菅新政権が誕生した。戦後最長でよくも悪くも国内にも国外にも印象を残した安倍政権の後であり、その安倍政権で長らく官房長官を務め、スポークスマンとして表に出てきていたので一般的にはお馴染みの顔ではあるが、わりと穏健な印象が、ともすると頼りないイメージにもなりかねず、どうしても前の安倍政権との比較でつい「大丈夫かな?」なんて思えてしまったりするのだが── まあ長期政権の後にはありがちなことではあり、中曽根さんの後任の竹下さんの時にも思ったし、当の安倍さんだって第1次内閣の時は小泉さんの後任かつ当時は小泉さんよりも格段に穏やかな印象だったから、やはり同じことを思った。実際いずれの人たちも、その在任中は良くも悪くも前任ほどの大きな実績は残せていないし。長期政権の後任でありながら歴史的実績を残したと言えるのは、佐藤栄作さんの後の田中角栄さんくらいではなかろうか? いずれにせよ、やりにくいタイミングであることは間違いない。上述の長期政権の前任との比較もさることながら、コロナ問題だったり徴用工や慰安婦の問題だったり北の核の脅威だったり延期されたオリンピックだったりと、歴史的にも重大な問題が積み残された状態での就任であるから、先の長期政権でやり残した問題を片づけられるかという重い任務に関して、世間から注がれる目はかなり厳しいわけで、それらにも上手く応えていけるだろうか、という懸念もある──これは菅さんだからというわけではもちろんなく、今回岸田さんや石破さんになっていたとしても上述の重責がのしかかるのは同じであって、それについての不安もやはり変わりなかっただろう。ただ菅さんの場合は上述の、わりと穏健なイメージ(あくまでもイメージである。実際は全く違うのかもしれない)をテレビの画面を通して国民に見せる機会が多かった分、コワモテで時に過激な石破さんや、外交が得意な岸田さんに対して「じゃ菅さんには何が?」と思えてしまうわけである。 尤も、新政権発足にあたって僕がこういう不安を感じるのは決して長期政権の後だけではなく、そうでない時にも多かれ少なかれ感じてきたことではあるんだけどね。小渕さんのときも、森さんの時も、麻生さんのときも、不安の種類はそれぞれ別々ではあったけど「大丈夫かな?」ではあった。何しろ自分の暮らしてる国の舵取りを担う役であるから、今まで慣れてた人からいきなり新しい人に変わってしまえば、全く不安を感じないってわけにはいかないだろう。その時その時感じたそれぞれの不安が的中してしまったこともあれば、その不安を克服して実績に結び付けた総理も過去にはいる。どちらに転ぶかはその新総理の資質と就任後の姿勢、ということになるわけだが── その意味では、菅さんには誠実で一徹な面も見受けられれ、そこは期待材料と言えるかもしれない。また、不安材料については、それを補う存在としての内閣各大臣だったり党三役だったりいるわけで、むしろそれら補佐役が機能することで逆に独裁になってしまう危険を防ぐことにもなるとすれば、むしろ期待材料に転じることもできるのではなかろうか。 菅さんは総理就任にあたり「安倍政権の政策を継承」をアピールしていた。ある意味菅さんらしいとも言えるし、良い政策ならいくらでも継承していただきたい。しかし、単なるモノマネ=安倍さんのコピーになってはダメだし、だいいちキャラが全然違う菅さんは安倍さんには絶対なれない。菅さんらしさで菅さん独自の政策も打ち出して、モノマネではない菅政権の色をどんどん出してほしいと思う。それができるかどうかが未知数であるのは確かで、当然僕の上述の不安も印象から来る想像でしかないのだから。それを破れるか否かは、全くこれからである── |
