ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -17ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 前回仮ナンバーの話をしたので、ナンバーついでにデザインナンバープレートについても触れておいた方がいいだろう──最近、道路を走っている車の中にこんなナンバープレートを付けてる車を見ることはないだろうか。一昨年、道路運送車両法施行規則等が一部改正され、図柄入りナンバーが導入された。それにともない全国各地のご当地デザインナンバーや、今年のラグビーワールドカップ記念ナンバープレートに来年の東京五輪記念ナンバープレートなどが登場、それを装着してる車も多く見られるようになった。もちろん前回記事の仮ナンバーではなく陸運局発行の正式なものであり、現在の登録番号はそのままで、プレートだけをデザイン仕様に交換することができる通常のナンバー料金に加え寄付金が発生するため割高な値段であるが、人気は結構あるようである──
 で、このデザインナンバー、普通車だけでなく軽自動車や事業用車でも交換可能なのだが…、車種や用途に関わらず、ナンバープレートの色は白である。軽自動車でも黄色ではなく白、事業用車も緑ではなく白。普通自動車と全く変わらない。なので僕の地元でも客をもせてる路線バスが白いナンバーつけてたりして一瞬「えっ!?」なんて思ってしまうことがしばしばある──もちろん正式に認められたナンバーであり、公道上の走行は何ら問題はないのだが…、情報に疎い運転手や歩行者などに不正使用と勘違いされて誤通報されたりすることはないのだろうか?
 普通自動車と軽自動車の区別はナンバーの色だけでなく、後部装着のプレートの左側ネジ止め部の封印の有無で見分けられるのだが、白ナンバー車なのに封印がないことで、盗難車と間違われた事例は、わずかだがあるらしい。通報まではされなくとも、有料道路の料金所で普通自動車と間違われて料金を誤請求されることもあるという。タクシーが白ナンバーつけて走ってたりしたら、誤通報する人、いるんじゃないかな? で、駆けつけた警官も前回記事にも書いたように意外と知識に乏しい上に不勉強だからマトモに事情聴取しようとしたりして…。実は軽自動車や事業用車はナンバーの登録地名の横の3桁の数字とひらがな見れば区別はつくんだけど、そんな発想がそもそもない人が多いだろうし、そこまでじっくり記述を直視しなきゃわからないのでは、ナンバープレートの趣旨からするとどうかって気もしなくはないけれど…。
 でも、決して例外的とはいえない枚数のデザインナンバーが発行され、実際にそれをつけた車が車両の種類や用途に関わらず道路を走行してる状況である。各デザインナンバーについての知識、もうちょっと一般に広く周知されてもいいのではなかろうか。無用な誤通報や誤認トラブルを避けるためにも──って、これ前回記事と全く同じシメではないかw でもそれに尽きると思います。
 









 この寒い中、駅から徒歩10分ちょっとの距離をテクテク歩いて帰宅し、まずコタツの電源を入れてから服を着替え、手洗いとうがいをすませてあったかくなったコタツに足を突っ込んで、コタツ布団を腰までしっかりかける。そうして徐々に冷えた身体が温まってくると──か…、痒い。上腕から肩にかけて、すねから太もも、そして腰から脇腹に至るまで、あっちもこっちも痒い、とにかく痒い! 掻いても掻いてもキリがない、痒みは全然おさまってくれない。皮膚の一部が掻きすぎて赤く腫れあがっても、ところどころ傷になっても、それでも掻かずにいられない!
 …そんな日々が、冬になってからこっち、毎日続いている。同じ症状に悩んでる人は多いらしい。この季節には起こりやすい症状なのだそうだ──原因としては、気温の低下によって皮脂腺や汗腺が鈍って角質細胞の脂質や水分が減ってくる上に、ただでさえ少ない皮膚の水分が空気の乾燥で蒸発しやすくなるためだという。そこに暖房器具を使用たりするとますます乾燥が進んでしまう。実際、痒みをおぼえる箇所の皮膚をよく見てみると明らかにかさつきが目立つ。間違いなく皮膚が乾燥している。さらに入浴時に体を洗いすぎると角質細胞が剥がれて脂質や水分の消失に拍車がかかってしまう。確かに僕は風呂でゴシゴシ洗いすぎる傾向があるから、それも原因になってるのだろう──しかし冬にそんな症状が出始めたのはここ数年くらいのことだぞ。やはりもうひとつの原因、加齢による皮膚の保湿機能の低下の影響を、僕の年齢を考えると残念だが認めざるを得ない…。
 しかし肩にせよ腰にせよ脇腹にせよ、衣服で覆われてる場所だから直接風にさらされないし、結構厚着の傾向がある僕は暖房の効いた電車内とか室内では汗ばむこともあるくらいで、露出してる顔や手先が何ともないのにそっちだけが乾燥するってのも変な気がするんだけどなぁ。汗腺や皮脂腺が少ない場所ではあるし、衣服との摩擦で多く水分を取られやすいから乾燥しやすいというのはわかんなくはないが──などと理屈をこねてみても痒みはおさまってはくれずにバリバリ掻きまくる日々なのですがw
