ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -7ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 昨年の会社の定期検診は10月にあった。毎年6月に行われてるのだが、ご多分に洩れずコロナの影響で延期されて4か月遅れでの実施となったわけだ。単にズレただけと思うかもだが、例えば1年後の要再検判定項目だと1年後でなく1年4か月後になったりするわけで、状態によってはこの4か月の遅れが命取りになりかねないから、かなり不安は否めなかったのだった。で、その検査結果は約2か月後、昨年11月末に届いたわけだが──結論としては検査した項目についてはいずれもノープロブレム、要再検も要精検もなしだった。安心してもいい、とのことである。検査した項目については…。
 今回の検診では感染予防の観点から肺機能検査(鼻をつまんで筒をくわえて肺活量その他を測る検査)が全面的に中止になっていた。コロナ感染による新型肺炎の重症化の可能性を左右する肺の疾患の有無を調べるために重要な検査が…。とりあえず肺レントゲンがノープロブレムだったから僕に関しては大丈夫だろうけど、でも不安は完全には払拭できない。
 さらに僕の場合、それに加えて8月に鼠径ヘルニアの手術で腹腔鏡手術を受けてからわずか2ヶ月ということで、今年は胃のバリウム検査が取りやめになってしまった──術創にバリウムが変な状態で固まってこびりついてしまうと腸閉塞など重大な腸障害の恐れがあるということで、腹部の手術後1年を経過してなければバリウム検査はできないのである。メスで切開ではなく腹腔鏡で小さい穴を開けただけだし、腸そのものに傷をつけてはいないのだが、それでもやはり検査不可だそうで、今回はバリウムを飲むことも撮影台の上でゴロゴロ転がり回ることもなかった──この検査で引っかかって胃カメラ飲まされたのが一昨年のこと。昨年も経過観察状態だったし、胃については要注意状態が続いてるだけに、この検査が中止されたことがかなりの不安材料であることは否めない。
 それら一般的にも個人的にも不安が大きい箇所への検査がいずれも中止されて残った項目の検査範囲内で「安心してください。異常ありません」って言われても、安心できます? まあ、ガンとかが出来てれば白血球かその他の何らかの数値がおかしくなるだろうけどそれはなかったし、血糖値も尿酸値もコレステロール値も正常だったから他の成人病の心配もない。まあ安心していいだろうな…、と理屈では思うのだが、でも検査項目それも不安を抱える箇所へのそれが欠けるとやはり心配してしまう──次回の検診はまた6月に戻るのだろうか? だとしたら腹腔鏡手術からまだ1年経過してないからまた胃の検査ができなくなって、結局3年越しになってしまう。3年も放置はやはりまずいよな…。てかその前にコロナが収束してなければ検診自体もまた変則になるのか? どうなるんだろ…。
 









 前回記事で、横綱不在がせっかくの若手の大活躍の印象を落としてしまっていたことに言及し、11月場所では奮起して進退をかけて横綱としての責務を全力で全うしてほしい、と結んだのだが…、何とその記事がUPされた当日に、またしても両横綱の連続休場が発表されてしまった。ふたりともケガの調子がかなり悪いようで、土俵復帰の目途がいつ立つのかもわからない状況のようである。これだけでも十分興ざめではあるが、ともかくも新大関の正代を含む若い3大関がで"未来の横綱"として横綱不在の場所で後進の壁として君臨してほしい、なんて思ってたのだが、3日目で朝乃山が早々と休場して、定年前の高砂親方の師匠として最後の場所に水をさしてしまうなど、初っ端から盛り上がらないことが確定してしまい、暗澹たる気分になって11月場所のことに関してここで各気力が失せてしまったので、今回は全く別の話題で書きます──つっても今回の話題もあまりスカッとする話ではないですがw
