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ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。

 こういうご時世ですから、遊びにはいけないけど──とりあえず、連休取らせていただきます。

 ではGW明けにまたお逢いしましょう。








『君』言うまでもなく2人称。目の前の話し相手に対する呼称、英語で言えばyouである。一方『僕』は1人称で英語のI。大概は男性が自分のことを指す呼称である。どちらもごく普通に使われてる言葉であるが…、それをこの『日本語』カテゴリでわざわざ取り上げるのは何か意味があるのだろうか?
 ──日本の国家である『君が代』が一部の人たちには忌み嫌われ、式典での斉唱拒否を主張する人たちまでいるのは「何千年後も、小石が堆積して岩となってその上に苔がむすまで代々続く」という歌詞の主語である『君』が問題なのである。言うまでもなく『君が代』の『君』は上述の単なる2人称としての『君』ではなく『君主』という意味であり、戦前の大日本帝国における『君主』とは言うまでもなく天皇陛下であるから、その歴史的経緯から天皇制に忌避感を抱く人たちにとって、この歌を国歌とすることが受け容れ難いのであろう──その、本来『君主』『大君』などを意味する『君』を2人称の代名詞として相手を『君』と呼ぶのは、ある意味その相手に対する畏敬と言えるかもだが、果たして上述の方々はこれを受け容れられるだろうか…?
 一方『僕』の方だが…、こちらは『下僕』とか『公僕』などの言葉があるように本来『僕』とは目下それも少なからず卑賤な者に対して用いる言葉であり、これを1人称代名詞として自分を指して用いるというのは、これもやはり日本独特の謙譲表現ということなのだろうか。『僕』(下賤な目下)が相手のことを『君』(尊い指導者様)と呼ぶのは、人様を立てるという美徳と言えるのかもだが、本来の言葉の意味からするとどうにも卑屈なイメージを否めないのだが…。
 しかし実際に上司や先輩、社長や校長に対して『君』と呼んだら間違いなく失敬なやつと思われるだろうし、実際『君』は対等かそれ以下の相手に対して用いられることがほとんどである。また『僕』ももっぱらカジュアルな場で用いられ、フォーマルな席で目上に対して用いると逆に失礼になりかねない。本来の語義やイメージと、実際の用途が逆になってしまってる気がするのだが──今まで自分も含めてみな何も疑問を持たずに普通に使ってきた人称代名詞だけど、そんなこと気にしたことなんて、あります?
 その辺の違和感があるからかどうかわからないが、 僕はこれまで自身の創作作品の中では『君』という漢字を当てたことは全くない、もっぱら『キミ』である。甘口の恋愛モノ中心だからニュアンス的に固くないポップな路線を目指して…、とかの意図的な意味づけではなく、全くの感覚的にではあるのだけど…、 創作作品だけでなくお手紙とかでも、相手が男か女の子かに関わらず常に『キミ』って書いてたところを見ると、やっぱりどこかでそういう印象を持ってるからなのだろうか? だけど『僕』の方はやっぱり『僕』なんだよな。もしかしてどっかに自分のことを下賤なやつだという卑屈な意識でもあるのかな? どうなんだろう──

 








 先月、福岡県で5歳になる男の子が自宅で餓死するという、何とも痛ましい事件が起きてしまった。当然母親が保護責任者遺棄致死で逮捕されたわけだが…、同じくこの時逮捕された容疑者がもうひとりいたのだが、そのもうひとりは父親でもなければ内縁の夫でもない、というか家族でも同居人でも何でもない、ただのママ友だという…。なんでそこで赤の他人のママ友が? なんて思ってしまったわけだが、そのママ友と母親との関係性がまたちょっと理解に苦しむものであり、正直「どういうことよ?」感を未だにぬぐえないわけで──
