ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -6ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。








 関西を中心に活動するアイドルグループ・たこやきレインボーのメンバーのひとりが問題発言したとかで、当面の間活動を自粛し『たこ虹』は他のメンバーでの活動になる旨が先月報じられたのだが…、問題とされた件の発言は彼女たちの生配信番組でのことだったそうだが、その中の漢字テストのコーナーで件のメンバーが『魑魅魍魎』の読みがわからず、何かで聞き覚えがあった『えたひにん』だと思ってそう口に出してしまった、というものらしい──まあ、知ってる人が聞けば「マズイ!」と場の空気が一発で凍ってしまう用語なのは間違いないし、関係当事者にとってはかなりセンシティブな言葉でもある。特に彼女たちの活動拠点である関西でその件にナーバスな傾向が強いので、活動自粛という事務所の素早い対応も無理からぬことではある。
 とはいえ、件の生配信を視聴していた若い子たちのほとんどは、視聴時はもちろん自粛が報じられた時にも「え? どの発言が?」って感じで何が問題だったのか気づかなかったらしい。もちろん件のメンバーの子も普通に感じの読みを間違えた以上でも以下でもない。おそらく『えたひにん』という言葉の意味など知りもしなかったであろうことは想像に難くない。『寝た子を起こす』どころか事情を何も知らない彼ら世代は『寝た子』ですらないわけで、この言葉を口に出すだけで活動自粛のペナルティを科すほどの大問題だと印象づけてしまうのは、それはもはや『入れ知恵』ではなかろうか? 「差別をなくす」とか「多様性社会を目指す」という観点からは明らかに逆行してると、思いません?
 …というニュースに触れた直後のタイミングだったので、例の森会長の女性蔑視発言騒動の第一報に触れた時も「どうせまた…」と思ってしまった。過去にも問題発言が何度となく物議を醸してる人だが、その中には明らかな曲解や誇大解釈と思えるものも少なくなかったので、斜に構えてニュースを聞いてみたが──「女性が多い理事会は時間がかかる」という、報道で抜き出されたワンフレーズだけをJOCの女性理事を増やす方針についての私見という注釈と共に見れば、確かにマズイ発言のように聞こえる。多様性を謳っているオリパラの運営メンバーの選出に関してトップの口から出た発言となればまおさらである。案の定各マスコミや団体のみならず、世界各国から集中砲火を浴びることになったわけだが…。
 しかし、詳しい顛末を確かめてみると例によって案の定なありさま。森会長の発言を要約すれば「『女性が入ると会議が長くなる』と文句を言ってくる人もいるが、組織委の女性は国際舞台でも活躍されて端的に良い意見をされるから我々にも大いに役立つ。欠員には女性を充てます」というもので、女性蔑視どころか逆に組織委員会の女性を立てており、その上で女性の補充に前向きであることを明言している。ひとり歩きしている件のフレーズについてはそもそも森会長の言葉ではなく他者のものであり、なおかつそれを否定する文脈で引用されているものであった──騒いでる世界各国の人たちは、ちゃんと一次資料を調べたのか? てか反証となるその一次資料を作った新聞社が自ら失言騒動をこさえて焚きつけてるって一体何なんだ?