 で、表題であるが──一代年寄・貴乃花親方が相撲協会を退職したのが一昨年の秋のこと。そこに至るまでの前年末からの過程は当時かなり話題になってて皆さんご存知だろうから割愛するが、相撲協会で理事にまでなり、遠からず理事長になると思われた人物が、最後は平年寄にまで降格した末の退職であり、本人的にも不本意なカタチであるだろうだけに、よくも悪くもその後については注目される…、と思ったのだが、ちょこちょこバラエティ番組やCMなどで見かけはするものの、何に軸足を置いて活動してるのかがイマイチはっきりしないように思えるのである。
 過去、横綱という番付の最高峰を極めて引退後に相撲協会を離れた元横綱のその後というのは、現役時代の華やかさとの比較でどうしても見劣り感が否めないのは致し方ない。男女ノ川や双羽黒などが代表的であるが、安藝ノ海なども私的な経緯もあって晩年は寂しい感じだったし、格闘技に転向した輪島や曙も華の時期は短かった。解説者として毎場所お馴染みの北の富士にしても、現役時代や親方時代の実績と比較するとやはり…、である──その点母国で英雄扱いな朝青龍や日馬富士は引退後もそれなりに成功してるようだが…。
 で、貴乃花の場合は元大関の先代貴乃花の次男にして"土俵の鬼"初代若乃花の甥という血筋にそむかず、父や伯父をはるかに上回る優勝22回の強い横綱として、引退後には一代年寄を名乗り、協会でも上述の通り上位の要職にあった人物であるから、退職後の印象はどうしても見劣りしてしまうのではあるが、それを割り引いても「何してるの?」感が強いのである。wikiには芸能活動やら社団法人やら大学特任教授やら、はたまた政界進出の噂ありやら、何やらいろいろ書いてあるが、どうも漠然としてて芯がハッキリしない。現役時代から愚直なまでにストイックを貫いた彼が、それらの分野で海千山千の人たち相手に要領よく立ち回れるとは思えないし…、正直不安しか感じられないのですが。母や兄とも音信不通状態で年上の嫁さんとも離婚、靴職人の息子とも確執があり、身内にも味方がいないようだし、果たして自身のこれからのビジョン実現のために、どのように周囲の協力を得ようとしてるのだろうか──
 そう考えると、相撲協会の親方でいることって、かなり安心ではあるよな。中学出たばかりの頃から知ってる(てかそれしか知らない)世界で最高峰まで昇りつめた実績を財産にそこそこのポジションで65歳まで活躍できる。それを手放していい年齢になってから外の世界へ飛び出すのはかなりの勇気を要するだろうし、その決意自体は立派だと思うが、決意だけでは渡っていけないのが現実社会であるということは、きちんと認識して覚悟しておかなければならない。



 









 小学校高学年くらいの頃、「○○は××なんだって」と、例えば「ビックリマンチョコは売り来れ」だったり「ミキちゃん用事があって先に帰るって」だったり、小さいことではあるが相手にとってちょっぴり残念なことを必要以上に大袈裟に伝えたすぐ後に「怒るなよぉ~」と付け加えて逆に相手を嫌な気持ちにさせる遊びがクラスで流行ったことがあった。もちろん他愛無い面白がりであるが、多少の意地悪心も含まれており、要するにプチいじめである。ちょっとガッカリではあるけど別に怒るほどでもないことで「怒るなよ~」としつこく言われて、むしろそっちの方に逆に怒りたくなってしまう…。まだ小学生の子供だった僕たちが、意図的意地悪だと認識しててプチいじめ目的でやってたことである──
 で、表題。僕は「気を悪くしたならごめんなさい」という謝り方を相手からされると逆に火に油が注がれる。いや、付いてなかった火が付いてしまったりさえする。それは、相手の謝りの言葉の裏に「わたしは何が悪いのかわかんないんだけどね」という本音が見え透いてるから、である。実際にそうとしか思えない人約1名から毎度毎度こういう謝り方ばかりされて「いい加減にしろよ」とさんざん思わされてきた…。
 その人からその謝り方をされた何度かの事例、確かに僕が気分害してたのも事実だが、それよりもその人に対してはふたりが共に属するコミュニティで上位である相手の肩書とか立場に基づいた諫言ということを常に強調して言ってたのに、そっちには一切触れようとしなかったから。こちら的に優先度低いことにだけ謝罪されてもっと重要な点については無視され、その後も同様のことを何度も繰り返されるという状況が続けば、そりゃ「この人の謝罪はポーズだけだわ」って考えになりますですわ。