 報道されてる記事によると、そのママ友は母親の家庭に何かと干渉してきてたわのだが、その内容が旦那のウソの浮気話をでっち上げて離婚を唆したりその離婚訴訟が優位になるように口利きしてあげると架空のボスの存在を匂わせたりしては母親から金を巻き上げるとか、訴訟が有利になるために質素な状態であることが必要と言って貧しい生活を強要するとか、それで男の子の激やせが目立つからと幼稚園をやめさせるとか、底をついてきた金は「パチンコに使った」とウソの証言をさせるとか、あげくに男の子が意識を失っていても呼吸をしていたから「心配はない」と放置させる(男の子が死亡したのはその数時間後)とか、あまりにも常軌を逸した悪質さもさることながら、それに黙って従ってきたこの母親にも驚きを禁じ得ない──と思う人が大半なのではないだろうか。確かに普通の感覚では到底信じられない関係性である。
 しかし、こういう信じられない主従関係によって引き起こされる犯罪って、今回だけでなく今までにも少なからず起きてたように思う。あの監禁致死事件やその脅迫事件とか、過去にもしばしば新聞やワイドショーを賑わしてこなかっただろうか…。恋は盲目という言葉があるが、決して恋だけでなく人間同士の信頼というものも少なからず盲目と言えるかも知れない。たまたま犯罪にまで発展したものが報道などで表に出てきているが、そこまでに至ってない段階のこうしたおかしな主従関係での結びつきが長らく続いてるケースはもっとあると思われるし、その盲信の相手がとんでもないやつだとこうした悲劇に結びついてしまうが、そんなとんでもないやつなんてそうそう滅多にいるものではないし、大多数の場合、盲信相手は悪人でも何でもない普通の人だったりする──そもそも『信じる』という行為自体が「不確実なものを個人の感覚である結論と結び付ける」ことであるから、悪い相手を盲信して騙されてしまう確率って、実は一般に思われてるよりも少ないのではなかろうか。僕らも通常の友人関係でよくやってるような“信頼”の相手がたまたまとんでもないやつだった、という稀有な事例の中のワンオブゼムでしかないのだろうかと…。
 だからといって盲信してしまったこの母親には、我が子を死なせてしまったという結果云々を抜きにしても、決して同情はできないが。友情と我が子とどっちが大事ってことであれば、そんなの天秤にかけるまでもないことだし、このママ友を切り捨てることはできただろう。それでどのような報復を受けるかわからないが、我が子の生命には代えられまい。ましてこのママ友の悪評は他のママさんたちの間では周知だったようだし。旦那を失い、生活に困窮して、あり得ないウソつかせて隠蔽を唆されて、あげくに今回の最悪の結果を迎えるよりもずっと手前で、気づけなかったのだろうか、なんて他人事的には思えてしまうのだが…、しかしこれが盲信の怖さである。もう自分でもわけがわからなくなってしまうのだろう。自分はそうならないか? ホントにか?
 ──それにしても、実際の保護責任者はママ友でなく母親であり、裁判になればママ友よりも母親の方の刑が重くなるんだろうな…。洗脳が解けて反省し後悔してるという母親と、容疑を否認してるというママ友。つくづく、つるむ相手はちゃんと見極めなければ、取り返しがつかなくなってしまう。
 








 数年前、仕事のお客さんである某カーディーラーの年配の営業さんとのお話の中で出てきたこと──その方はその自動車販売会社へは元々は整備士として入社し、長くサービス担当でたくさんの車の点検整備や修理を担ってきた叩き上げの人で、その後営業担当になってからもかなり長いのだが、それでも叩き上げの整備士としての誇りは失われておらず、最近入社してくる若い社員たちが背広組の営業担当よりもツナギ組のサービス担当を一段低く見ているフシがあるのが我慢ならないらしく、しばしばそういう話題になったのだが、その話の流れの中でよく言ってたのがこの言葉である──「人間のお医者さんは尊敬されるのに、なんで車のお医者さんは低く見られるんだよ」
 車屋さんのサービスマンの仕事といえばもっぱらスパナなどの工具を片手に自動車の下にもぐって油だらけになりながらエンジンやマフラーをいじってるという印象であるが…、車の修理というば、人間で言えば病気やけがの手術であろう。パーツ交換がともなうなら臓器移植だし、オイル交換は輸血だろうか。で、点検整備は健康診断、人間ドックであろう。整備士さんは立派に車のお医者さんである。ツナギが白衣で工具がメス、車の健康のために日々尽くしているのである──なぜ人間のお医者さんとこうも世間的イメージに落差があるのか。人間と機械は違うだろってか──?