 ──こういう悪意に満ちた連中にどんな目に遭わされるかわかったもんじゃないとなれば、上述『たこ虹』事務所も、むしろメンバーを守るためにも自粛させるという手段を選びたくもなってしまう。ある意味賢明な判断といえる──それにひきかえ、森会長の逆ギレ会見といい、自民や組織委の幹部の擁護会見といい、こっちはかえって油を注ぎまくって事態をさらに悪化させてるという…。メディアの変更や捏造の悪辣さは十分唾棄すべきだとは思うが、自分たちもそういうメディアへの対処をもうちょっと学習した方がいいのではなかろうか? かなり場馴れしてるんだからw
 









 新型コロナウィルスの感染者は、一時期のピークはやや過ぎたっぽいものの依然として毎日かなりの数が全国で新たに確認されている。その結果、今月7日までの予定だった首都圏を中心とする緊急事態宣言がさらに1ヶ月延長され、時短営業や休業を余儀なくされる各業界は青息吐息の状態をさらに続けなければならず、しかもしれがいつ終わるのかがまるで見えない──とはいえここで音を上げてムリに営業した結果、感染がさらに爆発的に増えたのでは元も子もまくなってしまうわけで…。
 で、感染者数の増えは落ち着きつつあるが、重症者や死者の数は逆に増えてきてるという状況もある。イギリスや南アフリカ由来の変異株は従来型より死亡率が高いという学者の説もあるようだし、また変異株の感染者にもそれら外国への渡航歴はもちろん渡航歴のある人との濃厚接触もない人も少なからずいて市中感染が疑われる状況であり、自粛したりマスクや手洗い消毒にも限界があるし、もう何をどこまで予防したらどの程度防げるのか、まるでキリがない状況である──
 で、そんな状況の中で上述の通り死者が増加傾向にあるのだが、その大半がもともと基礎疾患持ちだったり高齢者だったりしてたにせよ、ウィルスがそういう人に的をしぼって取りつくわけではないし、感染源は誰か別の人であり、その人が同居家族の場合もあれば電車でたまたま乗り合わせた通りすがりの他人かも知れない。同居家族が感染源だとしても、その家族自身がどこからもらってきたかもわからない、いやそもそも自分がウィルス持ってたという認識自体全くないことがほとんどだろう。つまりは感染の責任の所在なんてもはや全く分からないし、責任うんぬんを言う次元でもなくなっているわけだが…、しかし現実にその人は何者かからもらったウィルスによって死に至ってしまってるわけだ──
 で、PCR検査が限られた人しか受けられない、かつ感染しても無症状のままの人が一定数いるという現状では、上述のように自身が感染していながらその認識もなく普通に日常生活を送ってる人が何人も街中を移動しているわけで、もちろん自分が誰かを感染に至らしめてるなんて露ほども思ってはいまい。まして、それが原因で死に至ってるかもしれないなんて、考えたくはないだろう…、でも、希望してもなかなか検査にも至らず自身の感染の有無さえ明確にできない状況では、そうなってる可能性を完全には除外できないのだ。
 断定されることもなければ、断定されても刑事責任を問われることもまずないだろうけど、やはり誰かのコロナ死の原因に自分がなってる=自分が誰かを殺した可能性がゼロでないとなると気持ち的には暗澹たるものがあるし、罪の意識も感じてしまう。ってとこに思いが至れば「何としても感染を防がなきゃ」って思いはますます強まるでしょ。もはや感染予防はある意味『防犯』ととらえていいかも知れない。限界があるとはいっても最大限の『防犯』努力はしなければ、である──
 