こちらに書いた鼠径ヘルニア、6年前のこの時は下腹部の左側だったのだが…、反対側の右側にちょっと膨らみがあるなと感じ始めたのは今年の初めあたり。けど手術で塞いでいる左側は通常の形状とは違うので、一概に両側の比較で再発かどうかの判定がつかなかった。そうこうするうち6月下旬頃に痛みを感じるようになったので、翌7月に病院に行ったところ、まさしく鼠径ヘルニア再発。その1週間後には8月に手術の段取りが決まることになった── 鼠径ヘルニア=いわゆる『脱腸』の症状と治療については前回記事に書いた通り、一度経験してるしその時は20分程度の手術で翌日退院、その3日後には仕事に復帰していたので、楽勝という感じでいた。特に前回のメスで切開ではなく腹腔鏡を用いて手術を行うとのことなので、身体へのダメージはより少なく、前回よりさらに簡単に終わるだろうな、とたかをくくっていたのだった── が──実際は手術に2時間、退院は翌々日、仕事復帰が1週間後なのはお盆期間を挟んだからだが、それでも前回のように退院後3日での復帰はちょっとキツかったかも知れない。前回は全く感じなかった術後の痛みも、激痛では決してなかったが数日続いたし、もらった痛み止めの薬もすべて使い切った。これ決して予後が悪くて長引いたわけではなく、当初からの予定通りである。治療の処置も実際の回復も、いずれも前回に比べてずいぶん時間がかかったのは一体なぜ? 腹腔鏡手術──従来のメスを使って切開し術後に縫合する方式ではなく、腹に小さな穴を開けてそこから腹腔鏡を通してモニターを観ながら患部に到達して手術を行うという方式。一般的には身体の負担が少ないと言われているのだが…、しかし外側に見える傷は小さくても、へその辺りから下腹部まで腹腔鏡を指し込んでいく方式は、見えないところの術創がむしろ大きい上に、それが腹の内部にできるわけだから、逆に負担が大きいのではなかろうか? 理屈でもそう感じるし、治療の時間も前回より長かったし、実際の体感でも前回より苦しかったのだけど、実際のところ、ホントはどうなの? 見た目の手術痕は小さいとはいえ、腹腔鏡を入れた穴の後はしっかり残っているし、傷が固まるまではそれなりに血が滲んだりもしてた。傷口が狭い分、体外への出血は少なかったが、内出血がどうだったかはわからない…。まあ、幸いにして術後に特に変わったことが起きることもなく、1回の外来だけで治療は完全に終了して、現在は普通に今まで通り仕事に復帰しているが、前回通りの昔ながらの術式で今回の治療を行ってたら果たしてどう変わってたろうか、というのはちょっと気になるところである──いずれにせよ、腹腔鏡手術が身体により負担が少ないかどうかは、同じ病気で両方経験した立場から、少々首をかしげます。 |
京都府と言われて、他所の人たちはあの京都以外の地域を果たしてどのくらい思いつくだろう? お茶や平等院で有名な宇治はともかく、舞鶴や天橋立あたりでも、その存在は知ってたとしてもそこが京都府ってことは失念してたりするのではなかろうか? 京都府の面積の大半は丹波の山地だったり丹後の日本海沿岸だったりの鄙びた風景であり、いわゆる京都に比べると存在感もさることながら、古都の雅な香りからもかけ離れている。JR山陰本線の下りに乗って進んでいくと、保津峡を超えて亀岡あたりまでくるともう、いわゆる京都らしさは薄まっていき、上述の鄙びた光景が広がっていく── そんな山地と農村ばかりの光景にすっかり慣れたところで「おや、ちょっと街が開けてきたな」と思ったところで、電車は福知山駅に到着する。丹波エリアでは最も大きい都市である福知山市の玄関駅である。僕が初めて降りた'92年末当時は現在の立派な高架駅ではなく昔の国鉄色の強い駅ビルだったが、それでも山陰本線で下ってきた身には久々の市街地の玄関口を感じさせる立派な駅舎だった──その駅舎から見た駅前の佇まいも、もちろん上述のいわゆる京都のノリはほとんどなく、どこにでもあるそこそこの規模の普通の地方都市のそれであった。 京都はもちろん、他の主要な大都市からも遠い福知山市だが、その割に開けてる感じがするのは、大都市から遠いおかげで逆に拠点性が高いからなのだろうか? とも思ったが、しかし考えてみると京都からだけでなく大阪ともそこから分岐するJR福知山線で1本かつ途中に尼崎や宝塚を経由してるから、ちょっと関西の主要都市まで足を伸ばすのは意外とたやすい。