 車も扱い方いかんでは運転者や同乗者のみならず周囲の歩行者何人もの生命に関わってしまう。故障や暴走事故を起こさないように常日頃から点検整備を怠りなくやっておかなければならないし、異常が見つかれば速やかに直しておかなければならない。それがきちんとできていれば、こちらの記事にあるような大事故も防げるし、車の劣化のせいにしようとする被告側に対してもきちんと直近の診断状況を突きつけて釈明することもできるわけだ──人の生命を預かっているという点では“車のお医者さん”であっても同じことなのである。カーディーラーの整備士さん、もっともっと評価されていいのではないかな?
 そのことを、当のカーディーラーの若手社員自身が理解してなくて、自社のサービス部門を低く見てるフシがあることが、整備士叩き上げのその営業さんにとっては許せないことだったのだろう。ツナギ組と背広組を両方経験したこの人の苦言を、若手の社員さんたちはしっかり耳を傾けた方がいいんじゃないかと、他社さんそれもお客さん企業に対して失礼ながら思ってしまった次第である。
 もちろん実際に車に乗る人も、そうでなくても普通に外出して街を歩く人でも“車のお医者さん”たちのおかげで自分たちの生命安全が守られてるんだ、ということを少し意識してみたなら、大手カーディーラーはもちろん、街の小さな修理工場で働く修理工さんたちへの見方もかわると思うよ──
 







 前回「親方の多くは部屋の師匠で、力士たちはそれら親方の弟子。他人事なんて思ってるはずはない。何が最善なのか常に考えているはず」と書いたのだが…、残念ながらそうでない師匠もいたようで──先の春場所前に時津風部屋の前師匠(元幕内時津海)が、非常事態宣言を受けて協会から外出自粛の通達が出てる初場所中に麻雀店や風俗店に出入りしていたことの責任を問われて退職勧告処分となり相撲協会を去った。この前師匠に関してはその数か月前にも同様の問題で降格処分を受けており、再犯であることが重く見られたカタチである。非常に残念ではあるが、弟子を預かる師匠としての自覚も危機意識も皆無としか思えない所業が度重なってるとあっては、厳罰もやむを得まい。後任の新師匠(元幕内土佐豊)にはぜひとも気を引き締めて師匠としての役目に真剣に臨んでもらいたいものである。
 で、その時津風部屋の後任師匠なのだが、大方の予想では枝川(元幕内蒼樹山)か井筒(元関脇豊ノ島)だろうと思われてたので今回の土佐豊の襲名はかなり意外であったが…、元大関豊山以来の東農大出身の学閥がモノを言ったのだろうか? いずれにせよ新時津風就任により間垣の名跡が空くことになり、豊ノ島が間垣に名跡変更するのだろうと思われていた。現状の井筒は前井筒部屋師匠(元関脇逆鉾)の遺族から借りてるそうだし、遺族関係者は鶴竜に継いでもらって井筒部屋の再興を託したい様子。親方襲名に必要な帰化申請が難航していたのだがそれも最近やっと認められて、鶴竜はすぐにでも井筒を取得できるようになった。豊ノ島としてはとっとと名跡変更して井筒を返却したいだろうから。
 ところがその間垣の名跡を白鵬が取得に動いてるという報道が一部であった──横綱戦績の素晴らしさとは裏腹に言動が何かと物議を醸しており協会からは良く思われてなさそうな白鵬。通常なら文句なしで認められるだろう一代年寄を名乗れる可能性がどうも低そう。となると他に名跡を取得しなければ、であるから。名跡を取得するには相応の資金力が必要だが、白鵬と豊ノ島では圧倒的に白鵬だろう。となると豊ノ島としては他に名跡を取得するか借りるかしなければなのだが…、現状他に空いてる株は振分のみで、これを借りられなければ相撲協会退職となってしまう。井筒の名跡を返すに返せない状況である…。先の春場所、鶴竜は性懲りもなくまたしても休場、結局場所中に引退し、横綱特例で現役名で親方になったが、もしかして豊ノ島のそういう事情を慮って、ってことはないだろうか…? 前回すでに最後通告を突きつけられてることを考えれば鶴竜の引退は当然の結果だろう。横綱の権威にも関わることである。それは春場所3日目で早々と休場した白鵬も同様で、引退=間垣襲名も待ったナジであろう。となればますます豊ノ島に取得の勝ち目はない。白鵬はもちろんだが、豊ノ島にとってもいよいよ背水の陣ではなかろうか。