 大体「気を悪くした」のには必ず理由があるわけで「気を悪くさせた」件への謝意があるのならその原因を取り除くよう努めなければまた同じように「気を悪くさせ」て、の繰り返しになるだけ。当然でしょう。僕はその人に対して常にその「気を悪くした理由」にあたる件について明言していた(というかその件についての異議のみを伝えており「気を悪くした」こと自体にはそもそも言及もしてなければ問題にもしてない)わけで、的のはずれた箇所にだけ謝られても「そっちかよ?」である──もちろんその「気を悪くした」理由であるところのその行為が「悪いことではない」「状況的にやむを得ない」ことであればそれを納得いくよう説明してくれればよい。それが理解できればこちらも鉾は収めるし気分も直す。それだけのことなのだが…。
 要するに「問題はそこじゃないだろ!」な謝り方しかされてこなかったという実体験が僕の場合の「気を悪くさせてごめんなさい」への違和感の理由なわけです。あくまで先述の経験的事例の場合の話であって決して一般論的な話ではありませんけどね。
 でも上述、小学生だった僕たちが意地悪と認識してやってたことをいいオトナがガチ真面目に謝意だと思ってやってるってのは、正直片腹痛いし、そんなんでも傍目には「もう謝ってるんだから許してあげたらいいのに」とか「悪気はなかったんじゃないか」とか映ってしまい、それでも怒ってるこちらが逆に狭量みたいに思われてしまうんだから、全くやりきれないです…。

 









 今年も流行語大賞の季節になりましたね。ノミネート語は先月初めに30語発表されてるけど、予想にたがわずコロナ関連の用語がいくつも並んでおり、通常の年なら有力大賞候補になりそうな『鬼滅の刃』や『あつ森』なども影がイマイチ薄い感じがするものの、芸能から世相から経済から、基本的には広範囲なジャンルから選出されてるのではないかという印象ではある。
 この流行語大賞、正式名は『「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞』であり、その年に発生した『言葉』の中でも軽妙さや世相の反映度、ニュアンスなどで、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選出するもの、ということではあるのだが、ノミネート語の選出はあくまでその年の『現代用語の基礎知識』に収録された用語がベースになっており、あくまで特定の版元によって発行された一事典に準拠した視点で選出されてるにすぎない。
 とはいえ、選考委員にはメインサブを問わずカルチャーの一線で活躍してる文筆家や、国語学の権威の先生なども名を連ねており、それなりにバランスは取れてる気はする。もちろん過去のノミネート30語のみならずトップ10の中にも「これそんなに流行ったっけ? あまり聞いた覚えないぞ」なものもなくはない(一昨年の『ご飯論法』などがそうだった)が、それは単に僕の見聞の範囲内の話であり、むしろ自身の疎かった世界を新たに発見できたてラッキー、って感じに僕はとらえている。
 ──なので、毎年これらノミネート語の顔ぶれを見るたびにネット上に現れてくる「そんな言葉知らんぞ、どこで流行っとるんじゃ」などと文句つけてる人たちって一体…、と驚嘆を禁じ得ない。ツイッターとかだと「知ってる? 知らないよな?」などとフォロワーに同意を求めてるような人も時々いるんだが、その「知らないよな?」の具体的な言葉が、昨年だと『パプリカ』だったり数年前だと『ダメよ~ダメダメ』や『アラフォー』だったりして、申し訳ないが「そりゃお前の世界が狭すぎるだけだよw」と言わざるを得ない──
 いや、生活スタイルは人それぞれだし、保育園に行くような子供も孫も甥っ子も姪っ子も、親族にも友人知人にも全くおらず、かつ行動半径内に保育園も幼稚園も1件もなく、園児が音楽に合わせて踊る場面にも全く遭遇しない、かつテレビもラジオも一切聞かない、だから『パプリカ』なんて知らない、って人ももちろんいるだろうし、またいてもいいとも思うけど──少なくともその基準で『流行語大賞』選考に口はさむのはちょっと…、ですよねw ちょっとググってみる気もないようだからおそらく興味も全然ないんだろうに、なぜ『流行語大賞』の話題に言及してくるんだろう?