都会に行きにくそうで意外と行きやすいロケーションなのである──とはいえ距離はあるし道中は山越えもあるから頻繁には行けない。その程よい距離感がこの街の発展の要因なのだろうか。実際JR西日本の支社も置かれており、京都丹後鉄道で天橋立や舞鶴方面へも行きやすく、鉄道的には主要拠点と言える街である。 ──そんな感じで、結構開けてるな、という印象を持ちはしたけれど、そこはやはり丹波の山を超えてきて鄙びた風景に慣れてきたがゆえの印象なのは否めない。その日は年末で世間はお休みだったはずなのだが、駅近辺の人通りは結構少なく、賑わってるという感じはあまりしなかった。駅前には商業ビルも小売店もそれなりにあって、そこそこ建物が並んでいただけに人の少なさが際立ってた気がする。まあこれはどこの地方都市でもありがちな光景ではあるが、でもやはり『京都府』にあるということでどうしても。いわゆる京都とのギャップで、イメージ的に損をしてるのは否めない──結局、この時の途中下車では駅前からあまり遠く離れることなく再び山陰本線の下りに乗ったのだった。そこそこ開けて見えた佇まいは、駅前だけだったのか、それとも駅から離れた所に繁華街が別にあるのだろうか…? その後、上述の通り福知山駅は高架化されてかなり大きく立派な駅になってて、当時は裏口側だった南口側にも北口同様に商業施設が増えてきているという──高架化後の福知山駅では降りたことはないが、法事等で豊岡方面や行く途中に何度か停車中の車内から周囲の様子を目にはしている。車窓から見た限りでは僕の記憶にあるあの当時よりは街の賑わいぶりはかなり上がってるように見受けられるが、実際に降り立ってみると果たしてどうなのだろうか──街が発展することはもちろんいいことなのだろうけれど、地方の街があまり都会っぽくなってしまうのも、感じてた親近感が薄れて離れていってしまうような気がして、通りすがりの旅人的にはいささか寂しい感じなものも否めない。 |
『現実』──辞書によれば「いま目の前に事実として現れている事柄や状態」という意味である。コロナウィルスの感染者数が日本国内で今日現在何人、東京都では今日新たに何人の陽性が判明、新たな死者数は何人、というのはまさにそれ。目の前で事実として、それも具体的に数値化されて現れている状態である。そういうニュースが報じられてる中で「コロナにかかったって大したことないや」って感じで安易に外出したりマスクのつけ方が不十分だったりする人たちを見つけては“意識の高い”方々が声高に叫ぶのが表題の言葉「おまえらちゃんと現実見ろよ!」である。 この「現実見ろよ」というセリフ、これまでも政治問題や国際情勢、経済状況などに関してたびたび“意識の高い”方々によって発せられてきたが、それらはほぼすべてが、楽観的にのほほんと考えている人たちに危機感を煽るカタチで発せられており、彼らの突きつける『現実』というのはことごとく悲観的で希望の持てないものばかりである──だがこれは別にその“意識の高い”人たちのイデオロギー的な問題というわけでもなく、国語の教科書や辞書なんかでも『現実』を『理想』の対義語として解説してたりするし、実際僕も含めた多くの人はそのように学校で習ったのではなかろうか? まあ『理想』の意味が辞書的には「人が心に描き求め続ける、そうあってほしいと望む最高の状態」という“空想”であるから、目の前にある事実であるところの『現実』が対極に位置づけられるのは理解はできなくもないのだが…。 しかしこの「今目の前にある事実」という言葉に「悲観的な」という意味合いはどこにもないし、辞書的にもそのような意味づけは別にしていない。『理想』が「希望的観測」であるがゆえに対義語として位置づけられた『現実』が常に「悲観的」なものと規定されてしまうのは、ちょっと何だか…、である。