 ──というような綱渡り劇が繰り広げられるくらい、年寄名跡の取得は現在でも簡単ではない。公益法人移行に当たって名跡の取得に関しても透明化するという指針が挙げられてたように思うのだが、高額売買や貸し借りの風習はなかなかなくならない気がする。年寄名跡の件に限らず、随所で昔と変わってないなと思われる悪しき風習が見受けられる気がする。先の時津海のような表に出てきた不祥事者の尻尾切りばかりしてないで、根本的な体質改善に本腰を入れなければ、結局そういう体質がさまざまな不祥事の温床になってると考えられるわけだから、尻尾切りとのいたちごっこになるだけなのではないだろうか?
 今年は少なくとも再雇用期間が満了する4人の親方の名跡が空く予定。それぞれの後任が誰であれ、名跡の譲渡は円満に、と願わずにいられない。
 









 この『いつ街』カテゴリで三重県内の街を取り上げるたびに出てくる「三重県は中部か近畿か」問題であるが、こと鉄道に関しては県域の鉄道路線の大半でJRと競合しているのが近鉄でなおかつ、四日市にせよ津にせよ松阪にせよ、多くの街で近鉄の方が優勢であることから、鉄道的には三重県は近畿かな? なんて思ったりしたのだが、しかしJR的には、そのほとんどがJR西日本ではなくJR東海のエリアであり、JR西日本管轄は関西本線の8駅のみ、しかも管轄の境界がそのまま電化非電化の境界でもあり、三重県内のJR西日本管轄区間は一部の鄙びた過疎エリアのみ。いかに近鉄が私鉄では最大手といえども、全国組織のJRグループで東海管轄ということは、やはり鉄道的にも三重県は中部なのだろうか──
 そんな東海と西日本の境界に位置するのが亀山駅。関西本線の途中駅であると同時に紀勢本線の起点でもあるのだが、僕が降りたったのは広島への帰省途中の寄り道(にしては結構遠回りだw)であり、名古屋から関西本線を四日市経由で下り、降り立ったのだった。上述の通り電化非電化の境界である亀山駅では、各駅停車だと乗り換えを余儀なくされるし、列車本数にも差があるので乗り換え時間もそれなりに長い。途中下車して駅前周辺を散策するにはちょうどいい、ってんで、もちろん改札を抜けて外に出た──
 2つの本線の分岐駅かつJR2社の管轄境界駅である亀山駅は当然ながらJR的にも主要駅の扱いで、その分駅構内も広い。駅舎もそれにふさわしい大きさで、かつ南欧を思わせるオシャレな作りで、市の玄関口としての面目は十分と言えるだろう──そんな亀山駅の改札を抜けて駅舎の外に出て駅前風景を見た時の印象であるが…、実はハッキリと覚えてないのである。いくら、広島に実家があって帰省してた頃の四半世紀も前のことだとは言え、ある程度駅前をひと回りくらいはしただろうし、そんなに忘れてしまうなんてことはないだろうに、マジで記憶があまりないのである。ただ「え? これが市の玄関口のたたずまい?」って思ったことと、市街地らしい喧騒をあまり感じずに静かだった記憶はあるので、中心繁華街という感じでは全然なかったのだろう。かといってさびれてるって感じた記憶もないので、山間の田舎街らしいのどかな風景だったのだろうか? と思ってネットのサイト等で見直してみると、中心街からはやや離れているものの、市街地と言ってもいい風景が駅前及びその近辺には開けているようだ。僕の漠然とした記憶とは全く違っている。あれぇ? こんな感じだったっけか…?
