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ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 こちらの記事で、実はコロナに感染していながら地震では全くその認識もなく普通に日常生活を送ってる人が何人も街中を移動しており、それらの人が知らずに誰かを感染に至らしめ、ことによると死に至らしめてるかも知れない。そして現在の検査状況では自身の感染の有無を把握できてない人の方が多い。自身が感染源として最悪誰かを殺す可能性は誰にでもある、その意味で感染予防はある意味『防犯』と書いた。もっとも自身が感染を自覚して意図的に誰かにうつそうとでもしない限り犯罪には問えないだろうが…、しかしコロナをうつされることは災害とは十分言えるだろうから、少なくとも感染予防は間違いなく『防災』ではある──なのでこの『ヒヤリハ』カテゴリで取り上げてるわけだ。
 『防犯』『防災』であるところの感染予防であるが…、そのためにやれることといえばせいぜいマスクの着用だったりアルコールでの手指消毒だったり外出自粛だったりなわけで、これってせいぜい施錠だったり留守番だったり程度のもので、強化といってもシリンダー錠をディンプルキーにしたり1ドアー2ロックにしたりが関の山で、ピッキングに対しては完璧とは言えないし防御としてはどうにも頼りない。やはり監視カメラだったりセコムやALSOKへ即時通報だったりくらいのセキュリティが欲しいところである。
 コロナで言えば、そのセコムとかに当たるのは、やはりワクチンだろう──感染予防という意味でも発症から身を守るという意味でも、ウィルスをじっと避けるだけでなく撃退までしてくれるワクチンは、防犯と防災、どちらの意味でも是非とも接種しておきたいものであると思うのだが…、副反応などを恐れて接種に対して否定的な人が少なからずいるのは、一体どういうことなのだろうか?
 報じられてる副反応はせいぜい筋肉痛や倦怠感で、中にはアナフィラキシーを起こす人もいるらしいけどその症状は軽くてすぐに回復するレベルで、死にまで至ることはまれだという──コロナの症状と天秤にかけてどちらが怖いかと言えば当然コロナに決まってると思うのだが…? ましてコロナの予防は自身が感染発症しないためだけではなく、周囲の人(家族や恋人など、おそらくは自分にとって大切な人)を感染させないためでもあるわけで、コロナとは比べ物にならないような症状(&それを誰かにうつす可能性)とでは、天秤にかけること自体ナンセンスだと思うぞ。
 そんなわけで、すでに高齢者や医療従事者優先で接種が始まってるコロナワクチン。僕の番まで回ってくるのはまだもうしばらく先になるだろうけど、当然一日も早く接種したいと思いますし、周囲の人はもちろん直接の面識がない通りすがりの人たちにもぜひそうしてほしいと強く希望する次第であります──被害者にならないだけでなく、加害者にもならないために。
 









 前回「途中下車の寄り道程度では乗継時間やの後の行程の都合で、“単に降りただけ”で終わることは結構ある。それじゃ内容がふくらまないから普通は記事として取り上げないが」と書いた──逆に言えばムリクリにふくらませて前回程度の内容にまではできるってことである。なので前回の三重県のように下車履歴のある駅が少ない県だと、数のバランスを保つためにムリクリ取り上げたりもするのだが、訪問回数が多い都道府県だとその分下車履歴ある駅も多いので、そのような"降りただけ"な街も必然的にそれなりに多くなる。
 今回取り上げる長野県だとそういう"降りただけ"な駅は、JRだと信濃大町に飯田に塩尻に飯山、しなの鉄道の屋代、長野電鉄の須坂あたりだろうか…。そういう県だと降りてしっかりと街散策を堪能した駅が他にたくさんあるので、上述の駅が日の目を見る可能性はかなり低い。やはり今回取り上げる上諏訪駅のように駅のホーム内でひとっ風呂浴びてったとか諏訪湖に足を伸ばして遊覧船に乗ったとか、記事にするならそれくらいのエピソードが欲しいところである──