上述のコロナでは他国に比べて感染者も死者も圧倒的に少ないという事実も目の前にあるし、マスク着用も外出自粛も罰則規定のある強制ではなく、諸外国よりもうんと緩い規制の中での上述の数字である、というのも間違いない「目の前の事実」である。政治にせよ経済にせよ悲観的でない楽観的な「目の前の事実」はいくつもあるし、語義的にはそれら楽観的事実だって十分『現実』なのである。「現実見ろよ」派はそっちの方の『現実』はちゃんと見てるのかな? もちろん彼らが声高に叫んでるようなよくない『現実』も間違いなく事実としてあるわけで、決してそれらから目をそらしてはいけないのだが、しかしこちらやこちらにも書いたように、甘くない志向よりも甘い志向が前面に出た方が物事は上手く進む場合が多いと思う。いいことも悪いことも等しく『現実』であるならば、一方の『現実』だけでなくもう一方の『現実』も等しく見て、両方の『現実』を踏まえた上での将来の可能性が広く探られるべきだろう。「現実見ろよ」派のみなさん、現実見ろよw |
3月場所の無観客開催、5月場所の中止を経て、7月場所は何とか開催にこぎ着けられたものの、開催場所はいつもの名古屋ではなく両国国技館。観客の人数にも制限を加えてお茶屋さんの販売も中止、入場に際しては検温やアルコール消毒を徹底し、感染予防に注意を払いながらの開催となった。この厳戒態勢は先の9月場所や、次回の11月場所でも同様の方針であり、11月もいつもの九州ではなく両国国技館での開催となる。そんな状況だからもちろん場所と場所の間の巡業は行われず、各地方の相撲ファンにとっては力士と生で触れあえる機会はまだまだ当分お預けということになる…。 状況を考えれば致し方ないし、それだけ感染予防に神経質に気を使わざるを得ないわけである。国技館での本場所でクラスタ発生なんてことにでもなってしまったら、本場所は無期限中止となるだとうし、相撲協会の、いや国技である相撲自体の存続も危ぶまれることになるから、相撲協会としてはことのほか神経を尖らせざるを得ないのは当然と言えよう。何しろ協会員の中からも感染者や死者まで出てるわけだから、決して他人事ではないのである──しかし、協会首脳部がいくら神経を尖らせても、最終的には力士をはじめとする協会員ひとりひとりの自覚しかないんだよな。それなのに…。 厳戒態勢の7月場所の開催中、幕内の阿炎の突然の休場が発表された。前日までは何事もなく相撲を取っており、その日も出場すべく場所入りしていたのに、である──接待のある夜の店への出入りが発覚したため、師匠の錣山親方(元関脇寺尾)が強制的に休場させたのだという。もちろん協会へも経緯の詳細な報告がなされ、真相が明らかになるにつれ、その自覚のなさが次々と露呈してきて、さすがに協会としても看過はできず、ご存知の通りの3場所出場停止で先の9月場所だけでなく十両に落ちる来場所、さらに幕下におちる来年1月場所と、阿炎の姿を土俵で見ることはない。処分決定前に阿炎側からは引退届が出されてたというが、それについては協会預りとし、もし次回何か問題を起こしたらその時に受理するとのこと。言わば執行猶予である。そして、結婚したばかりの新妻との新居から部屋に戻されて師匠の監視下におかれることとなった。これらの処遇には甘いとか厳しいとか意見は分かれるようだが、いずれにせよ時節をわきまえない本人の無自覚に帰するものであることは間違いない。 自分の行動が、周囲にどのように影響するのか、幕内力士という自身の立場からきちんと認識してほしかったという一言に尽きる。単に風紀とか作法だけの問題ではない、不特定多数の生命に関わる衛生の問題なのである。それに対してみんなが神経質なまでにピリピリと取り組んでいる真っ最中なのである。協会員としてだけではない、上述の通り自身も結婚したばかりで家族ができたではないか。新妻に感染させちゃうかも知れないとか、ちょっと考えられなかったのだろうか──いずれにせよ、阿炎にとってはもう後がない最後のチャンスである。その自覚、本人にはどの程度あるのか。 