 単なる流行語とはいえ、その言葉が流行るには政治的だったり文化的だったりの何らかの背景があるわけであって「そんな言葉知らん」で片づけることはそれら社会情勢も含めて「知らん」と背を向けることにもなるかも知れないのだが、それでいいのかな? 流行を追わないのと流行を否定するのは、全然違うことですよ。
 









 幹線鉄道から分岐するローカル盲腸線の終端駅が市の代表駅、という例が全国にはいくつかある。境港男鹿鳴門などがそうなのだが、それらの市はいずれも海辺にあって水運だったり漁業だったりの拠点になってるイメージがある。それらの市の玄関である鉄道駅も、今よりも貨物輸送における鉄道の役割が重要だった時代からの名残りで、旅客よりは港湾方面への利便を優先した立地になっており、駅舎の小ささもさることながら駅前も市街地とは離れてて周辺は鄙びた、というより倉庫や港湾庁舎の鉄骨むき出しなコンクリート壁が塩分混じりの潮風を浴びて荒れが目立つ…、という荒涼とした光景が目立つ感じがする。それらの街を僕が訪れた時にはいずれも休日だったり市場のセリも終わった時間だったりで、港湾で働く人の姿も見られなかったので余計に寒々しさが際立ってるような気がした──
 今回取り上げる氷見駅も、結論から先に言えば、降り立った時の印象は上述の通りだった──当時のJR北陸本線、現在のあいの風とやま鉄道高岡駅から分岐するJR氷見線は、車窓右手に広がる富山湾の風景がとても綺麗で見ごたえがあるものの、基本的には何もない鄙びたエリアを通り過ぎていき、わずか7駅で路線は終端の到達する。その終端駅が氷見市の玄関、氷見駅である。
 寒ぶりが有名な氷見市は日本海に面した漁業の街。駅を降りて改札を抜けると上述のような、いかにも海辺の街の玄関駅だな、という雰囲気を醸し出していた。駅舎は上述の例にもれずに小さく小ぢんまりしたものだったが、そこは漁業の街らしく、そこかしこにそれをアピールする広告だったりイラストだったりが見られた。けど駅周辺はさほど賑わっている感じではなく、おそらくは街の中心はこのあたりではない──とその時は思ったのだが、後年調べてみると駅からさほど離れてないエリアに市の中心商店街があるらしい。訪問した時そんな場所を見た記憶がないのは、この時の僕はたぶん海を見に行くのを最優先してたと思うので、繁華街とは逆方向の海岸方面に向かったからだろうか…。
 ──北陸沿岸の日本海の風景がとても好きで、特に富山県内のそれが最高だと以前から思ってる僕が漁港で有名な氷見まで来る目的は当然海であるから、上述の通り僕は一直線に海をめざした。そして海岸線は歩いてすぐのところにあり、ほどなく僕は日本海の水平線を堪能することになる。この時に、漁港に到達したかどうかはちょっと記憶にないのだが、海辺をしばらく歩いてて、ほどなくして到達したその場所は、海水浴場であった。ちょうど夏休み中でもあり、ビーチは海水浴客で結構にぎわっていた。そしてその時なぜか…、実は僕は海パンを持ってたのであるw はい、カップルや親子連れで賑わう中、その場で海パンに穿き替えて、しばしの間ひとり海水浴を楽しませていただきましたw 思いのほか海はきれいで、夏の陽射しもさわやかでとても気持ちよかったですよ。
 ひとり海水浴を終えた僕は、そのまま駅までの道をまっすぐ戻ったのだった。結局、氷見の街の中心街らしいエリアも漁港や市場のエリアも確認できずじまいだったけど、日本海を堪能するという主目的は果たせたし、さらに思いがけず海水浴までできたので、残念だったという感覚はあまりない。ただ、せっかくの美味しい魚を現地で食べそびれたのはちょっと後悔かな。夏場だったから寒ぶりは旬ハズレでダメだけど、他にも新鮮な魚介類が豊富だから。でも地方のローカル線のご多分にもれず氷見線も本数が少ない上に終了も早いし、わずか7駅先の高岡まででも帰れなくなったら氷見市内で当日の宿を探すのは困難だと思ったので、あきらめて早めに高岡方面に戻ったのでした──
 