 前回の東京オリンピックに合わせて昭和39年に東京~新大阪間で開通した日本初の新幹線。途中静岡や名古屋、京都など沿線の主要都市に停車駅が設けられたが、その中のひとつとして駅が設置されたのが米原。県都の大津は京都に近すぎたから仕方ないとして、近江八幡や彦根ではなくなぜ米原だったのか。というのは当時の米原は市ではなく坂田郡米原町。東海道新幹線の駅で唯一郡部に作られたのである。東海道本線と北陸本線の分岐駅で鉄道の要衝の地であり、福井や金沢方面からの乗り換えの便を優先したためであろうが、それにしても他に新幹線駅が設けられた自治体に比べると、やはり見劣り感は否めない──
 そんな"郡部の新幹線駅"状態は、21世紀になり平成の大合併で米原市が誕生するまで実に40年以上も続くことになる。その後山陽新幹線が小郡(当時の小郡町、現在山口市に編入)に停車し、東北や上越などあちこちに新・新幹線ができて以降も新白河や越後湯沢などに停車するようになり"唯一の"ではなくなったが、米原駅は長らく郡部の駅であった。人口も米原町時代は1万人前後、他3町と合併して市になった時にも4万人ちょっとであり、自治体規模だけで見ると「ここに新幹線駅? 県都を含め他に主要都市が沿線にいくつもあるのに?」な気はしてしまう。鉄道路線的には乗換接続の便もよく、利用客にとっても都合はいいだろうけど、それら乗客の中に。果たして米原駅の改札を抜けて駅の外に出る人が果たしてどのくらいいるだろうか…? 駅構内の移動だけで完結してしまって自治体内で買い物や食事をしてくれなければ自治体にお金が落ちないわけで、米原の街的には旨味はどの程度? などという他所者の勝手な詮索を禁じ得なかったりする──
 その米原駅には、僕は米原町時代と米原市になってから、それぞれ1回ずつ降り立ったことがある。上述の通り移動の大動脈である主要幹線の分岐駅かつ新幹線停車駅であると同時に操車場なども併設されてるため、構内及び鉄道関連施設のスペースはかなり広い。駅の中だけ見てると結構な大都市を彷彿とさせられてしまう。が…、その外の様子というのが、地平駅であるのにほとんど窺えない。米原の街並みってどこに開けてるの? なんて思いながら僕は改札を抜けて外に出て見た…。何もなかった──いや、民家や商店はそれなりにあったし、決して人里離れた場所ではないけれど、市街地的なノリも駅前的なノリも特になかった。
 てか、他の新幹線駅のような高架ではなく地平駅だからというのもあるだろうけど、駅舎が小さい。新幹線駅のたたずまいという以前に市の代表駅という感じもない。駅ビルはもちろんだがコンビニも併設されておらず、西口と東口、線路の両側に入口が開けてるが、いずれもほとんど駅機能のみで改札も少なく、さほど多くの入出場客を捌く仕様にはなっていない模様。実際改札を出入りする人もかなりまばらである。東口にはここを起点とする近江鉄道の駅も隣接しており、そっちへの乗換移動もあるだろうに…。
 ──つまりは、これと言って見どころを見つけられなかったわけ。市になる前の頃はもちろん、2度目の訪問は今から4年前、市になって10年は経ってたのだが。ただ、ロータリーは広々としており、バス路線も敷かれてるようなので、あるいは駅から離れたどこかに市の中心街があるのか? 元々宿場町であり鉄道敷設前から街道の分岐点として交通の要衝だった場所だから、やはり駅周辺が市街地ではないかと思うのだが。鉄道関連の用地があれだけ広大なだけに、余計に街並みがそれと対照的な印象を受けてしまう。
 米原から東海道本線上り方向、関ヶ原までの4駅間は本数が極端に少なく、在来線で行くのは結構困難であるし、駅周辺に長い待ち時間を潰せそうなスポットは見当たらない。東京方面への帰りは、あきらめて新幹線を使うことにした。それでもこだましか停まらない駅なので、こちらも少なからずホームで待たされた──
 

 ブログ冒頭にも書いてますが、ここの趣旨は、さまざまなテーマに関して僕なりの考察を加えつつ、読んでくださるみなさんと一緒に考えていこう、というものです。