 その上諏訪駅はJR中央本線にある諏訪市の代表駅で、上述の諏訪湖観光の拠点でもある。と同時に温泉街でもあり、そのアピールのためか、駅の中に露天風呂があるという珍しい駅である──上りホーム1番線にあるその露天風呂は、現在では足湯になっているが、僕が初めて訪問した30年くらい前には肩まで湯に浸かることができた。もちろんせっかくの話のタネなので僕もこの時ひとっ風呂浴びさせていただいたわけです。まあ、駅ホームの中だから湯船は3人も入れば満員になってしまうくらいの手狭さだし、風呂から見える景色は反対側ホームや跨線橋、時々発着する列車と、眺めとしては決して絶景とは言えないし、湯それ自体が本物の温泉だったとしても、あまり温泉を堪能って感じではなかった。まああくまでも話のタネに珍しい名物に飛びついてみた、って感じだろうか。
 上諏訪駅の駅舎は特に市の玄関駅ということを考えれば大きくも小さくもない普通の建物である。目の前の道路がさほど広くないからかショッピング街の併設とかはなく、駅機能がメインな感じ。道路こそ広くはないが向かい側には百貨店をはじめとする商業施設が並んでて人通りもあるし、道路にもそれなりに車通りがあって、駅前は賑わって見えるが、それだけに手狭な印象が否めない──そこを、諏訪湖やら温泉街やらへの観光客が行き交うわけである。
 その日も、駅前はもとより、そこから歩いて向かった諏訪湖も、土曜の午後だけあってかなり賑わっていたが、遊覧船はさほどの混みではなく、デッキからの湖面の風景を存分に堪能できた──ホントは僕の行った初夏よりも湖面に氷の張る真冬の方が絶景なんだろうけど…、穏やかな季節もそれはそれでいいもんです。まあ『いつ街』的にはちょっと観光地観光地しすぎてたのが難点かな?
 ──諏訪湖を満喫した後、また同じ道を歩いて上諏訪駅に戻る。どこをどう歩いたのかは覚えてないが、道中あまり商業施設が建ち並んでいた記憶はないので、そのルート上は決してメインの市街地経由ではないのだろう。てか、諏訪市の中心市街地って駅前なのだろうか? それとも別にどこかにあるのだろうか? 手狭ながらも百貨店もあって賑わってた上諏訪駅前は、一応中心市街地としての体裁は保ってるとは思うけど。
 その夜の宿は上諏訪駅近辺ではなく岡谷市だったので、そこから2駅先の岡谷駅まで行き、駅前から宿まで歩いたのだが──ここも"降りただけ"で記憶がほとんどないw
 









 表題の諺、意味はまあ読んだ通りである。物種=物事を始めたり進めたりする発想だったり活力だったりモチベーションだったり、それが何なのかは人によってもその物事によってもそれぞれであろうが、いずれにしても、まずそれを行う人たちに生命があることが大前提である。死んでしまったらその後何もできないし考えられない。思想も行動も理想も創造も、生きてるからこそ産みだせるものである。つまりは何をおいても生命がいちばん大切なのだ、と──昔からある諺だが、日常会話でも書物でも久しく目にも耳にもする機会がなかった。いや、今でもこの諺自体にお目にかかったりお耳にかかったりとかは全然ないのだが…、しかしここ最近、この諺の意味を切実に噛みしめる機会は随分と増えてきてる気がする。
 コロナ禍の中、3度目の緊急事態宣言が終了予定を変更して延長され、さまざまな職業とりわけ飲食関係が決定的ダメージを受ける状態を長期にわたって余儀なくされてる状況にありながら、肝心の感染拡大の方は収まる気配が感じられず、出口がまるで見えない。そんな中で自粛自粛また自粛を呼びかけられる国民の側にも自粛疲れに加えて何やっても無駄という諦めも加わってるのか、マスク拒否したり路上飲みしたり複数で集まって談笑したりしてる人たちがそこかしこに、特に若い層に目立つ。
 「閉じこもってばかりで楽しみを何もかも抑制しながら、生きてると言えるのか? 僕たちは人間なんだ、死んでるみたいに生きたくないよ」という厨二的な言い分を主張する人たちがいて、中にはその言い分を人権を持ち出して正当化しようとするリベラルな方々までいたりする。その理屈で外出自粛要請に反発する意見がちらほら聞かれたりもする──でも、そもそもその人権自体が、生きてて初めて行使できるものでしょうよ。それこそ『命あっての人権』なわけで。自分も含めたみんなの生命のために今だけ一時的に人権を我慢するか、それともコロナ死して周囲を巻き添えに生命と人権の両方を失うか、どちらを選びますか?