7月からこっち、三浦春馬に始まり芦名星、藤木孝、竹内結子、そして赤い公園ギタリストの津野米咲と、俳優やアーティストの訃報が立て続けに報じられており、いずれもが死の直前まで普通にメディアにも登場して仕事をしており、テレビの視聴者や雑誌の購読者などの目にもその活躍ぶりが伝えられていただけに、その死が余計に唐突で衝撃的な印象を受けてしまった人がたくさんいるのではないだろうか──
 報道では一部を除いて『自殺』という言葉は使わず『死亡』という言い方をしているが、クローゼットだったりドアノブだったりに首を吊った姿勢でぐったりした状態という発見状況から一目瞭然だし、実際に一部の報道でも「状況から自殺と見られる」と明言している。そして、著名人それも藤木を除いてみな40歳以下の若い世代ということで、そのメッセージ発信力から同年代から下の世代への連鎖が懸念されるからなのか、それら記事の末尾には必ず、自殺を考えて思い悩む人たちへの相談窓口らしい『いのちの電話』なる団体の電話番号とともに「ひとりで思い悩まないでご相談を」的な言葉が記されている。それは新聞やネットなどの文章記事だけでなく、テレビのニュース番組などでもラストにアナウンサーが字幕やフリップ等を画面に表示しつつ同じ文言で視聴者に呼びかけてたりする…。
 『日本いのちの電話連盟』という一般社団法人、発足したのは60年以上前のイギリスで、日本で活動を開始してからも50年になろうとしており、当初から自殺予防のための電話相談をメインに活動している団体である。歴史も伝統もあるし、活動内容もその理念も真っ当かつ真摯なものであると思われるし、この団体そのものやその活動についてどうこういうつもりは毛頭ない。『グミシン』カテゴリの記事テーマからもハズレてしまうし。『グミシン』的な着目ポイントは、やはり著名人の自殺に関連する記事のたびに、取ってつけたようにこの団体の連絡先が付記されてること、である──
 つい先日の記事に僕はこう書いた。「女性を殺害した元交際相手がその後自殺して被疑者死亡で書類送検するならついでに自殺=自分を殺害した罪も被害者=被疑者ってことで追加しろ」と。その後に「自殺の動機や背景事情が全然違うとはいっても取ってる行動はその被疑者と同じなのだ。情状を酌めというのだって一般的な殺人犯にも同様に言えることだし、遺族が悲しみのどん底に突き落とされるのも同じ」とも。あまり同情や擁護ばかりを前面に出して「おおよしよし、つらかったね~」ってのもどうなの? 自殺した上述の被疑者に対しても同じように思える? なんて思ってしまったわけだ。
 それに加えて、自殺を考えてる人へのこの種の不用意な呼びかけに、鬱病患者への「頑張って」「元気出して」的な呼びかけと同じ響きを感じてしまうのだ。言うまでもなく今まで十分頑張ってて、その上で苦しんでる状態にある人に対しての「頑張って」は追い打ちをかけてしまうことになってかえって逆効果である──自殺の場合もそうなのではないだろうか? 件の相談窓口が実際にどうか、ではない。そこに電話するという"一歩行動に踏み出す"というのは、死にたいくらいの絶望を抱えてる人にとってはこれかなり勇気が要るのである。その勇気を振り絞れ、だなんて当事者にとってこんな酷な呼びかけがあるだろうか。そんな呼びかけが、関連記事が出るたびに取ってつけたように毎度毎度見せられたら、一体どんな心境になるかなんで、渦中にない人には想像はできないのだろうか…?