 駅前の光景自体をハッキリ覚えていないくらいだから、駅周辺でどのように時間を潰したのかももちろん覚えていないが、少なくとも駅舎内でも駅周辺でも祝辞したりお茶飲んだりはしてないと思う。駅舎はそこそこの大きさとはいっても飲食店とかがある感じではなかったから。ここもある意味“鉄道の街”としての側面が強いのだろうか。
 ──つまりは、ほとんどただ足跡履歴を残すために降りただけ、だったわけですねw もうちょっと本腰入れて散策する気なら、城下町であり宿場町であり、ロウソクやシャープの工場で有名な亀山の街の見どころはいくらでもあっただろうとは思うのだが…。長距離移動中の途中下車の寄り道程度では、乗継までの時間とかその後の行程の都合で、実はこういうことはよくあったりする。それではひとつの記事として内容がふくらまないから通常はこうして取り上げないんだけど、こういう“単に降りただけの街”も結構あるんですよの一例として、今回敢えて取り上げてみました──いつかリベンジしたいと思いつつ、それが叶わないまま四半世紀過ぎて現在に至ってる次第であります…。
 









 ちょうど去年の今頃『わたしは花粉症です』なる文言が書かれたバッジが登場して、それを買い求める人が多数いた。電車内とか街中とかでくしゃみをするたび周囲から咎めるような視線を浴びせられるから、である。これ自体は昔からあったことだし、立場が逆なら自分もそうなるだろうし、まあ致し方ないことだろう。しかし昨年以降のその種の視線は単に咎めるレベルではなく、まるで忌まわしいものでも見るようなものになってきている──言うまでもなくコロナを警戒するがゆえである。なので、それを避けたくて「花粉症のせいであってコロナではないですよ」アピールでバッジをつけようとしてるのだろうが…。
 こちらこちらでも書いた通り、花粉症でない人は往々にして花粉症の人の症状を花粉症と認識しない、花粉症の可能性に考えが至らない傾向がある。こんだけ何十年も花粉症が騒がれ、花粉症持ちの人の比率も上がってるにも関わらず、である。春先のこの時期のくしゃみに花粉症の可能性を思いつかない、そんな人が緊急事態宣言の最中、電車内でマスク越しに頻繁にくしゃみをしてる人を見れば…、警戒してしまうのはある意味致し方ないかも、である。何しろ感染して発症したら重症化や、ヘタすると生命にも関わるし、次々に登場してる変異株の死亡率が高いなんて説もあるし、後遺症も問題になっている。そんなウィルスをくしゃみで撒き散らしてるかもしれないと思ったら、忌み嫌うのもむべなるかな、である。
花粉症持ちの立場からは「自分の周りに花粉症持ちは誰もいないのかよ? だとしても花粉症の存在すら聞いたこともないのかよ?」なんて呆れかえりたくなったりもしてしまうのだが──しかしちょっと考えたら、花粉症持ちがコロナに感染してないとは全然限らないわけで、両者は当たり前に併発し得る。コロナと花粉症が二者択一で花粉症の期間はコロナの心配しなくていいのなら「花粉症バンザイ!」だけどそんなわけにはもちろんいかない。