 なのでコメント欄では記事内容についての忌憚ない感想を、読んでくださった皆さんからいただき、それについてこちらからお答えして、さらにそこから意見交換を発展させて話題を広げていきながら互いの考えを深めていくことを重視ております。

 なので皆さん、どうぞ遠慮なくコメント欄で忌憚ないご意見、聞かせてくださいね。
 記事内容への意見を、ね。
 記事内容に全く触れずに初めまして挨拶と自ブログ宣伝のみのテンプレート的なコメントはどうかご遠慮いただきたく、よろしくお願いします。







 先日『メディラビ』カテゴリ記事で『クオリティ・オブ・ライフ』について書いた。病状が悪化して死期が迫ったら、残った日々を病院のベッドに寝て過ごすか、外に出て充実した日々を送るか、果たしてどっちが幸せだろうか、という"永遠の命題"を問いかける内容である。その記事でも述べたが、どちらが幸せかはその人にもよるし、絶対的にベストな選択などはない。その人の死生観によって「自分ならこうする」という違いでしかないわけだ──それに関連する以下の内容ももちろん絶対的な正解ではなく、各人の死生観で正誤は分かれるであろうことを承知で読んでいただければ幸いである。
 多くの都道府県、あるいは一部市町村でも独自で緊急事態宣言が発令され、さまざまな業種とりわけエンタメ等の娯楽を提供する業種が休業や時短を余儀なくされて大打撃を受けている。経営する側の経済的打撃ももちろんだが、客としてそれらを楽しむ消費者側も自粛を強いられて、会食もできないライヴにも行けない、家にこもっておとなしくじーっとする生活を余儀なくされてしまっている。コロナの感染が爆発的に拡大して多くの人の健康や生命に関わる状況とあっては致し方ないし、今のこの状況で感染の危険を冒すのは無謀なことには違いない──とはいえ、いつまで続くとも知れない禁欲生活を強いられ続けたのでは、コロナに感染して発症する前に気持ちの方がどうにかなってしまいそうである。それで感染から完全に守られるというならともかく、決してそうとは言えないわけだから。
 で『クオリティ・オブ・ライフ』である。コロナに"軟禁"されてるような状態で、果たして"生きてる"と言えるのだろうか? 若い世代などは感染しても無症状だったり、軽症のまま数日で回復したり等、症状が重篤になる可能性は低いわけで、それよりも自粛で禁欲を強いられることで積もり積もった不満が爆発した時の方が怖かったりはしないだろうか? 問題は基礎疾患を抱えてたり高齢だったりで重症化しやすく致死率も高い高齢者だが、余命を考えれば残された日々を自粛の巣籠りに費やしてしまうのか、コロナ死覚悟で生きてるうちに行っておきたい場所、逢っておきたい人等の希望が叶う方が幸せ、と感じる場合も、あるのでは?
 会社も定年退職して子供も孫も独立した高齢者には、数少ない地域のカルチャーイベントだったり寄り合いだったりが楽しみな人も多く、それによって気持ちに張りが出て老化防止になってたりもする──それらが軒並み中止になってしまって引きこもる毎日を送るようになって、一気に老けこんだり認知症が進んだりする高齢者が激増しそうな気がするのは、僕だけ?
 『ウィズコロナ』などという言葉もあるが、本当に『ウィズコロナ』を考えるなら発症やそれによる死を恐れるばかりでなく『クオリティ・オブ・ライフ』も考え合わせた上で、よりよい方向性を見つけ出したいものである…。
   