 てかそもそも論として、ニュース報道という本来の趣旨からは窓口の紹介の付記自体ハズれてるよね。それでもどうしても付記する必要があるケースもあるかもだけど…、でも上述の弊害については頭の隅に留めておかないと、逆に取り返しがつかなくなりかねないということは押さえておきたいです──
 









 基本この『Jダベ』カテゴリで取り上げるのはJ-POPアーティストであり、楽曲及びその作者をクローズアップすることはあってもその作者自身もアーティストそれも少なからず表舞台で活躍してる人物であり、純粋な裏方としての職業作曲家を『Jダベ』記事でメインで取り上げたことは、たぶん今までなかった気がする。しかし、いかに表に出ない裏方とは言え、この人に全く触れないままってわけにはいくまい──ということに、先月訃報が伝えられて今さら気づくなんて…。
 はい、筒美京平さんのことです。上述の通りステージはもとよりレコードにも自身のアーティストとしての演技は一切なく、職業作曲家としてあくまでも裏方としての活動に専念していたが、生涯で世に出た曲は約3000曲、その多くが日本を代表するビッグヒット曲として世代を超えて長く歌い継がれており、曲目を『ブルーライト・ヨコハマ』(いしだあゆみ)『また逢う日まで』(尾崎紀世彦)『木綿のハンカチーフ』(太田裕美)『魅せられて』(ジュディ・オング)『スニーカーぶる~す』(近藤真彦)『仮面舞踏会』(少年隊)とどんどんあげていくとキリがない。まさに日本のポップス界を代表する名作曲家である──
 しかし、そんな筒美京平の楽曲作品の独特な曲調は? と問われると──明確には思いつかない。新曲で初めて聴いて「あ、筒美作品だな」とすぐわかった曲はもとより、知らされて「ああ、なるほど、言われてみればそうだな」ってなった曲も、おそらく今まで無かったんじゃないかな? その影響を受けてたという洋楽ポップスのテイストを感じるという共通項こそあれ、楽曲世界的には一定せず多岐にわたっており、歌唱するアーティストの特色や渡された歌詞の世界に合わせて変幻自在に楽曲世界が描かれていると思える。筒美サウンドに独特の"らしさ"をあまり感じないのはこの、アーティストや歌詞世界を最大限生かすことを第一に考えて楽曲そのものが目立ち過ぎないようにという配慮の賜物なのかも知れない。
 そこが自分の世界に過剰にこだわらない"楽曲職人"としての神技といえるだろう。クセがないがゆえに聴き手によって好き嫌いが分かれにくく、結果としてより多くの聴き手に愛される曲になる、というわけだ。その職人芸に徹しながら半世紀にわたりヒットシーンの最前線にその楽曲が常にあったというのは、これはもうやはり見事な偉業と呼ばねばなるまい。
 職業作曲家というジャンル自体が衰退してアーティスト志向のミュージシャンが中心の昨今の音楽シーン、作り手も他との差別化を意識して独自性を追求する傾向が見られ、結果聴く人による好き嫌いが分かれて、より広く愛される楽曲というのはだんだん生まれにくくなってきてる気がする。そんな中で筒美京平さんの訃報に接して、貴重かつ偉大なクリエイターをまたひとり失ってしまったな…、と思わずにいられない──合掌。

 









 ここんところ、20代から30代くらいの若い女性が殺害されたというニュースをよく耳にするような気がする。いや、決して「ここんところ」ではなく昔からそういうニュースはいっぱいあったはずなのだが、何か最近多いなと感じてしまうのは、ほとんどの場合犯人と疑われてる人物が別れた元彼氏だったり内縁の夫だったりというパターンだからだろうか。ストーカー規制法が施行され、その認定基準もどんどん厳格になりつつある状況で、それまでは検挙の対象ではなかったつきまとい行為やDVなどで男が検挙される事例が激増してて、その一環としてそれら殺人事件も増えてるように錯覚してしまうのだが…、しかし犯人がかつて関係のあった男というパターンもそれ以前からいくらでもあったし、昨今特に増えてるかというと、果たして…? である。
ではなぜ「ここんとこ多いな」と感じるのか? 女性が殺された、容疑者は元彼あるいは元内縁の夫、そこまでは今までもあったが、しかしこのパターンは昔はそんなにあっただろうか──行方を追っていた容疑者の男が首を吊った(包丁で自らを刺した、ビニール袋を頭からかぶった、ビルの非常階段から転落した、等々…)状態で遺体で発見された──最近よく耳にする女性殺害のニュースでは、それまではあまりなかったこういう結末がセットになってることが多い気がするのだ
 このような結末になった場合、警察は「被疑者死亡で書類送検」という対応になる。殺人事件でありその容疑者が判明している以上、そこでハイ終了というわけにはいかない、しかし容疑者本人は死んでるわけだから身柄はもちろん送致できないので書類のみを検察に送ることになる。しかし検察だって死人から聴取はできないし、公判も開きようがない。起訴も不起訴もないわけだから結局書類が送られてそこから先はもう…、である。被害者遺族にしてみればやり切れまいが、これ以上どうしようもないから仕方ない。