そして今回の阿炎の件を、他の力士たちはどうとらえているのか。もし阿炎と同じことが発覚したとしたら、阿炎と同等かそれ以上の非難を浴びることになるだろうが、果たしてみんな大丈夫だろうか? 他人事だなんてまさか思ってないだろうな? 危機感と自覚をひとりひとりが持って節度ある振る舞いをしなければ、力士としての自身の立場だけではすまない、相撲という文化そのものにとどめを刺しかねないのだということを、どうか忘れないでいただきたい──と思いつつも、今までの相撲界でのあれやこれやを考えると、その辺がどうにも心もとないんだよな。ホントに、ホントに頼むよ! |
この曲のリリースは実は今年ではなく昨年の初め頃である。しかしリリースから1年以上、この曲が話題になった様子もなかったし、僕自身もこの曲を全く知らなかった。そんなこの曲を、数ヶ月前くらいからやたらラジオでも街角でも耳にするようになった──何でもTic Tocで話題になって火がついたらしい。Tic Tocには全く手を出してない僕が知らないわけである。 動画投稿サイトであり、けっこう激しめの踊りが投稿されてるというのが僕のTic Tocの印象なのだが、しかしこの曲はメロディも歌唱も声質も、激しめとは対照的に素朴で穏やかである。この曲がTic Toc発? 意外だなぁ、なんて思いながらも何度か聴いてるうちに、素朴で穏やかがゆえに平易で覚えやすいそのメロディがあっという間に僕の記憶にインプットされてしまい、気がついたら自分で口ずさんでるようになっていた── はい、瑛人の『香水』のことです──MVの方も視聴させていただいたが、楽曲だけでなく、歌ってる瑛人のルックスも同様に素朴で穏やかな印象。…なのに、その隣で踊っているダンサーの女性がやたら激しい動きで(そういうところがTic Tocでウケた要因なんだろうけど)、思わず「何だこのミスマッチは」なんて思ってしまったわけだがw でも僕の場合は先に楽曲から耳で入ったからそう感じるのであって、まず動画から入った人たちとは感じ方が違うのだろう。まあ、入りはどうあれ、それがきっかけで1年以上も日の目を見なかった曲も本人もブレイクして、僕を含む多くの人たちに知られるようになったのであれば、それはそれで結構なことではないでしょうか。 ──今回のTic Toc発の大ヒットの背景には、やはりコロナによるステイホームの影響でライブやDVDのリリースが軒並み延期や中止になった中で、各アーティストたちがYoutubeなどの動画配信に重点を置き、受け手の側もそちらでの鑑賞にシフトしたというのが大きいのだろう。『香水』の場合はもちろんコロナ禍よりもずっと前のリリースだから瑛人やスタッフにその意図はないわけだが、結果的にそこから派生して埋もれた曲が掘り起こされたということであれば、これは新たな可能性だし、他の無名アーティストたちにもチャンスと言えるかも知れない。コロナ禍のおかげってことになっちゃうと素直には喜べないかもだけど、きっかけはどうあれまずアーティスト世界を知ってもらうことができれば、あとのイメージは自分たちで作っていけるわけだから、事情はどうあれチャンスは有効につかんでいければいいと思う。 しかしながらこの『香水』に関しては、ラッツ&スターやノーブラヤッホーと同じようなことが起きたりしないか、という懸念がチラホラとw この曲のヒットがなければ今でもドルチェ&ガッバーナなんて知らなかったであろう僕としては、自社宣伝のためにもメーカーさんにはシャネルやヌーブラと同様の態度はくれぐれも取らないでいただきたいところではありますが── |