 例えば、ガンが末期になって余命を宣告されたとする。3ヵ月なら3ヵ月、半年なら半年、残された人生、生きてる間にやっておきたいことがいろいろある。想い出のあの街のあの景色をもう一度見たいとか、お世話になったあの先生や初恋のあの人に逢いに行きたいとか。家族の方もできれば連れて行ってあげたい、逢わせてあげたい、そう思うことだろう──しかし、余命を知らされておらず本人も治るつもりで入院したまま治療に専念していたり、それでいよいよもう助からないことを本人が悟った時に身体が医療機器のチューブでつながれてたりして自由がきかなくなってたら、それらをやりたいと思ってもできない。治療や療養にしばりつけておくことで半年の余命が1年まで伸びたとして…、果たしてよかったといえるのか。逆に3ヵ月の余命が2ヶ月に縮まったとしても、充実した密度の濃い日々を送れた方が幸せなのではないだろうか──
 表題の『クオリティ・オブ・ライフ』。直訳すれば『人生の質』今である。病室のベッドで腕に点滴の針を刺して寝たままの1年と、逢いたい人や見たい風景を堪能して過ごす2ヶ月、患者本人はどちらを選びたいか、家族はどちらを選ばせてあげたいか…、かなり前のこの記事でも僕自身の家族の場合を例に問いかけたことだが、これはどんなに時代が移っても永遠の命題だと思う。どっちが幸せかはその人自身にとっても人それぞれだろうし、またそうなる前に自分だったらこんなふうにしたいなどとあれこれ考えていても、いざそういう立場になってしまうと動転して全然違う気持ちになることもあるだろうし。
主治医はもちろん、医者の立場としてどんな方法であっても余命を1日でも伸ばすことを考えるから、家族にも本人にも治療を優先することを提案するであろう。患者の立場としても、それで治る見込みがあるのであれば我慢して医師に身を任せたいところである。見込みがあるのであるのなら。そうでないなら余命の1日1日を充実して完全燃焼させたいと考えるのは人情であろう──しかし、ではその短い時間に何をするか、生命の期限を切られて動揺してる頭で具体的にあれやこれを落ち着いて選ぶことなんてできるのだろうか? そう考えると『クオリティ・オブ・ライフ』にこだわってそれにとらわれるのも善し悪しかも知れない。つくづく、どちらが幸せかなんて、その時になってみなければわからないものである。
 いざという局面で『クオリティ・オブ・ライフ』の適切な選択は、よほど肝の据わった人でなければかなり難しいだろう。やはり健康なうちに思い残すことがないように普段の生活をより充実させねばならないし、それが可能な健康状態を保てるように普段から身体のケアには気をつけなければならない──でも特に身体にこれといって心配なところがなければ、なかなかそこまでは思いが至らないのである…。お医者さんもそこまでは面倒見てくれないし。
 









 前々回記事で横綱不在が若手の大活躍の印象を落としてしまった、11月場所では進退をかけて横綱としての責務を全力で全うしてほしい、と書いてUPされた当日にまたしても両横綱の連続休場が発表され、さらに場所の方もフタを開けると大関の朝乃山に加えて新大関の正代までもが早々と休場してしまうに至って本場所について書く気が失せてしまい、全く別の話題で書いたのが前回記事。そして先日終わった初場所はというと──両横綱はまたしても全休。ただ、鶴竜はともかく白鵬に関してはコロナで陽性になったためであり、今回は大目に見ざるを得ないだろう。今回の初場所の興ざめ要因は、それ以上に宮城野、九重、荒汐、友綱と4部屋でコロナのクラスタが発生し、関取10数人を含む部屋全員が休場、取り組みが寂しくなりすぎたという点が大きいだろう。せっかくの大栄翔の平幕優勝、埼玉県出身として初の賜杯という快挙も、心情的には大いに祝福したいのだが、大量休場でライバルが少ないがゆえであることを考えると…、なんて思ってしまう。陰性でありながら休場を余儀なくされた部屋の力士たちはもどかしい思いもあるだろうが、これはもう致し方ないことであり、これに腐ることなく来場所で巻き返してほしいものである──