 死者に鞭打つ言い方になってしまうのが正直不本意ではあるが…、この『被疑者死亡』というパターンの場合、そのほとんどは自殺である。自らの罪を明らかにすることも、謝罪や反省を表明することもなく、あの世への永久逃亡…、である。結果、刑罰を受けることも永久にない──という書き方をすれば死んだその犯人がより卑劣に思えてくるのもわかるだろう。
 自殺=自分を殺害、である。どうせ被疑者死亡で書類送検するなら送検ついでにもう1件、被害者=被疑者での殺人容疑も追加しちゃえ──なんて書いたら今度はありとあらゆる自殺者が自分を殺した殺人犯扱いしろって言うのか、などという声が飛んできそうだけど、でも理由はどうあれ行為自体は上述の犯人と同じなわけで、動機により情状よ考慮して酌量すべきというのも一般的な殺人事件でも同じ。その死によって遺族を悲しみのどん底に突き落としてるというのも。
 自殺は殺人、酷なようでもそう考えなければ、上述の犯人のことも非難するのが憚られてしまうよ。

 









 先の秋場所は、やはりコロナ対策で観客の入場もかなり制限された状態での開催となったが、皆さんご存知の通り関脇正代が熊本県出身力士として初めての幕内最高優勝を手土産に大関に昇進し、今場所が新大関の場所となる。その正代と最後まで優勝を争ったのが新入幕の翔猿。年齢は28歳と決して若くはなく、入幕までは少々足踏みしたが、ここで一気に開花した感じ。今場所は幕内上位との対戦も多く組まれるだろうが、果たしてどのくらい活躍してくれるだろうか…。他にも若隆景や阿武咲などの新進気鋭の若手力士も終盤まで優勝争いにからむ大活躍で、将来が楽しみである──
 もちろん両大関も最後まで土俵を盛り上げた。貴景勝は最後まで優勝争いにからみ、直前の取組で正代が翔猿に敗れていれば3人での優勝決定戦だったし、初日からいきなりの3連敗で心配された朝乃山もその後10連勝で優勝争いの一角に食い込んでいた。若手や平幕が大活躍した秋場所で、大関としての面目は十分保てたと言えるだろう──あと、残念ながら途中休場してしまったが照ノ富士も途中まで優勝争いについていくなど復活ぶりをアピールし、霧馬山も途中の休場がなければ優勝争いをさらに面白くしてくれたはずである。
 そんな秋場所は、非常に充実した場所になったと言いたいところであるが、残念ながら手放しで褒めるわけにはいかない…。はい、両横綱、白鵬と鶴竜がいずれも初日から全休だったからである。2人とも7月場所に続いての休場である。いずれもケガの状態がかなりひどく、とても相撲を取れる状態ではなかったという。他にも上述の照ノ富士、霧馬山だけでなく石浦や琴奨菊、遠藤、豊山と休場力士が何人も出たり、玉ノ井部屋ではコロナのクラスタが発生してしまい師匠も含めて部屋の全員が休場というありさま──そんな状況の秋場所を目一杯盛り上げた正代や翔猿たちの大活躍というプラス面により目を向けるべきなのかも知れないが、やはりこれだけ休場者が多く、両横綱もその中にいるという状況は、やはり総合的にはマイナス評価せざるを得ないだろう。
 秋場所後に開かれた横審でもそのことが重く見られて、両横綱に注意喚起することになり、今場所いかんでは厳しい判断もあり得るという声も出ている──横審と言えば、横綱に引退を勧告することもあり、その発言力は決して軽くはない。てか引退勧告うんぬんが取り沙汰されているという時点で既に、両横綱は自分の進退について真剣な決断を迫られていると言わざるを得ないのではなかろうか? もちろん彼らがあっさり辞めてしまったら番付から横綱が不在となってしまい、3人の大関やその下の若手たちが横綱に昇進するには最低でもまだ数場所はかかるだろうから、それまで彼らに横綱として君臨してて欲しいのはヤマヤマなのだが、身体がその任に耐えられる状態でなくなってるのだったらどうしようもないのだから。けじめとしての引き際も、横綱には肝心である。そのけじめのつけ方で、後世の評価も大きく違ってくるのだから。
 後進の若手が大活躍した秋場所だったが、それが両横綱が不在であったがゆえのものだとしたら、鬼のいぬ間の何とやらってやつであって、決して手放しで喜べるものではないし、せっかくの若手たちの活躍の価値も割り引かれてしまい、彼らの印象にも影響してしまうのだ。やはり、強さを誇り、若手の壁として君臨する横綱の前に善戦して好成績グループの一角に割り込んでこそ、若手の大活躍も輝くわけで、強い横綱の君臨が、結局は若手を引き上げることにもなるわけである。その若手力士の範たる自覚は、今の両横綱には果たしてあるか?