 とりあえず、医者に診てもらうほどのひどい症状ではないし、冬の乾燥が原因ならば春になったらおさまるだろうと思ってそのままにしてますけどね。前回記事に書いた通り皮膚科には定期的に通院してるので診てもらう気になればいつでも診てもらえるし。まあ、入浴や衣服、食生活などの生活改善は少しの努力で何とかなるし、薬もらうとしてもせいぜい保湿剤くらいだから、多分かかりつけの皮膚科の先生の手をわずらわせるまでもないでしょう──ああ、春が待たれる…、と言いたいところだけど、春になると花粉症の恐怖が待ってるんだよなぁ。それを思えば冬の痒みくらいは何でもないようにも思えたりしてw
 









 こちらの記事にも書いたが、岡山県倉敷市というと一般的には美観地区や大原美術館などに代表される古き良き文化の街、というイメージでとらえてる人が多いと思われるが、実のところ"大都会"岡山市の副都心であると同時に水島地区のような重工業地域や児島地区のような四国からの玄関口という顔も持っており、上述のイメージは倉敷の一部でしかない。当然、倉敷駅周辺だけを紹介して倉敷を語ったつもりになるわけにはいかない──そんなわけで今回取り上げるのが児島駅である。
 上述の通り、児島地区は現在瀬戸大橋の入り口であり四国の玄関口となっているが、元々は海岸線に塩田が広がる塩作りの盛んな地域であり、と同時に瀬戸大橋開通前にも対岸の香川県坂出市と結ぶフェリーが頻繁に発着しており、四国の玄関口としての役割は以前からあった。と同時に鷲羽山(『おすもうの味方』的にはつい「わしゅうやま」と読んでしまうがこちらは「わしゅうざん」)を始め、瀬戸内海国立公園の一翼を担う景勝地や観光地も豊富で、倉敷=美観地区的なイメージは観光的な意味でも違うと言えるだろう…。他に漁業が盛んだったり、競艇場もあったりと、海辺の街のあらゆる特色を盛り込んだ街と言えよう。
 そんな児島地区にあるJR児島駅であるが、できたのは瀬戸大橋開通の年であり、駅としての歴史はまださほど長くはない。瀬戸大橋開通に伴い、本州と四国を結ぶ初めての鉄道路線である本四備讃線がJR宇野線の茶屋町駅から分岐され、橋の開通とともに対岸の香川県まで全通する直前に先行して暫定開業(『瀬戸大橋博'88・岡山』開催に伴ったもの)、わずか20日間だけの終着駅を経て本四備讃線の途中駅になってからも、もちろん四国への入口&児島地区の代表駅というポジションであり続け、それは現在も変わりはない。が…、僕がこの駅に初めて降り立ったのは駅開業翌年の暮れ、例によって広島への帰省途中の寄り道だったのだが、出来て2年弱のその頃、駅周辺はまだまだ開発の余地をたくさん残して空地が多く、高架でデカデカとした見た目にも新しい駅舎とやたら広くて小奇麗な駅前広場が殊更に目立っていた。
 そんな状態だったので駅周辺にもお茶したり買い物したりするスポットは見当たらなかったが、そこは瀬戸大橋の入口であるから海はすぐそばにあって、沖合にいくつも島が浮かぶ瀬戸内海の風景と、それを貫いて対岸に伸びていく瀬戸大橋の雄姿を、僕は海岸に佇んだまま飽きることなくじっくり眺めて堪能したのだった。その日は冬とは言えさほど寒くはなく、ピーカンの青空がくっきりと映える好天で、橋の姿は一層凛々しく感じられた──現在の駅前にも商業施設が建ち並んでいるという様子はなさそうだが、あの橋の雄姿が際立つためには、むしろその方がいいのかも知れない。
 ともあれ、その時は鉄路にて四国に渡るつもりで、本州側の入口付近を見とこう、くらいの気持ちでの途中下車で、目的は海の向こうだったのであまり長居はせずに駅に戻る──上述の通り高架の駅はかなり大きなものである。当然、駅舎の中、コンコースもかなり広いものであったが、乗降者数がそれに追いついてないのか、広さが余計際立ってる気がした。それは高架上のホームも同様で、瀬戸内海の海風が心なしか強く感じられたのだった…。電車は待つほどもなく到着し、僕は対岸の四国方面へと向かったのだった。
 ところで、この時の訪問の翌々年に廃止された下津井電鉄の児島駅が、その当時まだそこから700m程度の場所にあったはずなのだが…、それを案内するようなものはどこにも見当たらなかったな。すでに廃止が決まってたのだろうか? 僕もその存在を失念していて、そちらを観に行くという発想はその時全くなかった──倉敷と合併する前は児島市で、その代表駅だったであろうそのエリアを散策してたら、また全然違った児島の顔を見ることができたのだろうか…。
 









 例えばあなたがバスに乗ったとする。このバスではICカードに対応していないので運賃は現金で払うしかない。幸い先ほどATMで預金を卸した直後で、財布には2万円入っている。バス代なんてよっぽど長距離でも乗らなければ普通は500円超えることは少ない。降りる停留所が近くなってきたので両替機にお札を──何と、その両替機は紙幣は1000円札しか受け付けてくれない。財布の中はさっき降ろした10000円札しかない…、困った!