 今回、上述の4部屋で陽性者がたくさん出たのは、場所前に協会員全員に対するPCR検査が行われたためだが──全員陰性だった部屋であっても、あくまで検査に現れなかっただけで、感染してないことが絶対的に証明されたわけではないし、取り組みでは4つに組んだりまわしを取ってがぶり寄りしたり等、密着する場面は多々あるから、検査で陰性だったはずの力士から感染してしまう可能性はゼロではないし、幕下以下の力士は基本電車で場所入りするからその電車内で感染する恐れは大いにある。で、力士はあの巨体を維持するために食事の量もハンパなく、結果として昔から糖尿が職業病と言われていたし、その他の生活習慣病の危険もきわめて高く、事実それら基礎疾患を抱えてる力士が何人もいる。感染時のリスクは一般の人の比ではないのだ。自分は大丈夫かと気が気でなくなる力士もたくさんいるだろう。それは十分わかる。
 ──場所前に、全員陰性で出場問題無しと判断された部屋のある序二段力士が「コロナが怖いので」と初場所の休場を希望し、師匠を通じて協会に申し入れたが却下されたことを理由に場所直前に引退を決断、角界を去った。これについては広報担当理事の芝田山親方(元横綱大乃国)が「力士は土俵で相撲を取ってナンボ」と発言して物議を醸した。もちろんその大半は協会に対して批判的だったわけだが──しかし、これを認めてしまうと俺も俺もと次から次へ手を上げる力士が続出してしまい、初場所の盛り下がりはあんなものではすまなかったことだろうし、それが来場所もその次も続くかもとなると、もう大相撲自体が成り立たなくなってしまう。運営する側からすれば「はいわかりました」とはなかなかならないのではないかな? いや、自らこの世界に飛び込んだ当の力士たちの多くにとっても、そうなってしまうのは本意ではないはずだぞ。
 もちろん力士たちの生命の方が大事なのは間違いないし、両者との折り合いをどうつけるかを相撲協会としても模索しているがゆえの全員PCR検査であり、クラスタ部屋全員休場であり、観客人数制限であり、出稽古禁止であるのだろう。協会の親方の多くは部屋の師匠であり、力士たちはみなそれら親方の部屋の弟子なのである。部屋でクラスタが発生すれば同居してる師匠も濃厚接触者になるわけだから(上述、九重部屋の場合だと師匠(元大関千代大海)も陽性となり入院している)他人事なんて思ってるはずはない。何が最善なのか常に考えているはずだ。しかし、それは親方だけが考えてても弟子の力士たちの協力と自覚がなければ何にもならないことである──その意味では、上述の序二段力士の引退劇って、果たしてどうなんだろうな…。
 









 一昨年の春に東京の池袋で起きた、当時87歳の元官僚のお偉いさんが起こした、車がいきなり暴走して次々と他の車両や歩行者に襲いかかって、幼い女児とその若い母親が死亡した事故については、まだ裁判が続いているようだが…、公判での被告である"上級国民"側の言い分を聞いてると「何だかなぁ」と思わざるを得ない。被告本人及びその弁護人さんは自分たちの起こした結果がどれほど重大なものかについての認識はあるのだろうか──
 被告は「ブレーキが効かなくなって車が突然暴走した」と主張し、弁護人は「10年乗った車でシステムの経年劣化が考えられる」などと車に責任をなすりつけて無罪を主張してるわけである──10年も行動を共にしながら凶器に使われたあげくに全部の罪を押しつけられるだなんて、車があまりにも可哀想だよなぁ…。もちろん、後続の複数のドライバーの「ブレーキランプが点灯してなかった」という証言を始め、他の歩行者の目撃証言などを考え合わせても被告の言うような状況は考えにくいし、車を所有するなら当然定期点検は義務として行ってるはずだから、陸運局の検査上での継続車検もパスしており、またそういうトラブルが起きそうな前兆が以前からあったという様子もなさそうだし、ちょっとその言い分は無理がありすぎ、ましてこういう結果を起こしながら無罪の主張はあまりにもふるい過ぎではなかろうか…?