 僕もこちらの記事でクオリティ・オブ・ライフ的には云々と書きはしたけど…、それはあくまでもいよいよ最期が見えてきて免れそうになくなった局面での究極の選択である、そこに至るまであの手この手で回復に努めた上で、というのが大前提である。そして現状はまだ、その"あの手この手"を模索して努めてる段階であろう。生命を諦めるにはまだまだ早いのでは?
 クオリティ・オブ・ライフ、直訳すれば生命の質である。自身の生命を質の高いものだと思うのであればなおのこと、こういう時にムダ使いせずに大事に手入れして保管しておかなければ、せっかくの『物種』もすべて持ち腐れになってしまうぞ──表題の『命あっての物種』という諺、コロナ自粛で国民の意識が揺れてる今だからこそ、再度広まってほしいと思わずにいられない。
 









 先月、第93回米アカデミー賞で映画『ノマドランド』が作品賞、監督賞、主演女優賞の3冠に輝いた。この『ノマドランド』という映画で監督は、ノマド=遊牧民のように暮らす車上生活者の姿を通して現在の格差社会を描こうとしており、監督は授賞式後の記者会見で「夢をかなえようとする人の力になれば」と述べている──その、監督のクロエ・ジャオ氏は中国出身であり、しかも女性である。アジア人女性の監督賞受賞はアカデミー賞史上初めてだとのこと。女性であり、かつ有色人種である彼女の受賞は、人種や性別を超えた多様化を目指す世界的な傾向にもかなうものであり、今回から選考メンバーに、従来の白人男性中心から女性や若者、有色人種やLGBTの人の割合を増やしたこととも併せて、かなり画期的な快挙と言えるだろう──
 ところが、その監督の出身国である中国で、彼女のこの快挙のニュースは全く報じられなかったという。それどころかCNNがそのニュースに触れると即座に放映が遮断されてしまう、とのこと。自分たちの国の出身者の、自分たちの人種を背負っての世界的快挙だというのに、である。以前にアメリカでのインタビュー記事で自身の生い立ちに関して話した際に中国に批判的なことを言ったのが原因だという──中国がそういう独善的な国だってことには今さら驚かないけど、今回の彼女が受賞したことの上述の意味を考えたら、それに水を差すようなこんな態度が即座に世界に知れ渡る状況を考えたら、世界中から呆れられてしまうのは解り切ったことだと思うのだが…。自分とこの国民にだけ情報を伏せても何も意味ないこと、いつ気づくのだろうか? 知ったことではないのだろうか?
 しかし、そんな風に自国民にそういうニュースを伏せようとしたところで、市場開放されて以降中国と他国の行き来がどれだけ活発になってると思ってるのか。中国の春節の時期とかに日本にもどれだけ大挙して中国人が来てることか。実際にクロエ・ジャオ氏もアメリカに行ってるわけだし、中国系アメリカ人も何人もいる。自国で政府から伏せられてる情報を目にする耳にすることなんて、全くわけないことだぞ。今回の件に限らず今までも何度も同じことやり続けてるから、隠してはいてもみんなバレてることもいっぱいあるんじゃない? そんなこと繰り返すうちに不信感ばかり植えつけてしまうってわからない? 異を唱えて逆らってくるやつらはみんな弾圧して抹殺しちまえばいいってか? ウィグルみたいに、香港みたいに、30年前の天安門みたいに、60年前の文化大革命みたいに!