『わたしは花粉症です』バッジのアピールはコロナ疑惑の払拭にはあまり意味はないだろう。ホントに何でもない、症状もない人でもマスクが必須、大声の会話も憚られる状況で、花粉症がくしゃみの免罪符になるとは思えない。視線を向ける側に言わせれば「それがどうした?」かも、である。花粉症持ちとしては苦々しいけど、治療や服薬など対策はしっかりして、人前でのくしゃみを極力防ぐように努めなければ、だろう、万一ホントにコロナに感染してる可能性も考えて。
 それにしても、マスクをしてても鼻水は出てくるし、鼻をかむ時はマスクをずらさねばならない。垂れる鼻水は場所を選んでくれないから、電車の中で鼻をかまざるを得ないこともある。くしゃみしながらマスクをずらせば周囲の視線はさらに痛いものとなる──花粉症持ちにとってはいつにもまして辛いこのコロナ禍。早く収束してほしいものだが…、そのために必要なのがバッジでのアピールなんかではないのは言うまでもない。
 








 『モンスターペアレント』なんて言葉が登場してずいぶんと経つ。学校で担任の先生が生徒にちょっと注意したり叱ったりするとその生徒が親に泣きついて、泣きつかれた親が学校に乗りこんで担任の先生を吊るしあげて謝罪させようとする、ともすると教育委員会に怒鳴りこんだりして担任教師のクビまで飛ばそうとしたりする…、そんな莫迦親が増えてきているようにはもう随分前から感じてはいたが──最近ではそういう親の方が主流になってて、なおかつ世間の風潮もそれを後押ししてるような感じもあって、結果教師は生徒に対して何も言えず腫れものに触る扱いでオロオロするしかできず、学級崩壊に拍車がかかるばかりである…。教師や親の体罰が普通に日常的な中でそれを当たり前にしながら育ってきた僕ら世代的には「何だかなぁ…」なのだが…。
 戦前から戦後すぐあたりまでの子沢山時代と違い少子化に拍車がかかる一方の現代、子供ひとりあたりにかけられる時間も手間も昔とは比較にならないくらい多く、結果として手とり足とり面倒見てもらったり必要以上によしよしされてる子供が僕らの頃よりも増えてる気がする。僕らの頃なら「過保護だ」と言われたようなレベルの扱われ方をしてる子供が──しかしどこの親も同レベルの保護をしている=世間一般と比べて『過』ではない、ってことになると、かつての『過保護』は今は『過保護』ではないってことになるのか? 果たしてそうなのか?
 まず『過保護』の『過』とは『過剰』『過大』の『過』だろうか? 保護が過剰になることそれ自体は、都市化や個人主義の台頭で昔ほど地域コミュニティの見守りが機能しなくなり、特に弱い子供を狙った凶悪犯罪が増えてる昨今の世相を考えれば致し方ないかも知れない。大人だってマンションはオートロックで玄関ドアは鍵穴2か所、車などのセキュリティシステムも昔より大幅に進化してて、物心両面で手厚く保護されている。ぶっちゃけ保護に『し過ぎ』はない──では『過保護』の『過』とは何か…? 『過失』『過誤』の『過』ではなかろうか?