 事故を起こした車はトヨタのプリウス。年配者に好まれてるようだが、シフトノブの形状がちょっと変わってて危なっかしく感じる人も以前から少なからずいたようで、この事故はそのイメージを決定的にダメ押ししたのではなかろうか? 僕は何度もプリウスに乗ったことあって、そんなことは決してないってわかってるし、他にもいろんな種類の車を新車中古車外車国産車問わずいろいろ乗って、多少なりとも異常があれば完全に壊れる前に必ず前兆はあるものだということも実感してるけど──車の経年劣化によるシステム異常が仮にあったとして、10年乗ってるマイカーの前兆に全く気づかなかったのなら、そりゃ完全にドライバーの怠慢だよ。
 まあ、要するに多少なりとも車に慣れてる人にとっては笑止千万な言い分なわけだが…、弁護士や裁判官に知識が乏しかったりすると、そんな証言も真面目に検討されてしまうのだろうか…? 原告側がディーラーの整備士でも証人に呼んで喚問でもすればすぐ崩れるだろうとは思いつつも、法廷で大真面目にそんなところが争点になる状況自体がもう…、である。
 被告はすでに89歳、裁判にかけられる時間は決して長くはない。被害者原告のためはもちろんのこと、プリウス始めあらゆるメーカーのあらゆる車種の開発及び整備に関わってる方々の名誉のためにも、早急に賢明な結論を出してもらいたいものである。
 







 この記事の公開は1月23日であるが、書き上げたのは実は1ヶ月余りも前、昨年12月15日だったりする。はい。GoToトラベルが菅総理の鶴の一声で突如、年末年始にかけて全国一斉に一時停止が決まった翌日である──なのでもちろんこれを書いてる時点で停止されてみんな地味な年末年始を自宅で過ごしたのか、観光地から商業施設からみんな休業したり開店休業だったりしたのか、その結果公開日現在コロナの状況がどう変わったのか変わらなかったのか…、そのあたりのことは全く知らないわけで。
 現時点での僕の予測では…、自粛する人は自粛するだろうし、外出する人も万全の予防対策を取る人もいればそうでない人もいる、飲食店や観光施設も自粛するとこしないとこそれぞれ、でもやはり客は激減して商売あがったりという、現状でもすでに起きてる状況にはさほど大差はないだろう、というものである。まあ例年の年末年始の大移動がかなり減る分、マトモにいってればもっと爆発的な感染者数になって医療崩壊は必至だっただろうな、って状況は最悪の想定よりは緩和されてるかも、だけど、それでも動く人はいるだろうから、感染者数はそれなりの数になるだろうし、医療機関がお正月どころではない状況は避けられまい。今回の一時停止をやったところで、感染者や重症者が減った割合と、その反面で経済的に破綻をきたしてしまう企業や家庭の割合を比較して、どちらがよかったのだろうかという状況なのではないだろうか。少なくともこの一時停止が目に見えて効果的な結果をもたらした、てことになってる状況は、現時点の僕には想像ができないのであるが──
 一時停止を菅総理が宣言した当時、もちろん観光業や旅行業に関わる人たちは嘆いていたわけだが、では前々から停止を訴えてた人たちがこの時の決定を喜んでたかというと、逆に「当たり前だろ」「遅すぎるよ」「今頃かよ」みたいな感じでやっぱり非難の声を上げており、結局反政権の人たちは反政権のままで、要するに全方向から非難一辺倒で四面楚歌だったわけだが、菅政権側もそれは予想した上で熟慮した結果の、少なからず苦渋の決断であったのだろう。僕は経済を重視した方がいいという考えだったので、一時停止についてはどちらかというと観光関係者寄りの意見であり、菅総理の決定には賛成はしかねるが、相応の考えによる決断なのは理解したいとは思うし、政権非難のための政権非難は厳に慎みたいと思う。それは今回の一時停止が結果的にどういう状況になってるとしても変わらないだろう。そんなことしてても観光に携わる人も感染患者も医療関係者も誰も得などしないのだから──
 しかし、今現在この一時停止の効果がテキメンに表れてたとして、それで観光関係方面が「それでよかったんだ」と納得できるとはあまり思えないし、菅政権の評価が上がるとも思えない。反政権厨たちはそれでも「もっと早く決断してれば死なずにすんだ人もいただろうに」などと非難し続けるだろう。また、結局感染状況が変わらなかったとしたら稼ぎ時を奪われた各業界は絶対黙ってないだろうし、反政権厨方面はやはり「決断が遅すぎたから間に合わなかったんだ」とか何とか非難の材料をひねり出すことだろう──感染状況の推移はともかくも、産業や経済の疲弊や菅政権への風当たりはどっちに転んでも変わってないだろうな。…というのが現時点での僕の予想ですが、さてどっちに転んでるのでしょうか?