 中国人が大量に世界各国にいるのと同じように、中国国内にだって、世界各国からの訪問者が何人もいる。それらの国の人たちが弾圧の対象にでもなれば当然その国の政府は黙ってはいない。自国にフタをしようとしても、自国にいるのは自国民だけでないこと、それらの国の口までは封じられないってこと、まさか他国にまで弾圧の手を及ぼすことはできまい──と思ってはみたけれど…、ここ何年かの尖閣諸島付近のあれこれを見てると、他国にその手を及ぼすことにも躊躇はなさそうだからなぁ…
 そんな国で生まれた監督が今回栄えある賞を受賞し、人種多様化の象徴として脚光を浴びたことを、僕としては希望的にとらえたいと思うのだが、それに対する中国当局の態度を見てると、真の多様化の道のりはまだまだ長いな、と感じざるを得ない。世界各国がこのニュースをどうとらえているか、そして中国当局に対してどのような目が注がれているか、それによって中国は、世界は、人種多様化に関してどのような動きを見せるのか…、今後を注視していきたいところである──
 しかし観客的にはそんな背景事情一切抜きで純粋に映画作品を味わいたいのがホントのとこだけどね。
 









 この記事を含む医療・健康テーマの記事カテゴリを『メディカル・ラビリンス』と名付けている。医学に無知なシロウトゆえ自分の症状についつい疑心暗鬼になりがちな患者の心理状態を『医療の迷宮』に例えたカテゴリ名であるが、あくまでシロウトの立場での無知ゆえの不安を表す、言わば患者目線の言葉である。プロの医者から見れば「何を過剰に取り越し苦労してるんだ」と思えるであろうけど…、という意味合いを込めて、各カテゴリ記事もそのスタンスでこれまで書いてきた。ラビリンスで彷徨う患者と、それを見通す全能の医師、的なスタンスで──しかし、そのスタンスも昨年あたりからかなり崩れてきてると言わねばならない。医療の現場もかなり迷宮化してて、医師たちも彷徨うしかなくなってる状態だな…、と。
 そう、言うまでもなく長期化するコロナ禍それも第3波、第4波とピークが繰り返し訪れ、変異株も次々新種が登場しでは広まり、ワクチンの接種が追いつかない状況が続く中での医療崩壊である──早い段階から「このままではいずれそうなる」と危機感とともに繰り返し言われてきてたし、そうならないために現場は懸命に努めてきたはずだが、こうも状況がコロコロ変わって先がどうにも読めない状況では、通り一遍の予防対策以外に手の打ちようがなく、それら対策も社会経済的な弊害もあってなかなか決定的な方法が取れず、そうこうするうちに病棟は埋まるし医師は疲弊するし、中等症でありながら入院できずに自宅療養を余儀なくされ、自宅で亡くなる人まで出てくる状況は、もう既に医療は崩壊してると言わざるを得ないだろう。
 そんな中にありながら有効な手立ても見つからず手探りするしかない医療現場は、これはもう十分ラビリンスと言える。医療のプロがラビリンスの中で手探りしてる状況だから、それに導かれて従うしかない患者はなおのことであるが、現状では医師なり保健所なりの指示に従う以外どうしようもないわけだ。患者自身が自己判断で勝手な行動しても医師は対応できないし、かえって感染を広げてしまう可能性の方が高いわけで、正直医師も患者も、そして現状とりあえず感染してない多くの人たちも、みんなそろって身動きとれないといのが本当のところであろう。緊急事態宣言とか自粛要請とか、隔靴掻痒な対応しかできない日々はまさに壮大なラビリンス。これが日本のみならず全世界の現状なのである。
 そんな中で、今日もマスクをしっかりして外出し、オフィスや店舗では備え付けのアルコールで手指消毒を欠かさず、アクリル越しに人との距離を保ち…、という心もとないディフェンスのみで凌ぐ日々。果てしないこのラビリンスの出口は未だ見えず、また行き止まりに突き当たって立ち往生し、途方に暮れるのである──せめて同じラビリンスの仲同士、互いの責任のなすり合いをするのではなく、共に協力してみんなで脱出するための方策を考え続けていきたいものであるが…。
 








 先の春場所後、東関部屋が閉鎖され、力士たちは一門の八角部屋へ移籍することになった。部屋の創設者である元関脇高見山の定年後に弟子で部屋付きの元幕内潮丸が2代目東関を継承して、部屋の場所も墨田区吾妻橋から葛飾区柴又に移って新たなスタートを切った矢先に元潮丸が41歳の若さで急逝。唯一の部屋付きだった元小結高見盛が3代目を暫定的に継承したのだが、元々彼は襲名を固辞しており、周囲の説得で1年間だけということで了承、その間に後継者を探していたのだが、結局そのアテがつかずに今回のようなことになってしまった。表題の言葉は3代目東関が襲名前後から言い続けていたセリフである──まあ、あの高見盛に部屋の師匠はちょっとな…、とは僕も思ってはいたけれど、でもあの高見山が作った部屋が本人の存命中に3代目で潰れてしまうというのは、残念と言わざるを得ない。