 例えば子供の好き嫌いに合わせて煮干しやヒジキを食べさせずにハンバーグや唐揚げばかり与えていればカルシウム不足で骨が弱く、脂肪の取り過ぎで肥満な子になってしまい、結果として健康を害して早死にさせてしまう。本来の『保護』の意図とは逆の結果をもたらしてしまうわけだ。お手伝いさせずに何でもしてあげたり子供の悪さを見て見ぬふりしてあげたりも同様で、子供が社会性や世間性を学ぶ機会を奪われて、結局世の中に適合しなくなってしまってかえって生きづらくなってしまう…。そういうのは『保護』でも何でもない、むしろ子供をダメにしてしまう──そういう『過ち』な保護こそが『過保護』なのである。
 最近の子供は過保護だと年配の人はよく言う。そして若い世代よりも年配の方に近い世代の僕的にもその言葉自体には全く同感である。しかし言葉自体は同じでも、その意味は全く違う気がする。そこの違いは明確にしておかないと『過保護』になるのを避けようとするあまり『不足保護』でネグレクトを正当化してしまう親が出てきそうな気がして…。繰り返すが保護に『し過ぎ』はない、あるのは『過ち』である。社会にとってももちろんだが、それ以上に親にとっても子供は宝であろう。間違いのない適切な方法で最大限の保護をしてもらいたい──

 









 昨年今年あたりからのJ-POPシーンで話題になってる曲のラインナップを見てると、漫画だったりアニメだったり、YouTube発だったりTicTok発だったりと、ネットやサブカルチャーメディアから火がついたものが目立つ気がする。それらメディア発のヒット曲は今までにも決して少なくはなかったのだけれど、コロナ自粛によるステイホームが増えて、家でネットにアクセスする機会が増えたりアーティスト側もネット配信に力を入れたことによって、コロナ禍以降に特に増えてきてる気がするのだ──
 瑛人はTicTokのあの激しいダンスを多くのお笑い芸人がマネして広まったし、前回書いたLiSAとUruもアニメ漫画系で火がついた。同じ記事で触れたYOASOBIもネット小説をモチーフにしてヒット曲を連発してる。コロナ禍でのその傾向の先陣を切ったのはやはり源ちゃんだろうか…。こうしたネットを主戦場として発表してきたアーティストの中には素顔を晒さずにMVも全編アニメな人たちもいて、楽曲オンリーで勝負なそれらの中からも、ずっと真夜中でいいのにとかヨルシカとか、ニューカマーが続々メジャーシーンに認知されてきている──その中でも最近とみに耳にすることが多く、かつ強烈に印象に残ってる曲…。
 訳知り顔で説教垂れる大人に対して ♪はぁ? うっせぇうっせぇうっせぇわ~ と絶叫を繰り返しながらストレートな反発心をむき出しにしてるこの曲、Adoが歌う、タイトルもズバリ『うっせぇわ!』が、ここ1ヶ月余り耳に残って離れない。単に怒鳴ってるだけ、とも思えるくらい全編にわたって絶叫する歌詞の中身も、上述の通りストレートすぎる分、僕ら大人から見ると単純で深みもなく思えて、たぶん歌詞だけを文章で読まされたら何も刺さってないところなんだろうけれど…、でも激しいビートと単純なコードの循環に乗せてあの絶叫声で繰り返し聞かされると、妙なインパクトを感じてしまう。コード自体が単純なだけになおさら記憶に残りやすく、それがあの絶叫声とセットだからなおさらである──
 上述の通り彼女も顔出しせず、MVも全編ホラータッチのアニメで、それが絶叫調の歌唱を効果的に演出してるのだが、歌ってるAdo本人は18歳の現役JKと聞いてさらにビックリしてしまった。いわゆる一般的にイメージするJKとはかけ離れた印象だったから…。しかし、一方でそうであればあの一見浅く思える反発調の歌詞内容も、ある意味10代らしいな、とも思えてくる──であればそんな浅さも「俺たちもあの頃はこんなだったのかもな、当時はガチマジだったけど。ま、頑張れ」なんて大らかに見守る気持ちにもなってきてしまうw
 しかし、そんな分析うんぬんではなく、理屈抜きでクセになる曲だ。マジでここ1ヶ月ほど脳内ヘビロテが止まらないもん──ともすれば病んでるように聞こえちゃう歌だけど、彼女たちJK世代はあなたが思うより健康です、問題はナシ、てことで安心しましょうw