7月、全国的に毎日毎日雨降り続きで日照時間も少なく、気温も上がらない日が丸々1ヶ月続いた。多くの地域では「雨ばかりで鬱陶しいなぁ」「涼しくて夏らしくないなぁ」程度のレベルだったろうが、九州では記録的な豪雨災害に見舞われ、特に熊本県人吉市の被害は甚大で、死者や行方不明者などの人的被害もそうだし、道路が寸断されたことにより孤立世帯もたくさん出た。特に第三セクターのくま川鉄道は路線の寸断もさることながら大半の車両が水に浸かってしまい、再開には相当な期間を要する見込みである。 当然、家を失った人たちは避難所に身を寄せることになるわけだが──はい、コロナの影響でありとあらゆる公共施設では十分な消毒とソーシャルディスタンスが求められてる状況。しかし、着の身着のままの避難住民たちが消毒用アルコールやマスクを豊富に持ち合わせてるとは思えず、自治体で供給するにも限界があり、他から調達しようにも上述の通り交通は寸断されてる状況であり、また感染防止の観点も含めて県外からのボランティアを辞退して自分たちだけで頑張ってる状況である。よそからマスクや消毒液を調達することはかなり困難といえよう。必然的に感染予防策は距離を保つことに重きがおかれることになるのだが、限られた避難所のスペースで人と人との距離を保つためには収容人数を制限せざるを得ない。被災地の人たち全員の面倒を見る余力が、自分たちも被災当事者である地元自治体に果たしてどの程度あるのだろう? 7月の時点ではそれは人吉市周辺に限られたことだったのだが、その時点でまれに見る発生数の少なさだった台風も8月からこっち次々と発生し、それまで防波堤として上陸をガードしてくれてた高気圧が弱まってきた9月以降、台風自体の勢力も強さを増してきており、沖縄を始め九州四国はその脅威にさらされており、その脅威は東日本にも確実に近づいている。人吉のような状況がいくらでも起こりえるわけである。自然災害は避けられないものだから、そんな中で我々自身に生命を守る行動=早めの避難が求められるわけだが──避難したその先で別の意味での生命の危険にさらされ、そっちの対策が心もとないという事態がどこで起きてもおかしくないことは7月に時点でわかったであろう、自分も含めた他地域の人たちは、この2ヶ月の間にどうしたらいいか、考えてみたりはしただろうか? まあ、考えてみたところで自然災害は容赦なく起こるわけだし、コロナウィルスも簡単には終息しそうにないわけで、出来る範囲の中で最大限の防衛をするしかないのだけど、それでも事前の準備で出来る範囲を広げていたか? 最大限の防衛をしたか? などと自責しながら不十分な環境でよそよそしく距離を保って避難所で過ごすことを思うと、そうなってから後悔しないように気をつけなきゃな…、なんて頭の中でだけなら思うことは思うんだけど、ね。 |
新型コロナウィルスによる猛威が日本全国で蔓延する中、感染の有無を判定するためのPCR検査をめぐって「全員検査を」「いやムリだ」の議論が至るところで聞かれた。まあ1億人からいる日本人の全員を検査するなんてことが物理的にムリなのは常識でわかるし、日本よりもPCR検査を広く実施してる国で、それに手間を取られる余り医療体制が追いつかず、他の病気やケガへの対応がマヒする“医療崩壊”が拡大、それが結局肝心の新型肺炎患者の受け容れにまで影響してしまい、感染者数も死者数も逆に日本よりも多いという本末転倒な現象が見られたりする。 そんな状況があるにもかかわらず「PCR検査数をもっと上げろ」などと声高に叫ぶ人たちって、そんなにPCR検査に対して全幅の信頼をおいてるのだろうか? 現状、検査制度は決して完璧ではないし、コロナで死亡した人の中にも「検査では陰性だったのに」という例も少なからずあるし、複数回の検査で陽性から陰性へ、その逆へ、という話も多く伝わってくる。最近では“微陽性”などという表現も聞かれるようになり、どんどんカオスになってく気がする──そんな、信憑性の怪しい検査のために鼻の奥の奥まで綿棒突っ込んでグリグリやられて…、なんてプレイをやってくれと切望するなんて、一体どういう嗜好なの? ──しかし、そうは言ってもそれなりの検査精度はあるだろうし、現状具体的な症状が出てないがゆえに検査を受けるにさえ至らず、感染を見過ごされてる人は少なくないであろうことは間違いない。