 ともあれ、今場所は間もなく初日を迎える。いつもの九州ではなく今場所も両国国技館で、観客の入場も引き続き制限された中での開催となり、出稽古を制限されてる各力士の調整も決して万全とはいかない中ではあるが、そんな中でも秋場所では若手がかなり頑張っていた。両横綱がそれに奮起しない手はない。ホントに進退をかけて横綱としての責務を全力で全うしてほしい。
 









 もうふた昔くらい前のことであるが、こちらに書いた文芸サークルで僕はスタッフとして編集に協力していた。そちらの記事にも書いた通りメンバーは僕と代表のYさんの他にはもうひとり、Kさんという人。僕以外のYさんとKさんはいずれも女性である──文芸サークルではあったが会誌での発表作品は文芸だけではなくイラストもあり、イラストでの参加者の多くは即売会とかにも頻繁に出店する同人漫画出身であり、Kさんも漫画風イラストの人で、その当時、会誌の企画でリリック(歌唱詞)の講座漫画を連載で担当していた。そのストーリー構成には僕とY代表も加わっていたのだが…。
 ある回の冒頭、ヒロインの女の子の恋人の率いるロックバンドの楽屋のシーンを書くにあたり、ヒロインが「お疲れさま~」と持ってくるコーヒーを彼女が入れたものにするか缶コーヒーにするか、どっちがいいかと意見を求められた。僕の意見は缶コーヒーで、理由はライブハウスの楽屋だから器具とかもそろってないだろうから缶飲料が一般的だろう、というものだったが、その意見の後にこう付け加えた──「それに、女の子に男全員のコーヒー入れさせたりしたら、OL層やフェミニストサイドから文句が来そうだ」
 結果、「細かいなぁ。セクハラに取られるかもってことですね。了解です」と作画のKさんの同意で僕の意見が通ったわけだが、その時Kさんは「男の人ってやっぱそういうの気にしちゃうんだね。わたしそこまで気がつかなかった」と言い、Y代表は「女の子が率先してメンバーのコーヒー入れるってのも、和気あいあいって感じでいいと思うんだけどな…」といささか異論がありそうな様子であった──過去記事を読んでいただければおわかりの通り、僕は全くフェミニストではない、むしろその逆に近い男であり、上述の通りY代表もKさんも女性。Y代表は「わたしは女の子の味方だ」と公言し、サークルや作品作りのルールよりも女の子の気持ちを優先する人だったし、Kさんも男の人に若干苦手意識があって僕とかとも緊張して接するような人だった。セクハラやジェンダーに鈍感とは到底思えない。にもかかわらず僕の方が性差別を気にして、女性たちの方が気にしてなかったという、何か本来とは真逆なやりとりになってしまったという…。
 これはほんの一例であるが、スタッフをしてる間、これと似たような経験は他にもいくつもあった。女性多めのサークルに長く参加し、女の中で男がひとり状態でスタッフ活動を数年続けた経験から考えても、フェミニスト方面の方々からよく聞かれるような話が、女性の声の多数派だとは僕には正直思えない。いや、もちろんそういう主張をする女性も何人かいたけど、決して多数派ではなかったぞ。フェミニストたちのいう"女性"って、一体どこにそんなにたくさんいたのだろうか。YさんKさんを始め、サークルで何人も出逢った女の子たちは、女性のうちに入らないのか?
 フェミニズムって、何だろう?