は感染すると重症化しやすいのだから、特に不要不急の来院は自粛してもらいたいところだが…、いうこと聞かずに出歩いたりトイレットペーパー買い占めに並んだりする高齢者が多数いる状況では、病院の待合室も相変わらずな感じなのだろうか…?
 高齢者は体力も免疫力も弱っており、ただでさえ感染症には弱い。既往症の病歴によってはさらに深刻な症状になりやすいわけで、今回新型肺炎が蔓延してるからではなく、通常時であっても、さまざまな病気を持った患者が殺到している病院の待合室には必要以上に長居するものではない。現在の新型肺炎騒動もおそらくは永遠ではなく、どこかで収束はするのだろうけど、それで自粛解除、また病院に集まろうだなどとはよもや考えないでもらいたい。怖い感染症は新型肺炎だけではなくたくさんあり、病院は多種多様な病気が集まる場所なのである。老い先短いその生命、もっと大切にしておくれでないかい?
 病院の方でも、不要不急の来院をもっと呼びかけてもらいたいし、今回の新型肺炎が収まってもその呼びかけをゆるめないでもらいたい。実際、僕ら普通の患者が病院に受診に訪れる時というのは少なからず体調の悪さにともなって気分も憂鬱なのである。そんな状態の時にオバサンたちのあの談笑の声はどれだけ身体にも心にもこたえることか…、いやホント。
 しかし、こういうオバサンたちって、これで病院内から何か病気もらった日には、自身を反省など一切せず、逆に病院側を思いっきり罵倒するんだろうなぁ…。