なので可能であれば検査のハードルがもう少し下がって検査数がもうちょっと上がった方がいいのかな? とも思う──しかし、そこまで努力して検査数が上がって、さて感染予防にどの程度役に立つのだろうか? 上述の通り、もっと多くの人がPCR検査を受ければ、日本の感染者数の数値は現在よりもかなり上がるはずである。しかし、それってまんま致死率を計算する際の分母だけが上がる、ということであるから「実は感染者数がもっと多かった」イコールまんま「実は致死率はもっと低かった」ということになるわけで、そうなると逆に「コロナにかかったって別にどうってことないや」なんて印象になっちゃって、コロナをなめてかかる人が増えちゃうんじゃないのかな? 特に重症化しにくい若い人たちが…。緊急事態宣言解除された途端に再び感染者数が上昇に転じ始めたが、その割合は30代以下の若い人がかなり多いというから、すでにそういう印象が持たれ始めてる節があるような。それにますます拍車がかかってしまうのではなかろうか。 国民の予防意識を高めるという観点からは、PCR検査比率は今のままでいい、いや、むしろ今のままの方がいい(さすがに「減らしていい」という度胸はないw)。万万が一そんな余裕があるなら(ないと思うが)、その分をコロナにかまけて後回しになっちゃってる他の病気やケガの治療に注力してくれ…。現状の日本の感染者数&死者数なら、それが最も国民全体の健康のためである── |
表題に書いた通りのことである。春先からこっち、今日に至るまでニュースもワイドショーもコロナがらみの話題ばかりである。感染者数の推移やクラスタ発生源、感染予防対策などの話題はもちろんだが、それ以外にも各業界とも休業が続くことによる経済の悪化や給付金のこと、学校教育の遅れや9月入学の検討の話題なども含めてコロナがらみのニュースと言えるだろう──ご多分に洩れずここの各記事も春からこっち、カテゴリジャンルを問わずコロナの話題が増えてて、本来コロナと無関係な話でも何らかのカタチでコロナの話題を絡めてる感は否めない。…しかし、そんな中でもコロナとは無関係なところでの大きな事件は起きてるし、また決して小さくはない扱いで報道されてもいる。そんな、コロナ以外のニュースの中にももちろん僕的に関心の高いものはたくさんある── 出演した『テラスハウス』での振舞が原因でネットでの激しい誹謗中傷を浴びていた女子プロレスラーの死去(敢えて報道各社の報じ方に準じた用語を使います)及びそれを受けて発信者の特定が進められて刑事事件扱いとなるかも、と報じられるや慌てて件の書き込みやアカウントが次々と削除されてるというニュースはネットの負の部分が端的に表れてる感じで残念さを禁じ得ない。この件ではあらかた語り尽くされてる中の多数の声に僕も同意なので多くは繰り返さないが、一般大衆のメディアリテラシーはその程度のものであることを『テラスハウス』制作側が配慮できなかった(わかっててわざと煽ってた?)のは、中傷者と同等かあるいはそれ以上に罪が重い気がしてならない。刑事責任の追及は、書き込みをした人だけでなくテレビスタッフに対してもされるべきではなかろうか。 この件の報道を受けて多くの芸能人が #芸能人も人間だよ のハッシュタグ付でネットでの誹謗中傷をやめるようツイッターで呼びかけてたが、それらツイートには決まって「安倍総理だって人間だよ」みたいなリプがついていた。小泉今日子やきゃりーぱみゅぱみゅらによる #検察庁法改正案に抗議します ツイートへの意趣返しのつもりなのだろう──これも語り尽くされてるので繰り返さないが、反対の声を上げる方にもこの法案に対する誤解があり、政府側にも説明不足はあるだろう。ただ明らかに何者かが煽ったカタチで騒ぎが大きくなって、定年延長された元検事総長が必要以上に悪者のように印象づいたように思う。結局辞任の引き金になった賭け麻雀の他の3人の相手がいずれも新聞記者で場所が記者の部屋だったというのが非常に胡散臭いが、元検事総長はあるいは何でもいいからその立場からとにかく逃れたくて敢えて自ら罠に飛び込んで地位を投げ出しだのでは? などとも思えてきたりしてしまう…。 