 実は同じ春場所後にもうひとつ消滅した部屋がある。元幕内三杉磯が興した峰崎部屋だ。こちらは師匠の定年によるものであるが、こちらも後継者が見つからなかったためである。もちろん後継者探しにあたっては何人か候補の親方をセレクトして声をかけたりしてたのだろうけど…、やはり高見盛同様に、表題のような言葉で固辞されたのだろうか──こちらは所属力士の移籍先は芝田山部屋だが、この部屋も師匠の元横綱大乃国が6年後に定年になると、関取も部屋付き親方もいないこの部屋に後継者がいるかどうか心もとない。
 新興部屋ではなく伝統ある名門部屋でも状況は似たようなもので、伊勢ヶ濱部屋も二所ノ関部屋も、部屋名こそ引き継がれたが、一度消滅した部屋をすでに別の部屋を興していた現師匠が名跡変更して看板を掛け替えて再興したものだし、二子山部屋は全く別系統で一門も異なる。朝日山部屋は消滅後に名跡を取得した現親方が部屋を興した際に別一門から元の一門に移ってきたけど、もちろん系統は全然違う。三保ヶ関部屋や井筒部屋は現在も消滅したままである。同系統で継続している時津風部屋や出羽海部屋、立浪部屋にしても、代替わりするたびに新師匠の現役時代の戦績が小粒になっていく。実績を残した名力士がいたとしても、さっさと独立して自ら部屋を興してしまうからだ。しかし新たに興したその部屋も力士が育たず、師匠の代替わりの頃には…、の悪循環に陥るパターンが、ここんところとみに多くなってるような気がする。
 既存の部屋ではすでにタニマチがついてて、それも含めての継承になることに加えて、先代やその未亡人などとの確執で苦労することも多く、それらも含めてうまくやっていかなければならないことを考えると、継承話など簡単に安請け合いできるものではないことは、先日千賀ノ浦部屋から名前を元の名跡に戻した常盤山部屋のここ何年かの状況が多くを者が立ってることだろう。冒頭のような高見盛の固辞は、ニュース面だけ見てると自分勝手みたいに見えるかもだけど、彼の性格では、いやそうでなくたって普通に無理難題ではなかろうか…。
 ──引退が時間の問題と思われる白鵬も、伝え聞いてる報道から察するに、宮城野部屋の継承ではなく独立して新たに部屋を興す方向で考えていると思われる。そういえば現宮城野親方も未亡人の意向がらみで一時期師匠からはずれてた時期があったっけ…。今となっては部屋の黒歴史だし、そういうところも白鵬の考えにはいくらか影響してるのかもしれない。似たようなことが元鳴戸部屋の現田子ノ浦部屋でもあったし、現師匠はいろいろと難点はあるが、稀勢の里も性格的に現在の部屋の継承には消極的に見えるのは僕だけだろうか。
 コロナ禍でパーティも開けず、タニマチ収入も見込めない昨今、部屋経営はますます苦しくなってきており、師匠の苦悩は増すばかり。ギブアップして閉じられる部屋は、今後もっともっと出てくるのではなかろうか。
 








 欅坂46で不動のセンターだった平手友梨奈が卒業ではなく脱退という言葉を使ってグループから抜けたのは昨年の1月のこと。それまでにも体調を崩したりケガをしたりで休むことが多く、紅白でのパフォーマンス後に酸欠状態で倒れたなんて話も伝わったりして「相当無理してるな」感はあった。グループのカラー(優等生的で明るく清楚な乃木坂46との対比で反抗心とか尖った内面の闇を秘めたメッセージ性が前面に出てきてた)もあって"笑わないキャラ"を通していたというのもあるが、キャラとしてだけではなく本心の部分でも同じような思いを抱え続けていたのだろうか──
 …なんてことを思いながら「僕はイヤだ!」と彼女が叫ぶのが象徴的な『不協和音』や、厄介物の自分が消えることでみんな喜ぶんだろう、と歌った『黒い羊』などを改めて聴いてみると、脱退を決めた彼女の思いもきっと同様だったんだな、なんて思えてきてしまうのだが…、もしかしてこれって筋書き通り? まさかなぁ、とは思うが、何しろ秋元康がからんでるからなぁ──脱退後の平手友梨奈は、欅坂時代とはうって変わって明るい笑顔がまぶしい…。