 しかし、感染状況がどっちになってたとしても、それを左右した最大の要因が菅政権でもGoToトラべルでもなく、国民個々人の対策(手洗い、マスク等)の度合いであることには間違いないわけで、GoTo停止1ヶ月余り後のその状況に対して、みんなは自身の及ぼしてる影響をどの程度自覚しているのか、ということは、GoToそのものの是非以上に問われるべきことだと、思いますよ──
 









 こちらで書いたLisaが『紅蓮華』に続いて放った大ヒット曲『炎』も前作と同じく『鬼滅の刃』の主題歌である。前作はTVアニメ版だが、今回は劇場映画版の。いずれの曲も歌詞を手掛けたのはLisa自身だが、彼女は歌詞を書くにあたって『鬼滅の刃』をしっかり読み込み、主人公の竃戸炭治郎の気持ちになって「ここで彼ならこんなふうに感じただろう」などと考えながらフレーズを選んだのだという。その結果アニメの作品世界と歌詞がシンクロしての大ヒットにつながったのだろう──
 一方、こちらの記事に書いたUruも、記事にも書いた通りドラマ主題歌『プロローグ』を書くにあたり『中学聖日記』の漫画原作を熟読して作品世界をしっかりと自分の中で消化したのだという。それは翌年の、やはり漫画を原作とするドラマ『テセウスの船』の主題歌『あなたがいるだけで』を書いた時も同じで、事前に作品をしっかりと読んだのだそうだ。結果、両曲とも大ヒットにつながり、一般的には無名だったUruの名を広く知らしめることになった──LisaとUru、楽曲世界も歌唱法も全く異なってはいるが、歌詞を書くにあたっての、物語世界を大事にする姿勢という点では大いに共通するものがあるかも知れない。
 その"物語つむぎ"のふたりのコラボ曲が、昨年の終わりあたりからテレビでも頻繁に聞かれるようになった。ソニーのワイヤレスヘッドホンのCM曲として使用されたからである──『再会』というタイトルのこの曲、作詞・作曲・プロデュースのAyaseはYOASOBIのコンポーザー。YOASOBIと言えば代表曲の『夜に駆ける』を始め、ネットサイトに投稿された小説作品を原作として楽曲を作るというコンセプトで結成されたユニットであり、こちらもまさに"物語つむぎ"である。その3人の"物語つむぎ"がひとつになったこの『再会』という曲は、他の3人の曲と比較するとシンプルではあるが、それゆえに歌詞に隠れた部分でのストーリー性なんかも感じられて、自由な想像力をかきたててくれる感じの曲になっている。冬の再会がテーマであり、聴く人にもそれぞれの冬の再会にまつわる体験があるのだろうから、それぞれの体験に基づいた十人十色の物語がいくつもつむがれていくのだろう──
 もちろんそう感じさせてくれるのはLisaとUruのしっかりした歌唱力があってこそなのは間違いない(なのでヘタはカラオケでこれ歌わないでねw)。LisaにせよUruにせよ、漫画系の主題歌の人的なイメージがつきかけてる感があるし、YOASOBIにも若干ラノベ的なニオイがするだけに、Ayaseも含めた3人にとってそのイメージを払拭する新たな物語の始まりになるのだと思う。そして、その新たな物語が、聴き手それぞれの過去の物語とシンクロしたり、あるいは新たな物語をつむいでいくことにもなるのだとしたら、それは何とダイナミックなことだろうか──