法案への反対声明も元検事総長への非難も、これもやる方はおそらく正義のつもりなのだろう。つくづく間違った正義は暴走するものである──アメリカの黒人差別抗議デモが暴動や略奪へと変貌してしまうのもそうであろう──白人警官に抑えつけられて死んだのが黒人だったことばかりがクローズアップされて差別問題へとミスリードされてる気がするのだが、件の黒人は前科も複数あり、今回も犯罪を犯した上で警官に抵抗した結果の出来事だという。それでも結果的に殺人に至ったのは事実であり、だからこそ関係した警官はいずれも逮捕され罪を認めて裁きの席についている。そういった背景事情が『差別への抗議』という美名に覆い隠され、あまっさえ暴動や略奪が正当化されてしまうというのは、正義とは言えないだろう。差別は差別、事件は事件で、切り離して考えられるべきではなかろうか。 3つばかりコロナと無関係の大きな事件を取り上げてみたが、図らずも『正義感の暴走』という点で共通してしまった。『正義感の暴走』といえばいわゆる『自粛警察』もそうだよな──と、結局コロナの話題と絡めずにはいられないという…。 |
新型コロナウィルスによる全国的な感染が蔓延して、全国でも多数の死者が出た。他の先進国に比べれば人口比ではかなり少ない方ではあるとはいえ、3桁を超える死者数はやはり軽くは考えられるものではない。全国的な緊急事態宣言による自粛が功を奏したのか、感染者数の増加はだいぶ下火になってきたが、いざ宣言が解除されてみるとまた新たなクラスタが発生して感染者数が増加に転じ、すわ第2波か、とささやかれる状況となり、現在もまだまだ気を抜けない状態である── …と、ここんとこ毎度毎度すべてのカテゴリ記事がコロナがらみだったり、直接コロナと関係ない題材であってもどこかでコロナの話題に絡めたり、という感じになってて、皆さん正直「またかよ」とお思いでしょうが…、でも現状全世界共通の話題であることは紛れもない事実であって、それこそ「お暑うございます」とか「台風来そうですね」的に時候の挨拶っぽくコロナの話題になってしまうのは、まあ致し方ないことでしょう。 テレビを観ててもニュースはもとよりワイドショーやバラエティ番組までその話題ばっかりだし、実際出演者たちもリモートだったり席を大きく離してたり透明なアクリルボードで仕切られたりしてる中でのオンエアの状況が普通に観られる。ドラマでさえも撮影収録ができなくて新作の放送ができず、過去の再放送でつないでる状況、やっと一部再開したスポーツ中継はいずれも無観客と、テレビ番組の話題でしゃべろうとしてもコロナが第一にならざるを得ないのである── こんな現状でコロナに全く触れない言動で日常生活を通すことなんて可能なのだろうか? それで通したら通したで『自粛警察』の皆さんに不謹慎だ何だと罵られかねないし、だいいち自分が感染する危険性を省みたらコロナのことを考えないで通すなんてことも怖くてなかなかできない…。 そんなわけで今回もこうしてコロナの話をしてるわけだが…、上述通り日常会話でもメディアでもコロナの話はもううんざりするくらい語り尽くされており、たとえばここの『おすもう』や『Jダベ』カテゴリのようにスポーツ芸能テーマの話題の中にコロナネタを絡めて関連づけることはできても、コロナそれ自体をテーマにするとなると、新たな方向に話題を広げることはもう難しい──今回のこの記事もここまで書き進めてる現在に至っても、どこで話を落とそうかと着地点を決めあぐねてるわけで…。 まあ、そろそろ行数も尽きてきたから強引にシメてしまうわけですが、尻切れトンボ感は否めない記事になってしまいましたね。上述、昨今のどのジャンルのテレビ番組もことごとくそうなってるようにw これもコロナのせいだ──「じゃあ記事書くこともやめちゃいなよ」なんてこと言わないでね。それだけはイヤだ。コロナには絶対負けたくないw |