 その、不動のセンターが抜けてしまった欅坂46は…、その年の秋に、グループ名を櫻坂46に改名し、新たなスタートを切ったのだった。新生櫻坂46は、欅坂時代とはどこか変わったのだろうか…? 変わったか変わらないかで言えば、ちょっと見にはかなり変わったように見える。欅坂時代の『平手友梨奈と欅坂46』的な構成とは違い、メンバーそれぞれの個性も前面に現れてきており、それにともなって楽曲世界にも闇だけでなく光が当たってきたように感じられる。よく楽曲を聴いてみると欅坂時代の尖ったメッセージ性が強い楽曲世界はしっかり継承されてるのだが…。
 とはいえ変わった面ももちろんある。それがいい変化か悪い変化か…。かつての欅坂は、従来のアイドル像とは異なるそのメッセージ色の強さで、実はアイドルファンではない人の中にもファンが結構いたりしたのだが、それが普通のアイドル寄りに近づいたら、それらのファンは遠のくだろうし、新たなアイドルファンがつくには、かつての欅坂のイメージが抜けておらず、平手友梨奈脱退前後の事情を含めて、アイドルファン的にいろいろとマイナスイメージは否めないから、ファンの盛り上がりも、そしてグループのインパクトも、欅坂時代よりはダウンしてしまうだろうな…。それでもメンバーの女の子たち的にはリラックスできてやりやすくなったっぽいし、彼女たち的にはいい変化なのかも知れない…。
 しかし、それがいい変化ということになると、それが平手友梨奈という『黒い羊』が「僕はイヤだ!」と言って去って行った結果だということになると…、それもまたとってもフクザツではある。けど脱退後の平手友梨奈はかなり明るくなったから、お互いにいい変化だったんだ、と考えた方がいいのかな?

 









 この『ノンセク』カテゴリは他のカテゴリジャンルに当てはまらないテーマをすべて集約というのがコンセプトなわけで、それだけに記事で取り上げるテーマはもとより、記事論調のトーンもバラエティに富んでて良いはず、なのだが…、どうも全体的にあまり明るくない話題でシリアスにしかめ面しながら読むような記事の比率が高くなってるような気がする。やはり、物事をいろいろと難しく考えてしまいがちな僕の性分なのだろうか…。
 なので、今回はなんかやわらかめの話題をと思っていろいろネタを探してみたのだけれど…、これはというのが見つからなかった──というか、なんか昨今の世相として、あまり大っぴらにおちゃらけるのが罪悪であるかのように感じさせる風潮って、ないだろうか? 著名人の失言をすかさず槍玉に挙げて引きずり下ろす風潮は今に始まったことではないけど、エセフェミニストの台頭が目覚ましくなるにつれて連中の攻撃の対象がどんどんイチャモン方向にエスカレートしていってる状況は間違いなくある。その傾向はフェミ関連だけでなく障碍やセクマイ関係でも同様で、とくに作品表現方面に関わる向きで窮屈になってきている──
 その状況に決定的に追い打ちをかけてるのが昨年来のコロナ禍である。自粛自粛でありとあらゆる娯楽が制約されてしまっており、アフター5や休日のレジャーを提供する業種はことごとくダメージを受けて、経営破綻や廃業を余儀なくされている。利用する客側の我々にしても楽しみをことごとく奪われて、鬱憤の発散の場もなく、ひたすら耐えて暮らすことしかできなくなってしまった。そんな状況が改善される見込みは、今に至っても全くついていない。
 そんな状況をこれになぞらえるとまた不謹慎厨が騒ぎ立てて余計に窮屈になりそうだが──戦時中の『せいたくは敵だ』『欲しがりません勝つまでは』に似てるな、なんて思えてしまう。何しろ今回のこの世界的なコロナ禍はある意味『世界人類対コロナウィルスの世界大戦』と言えなくもないわけで、そう考えると自粛自粛の現状を『戦時体制』と思いたくもなってしまう。ここで「不謹慎だぞ」と糾弾する声が飛んできたら、戦時中の「非国民だぞ」と同じ響きを感じることだろう──「それは大袈裟過ぎる」今現在はそうかもだけど、上述のエセフェミ方面その他の急激なエスカレートぶりを見てると、あながち荒唐無稽と笑ってられない状況に、いつの間にかなってたりするのでは、なんて心配にもなってくるよ。
 そういう暗黒の未来が来ないように祈りつつ『娯楽は敵だ』な日々を『コロナ警戒警報』に怯えながら防空頭巾(不織布マスク)つけて過ごす日々が続いてるわけだ。対コロナ戦争については『打ちてし止まん』の気概で戦っている前線の兵隊さん(お医者さん)たちの武運を祈らずにはいられない──そのためには我々一般国民の『銃後の守り』が重要なのは言うまでもない。