 近頃は10000円札を受け付けてくれる自販機もたくさん出てきており、駅の券売機などはまずすべての紙幣に対応しているのだが、バスの車内の両替機の大半は、未だに1000円札にしか対応しておらず、ICカードが使えない路線で小銭がないととっても不自由してしまう──表題の『大は小を兼ねる』という諺が大ウソだな、と切実に思い知らされる瞬間である。
 表題の諺の意味は「大きいものは小さいもの役割も果たすので、小さいものの代用として使えるため、小さいものよりも使い道が広く役に立つ」ということである。だが現実の生活の場面で、大きいものが小さいものの役割を果たして助かった場面なんてどのくらいあるだろうか? その逆の場面の方が圧倒的に多くないか? 上述の例以外でも、車で走行してれば車幅制限や高さ制限に引っかかって進路を阻まれたり左折の時に曲がりきれなくて切り返しを余儀なくされることはザラだし、Bカップサイズのバストの女子がGカップのブラをつけても全く役を成さないだろう。伊豆で収穫したせっかくのワサビを大きなおろし金でおろしたりしたら香りも風味も台無しである──逆に例えば料理の際に味見のためにおたまで掬ったひと口分のコンソメスープとかを移すのに丼鉢を使うことは別にできなくはないけど、でもそんなことする? 大は小を兼ねない場面はザラにあるし、また兼ねることが可能だったとしても普通そういう用い方はせんやろ、な場合が大半である。米倉涼子も福山雅治もチョイ役での演技はできるだろうけど、それで起用しようなんて誰も思わないだろうし。
 もちろん、だからと言って小も大を兼ねたりはしないんだけどね。スコップでビルの解体はできないし竹ヤリでB29に対抗できないし。要するに適材適所で、小には小に適した使い道が、大には大に適した使い道がそれぞれある、という実に平凡な結論になってしまうわけなのです──
 それにしても『大は小を兼ねる』というこの諺、由来は漢の時代の論文集にある「大人=賢者は小人=愚者の振舞もできる。ゆえに賢者だけが世の中に立てる」らしいのだが…、賢者と呼ばれる人にそういうマネをやらせちゃうのか? それができることをもって「素晴らしい」ってなるのか? てな具合にそもそもの由来からしてチグハグ感が否めないこの諺、漢の時代から今に至るまで語り継がれてるというのが実に不思議である。まさかこれも、愚者のフリをした賢者さんのしわざ? そんなとこで大が小を兼ねる意味なんて、ある?
 









 JR山手線田町~品川駅間に新たにできる新駅の名前がJR東日本によって一般公募され、多くの応募が寄せられていたという。その中で最も多く票が集まっていたのが『高輪』。新駅のできるエリアの地名であり由緒もあって一般的な名の通りもよい。その地域に古くから住む人たち(都心部のオフィス街とは言っても、昔から住んでる古老という人たちは少なからずいるものである)にも愛着はあるだろうし、1位の『高輪』に続く2位の『芝浦』や3位の『芝浜』ともども、ある意味妥当なところではあるだろう。
 で、その新駅の名称が昨年12月に発表された。たくさんの応募の中から選ばれた栄えある新駅名は──『高輪ゲートウェイ』。『高輪』ではない。後ろにゲートウェイと続くのだ──実はこの『高輪ゲートウェイ』という名称、応募の中にあったことはあった。130位に…。これには「なんのための公募だ」「多くの人の声を無視してるのか」という声が殺到するのも無理はないだろう。
 無論、この新駅名にも由来はちゃんとある。このあたりは街道が通っており江戸の玄関口として賑わった地であり、そうした歴史を受け継いで今後も各地との交流拠点として過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として街全体の発展につながるようにとの願いを込めて…、というのがJR東日本の言う選定の理由である。そして新駅の周辺エリアでは大掛かりな再開発が進められており、そのエリアの名称も『グローバルゲートウェイ品川』と名付けられている。その、再開発コンセプトである『ゲートウェイ』と投票1位の『高輪』を組み合わせたのだと──これにより公募に寄せられた多くの声を無視したわけではない、というアリバイにもなる、というわけである。
公募の反映云々のことは置いといても、単純に駅名として語呂が悪いとか不格好とかいう意見もある。確かに他の駅名が実際の地名やその土地の昔からの名称など、シンプルで明快な駅名が多い山手線の中にいきなりそういう駅名がポツンと登場すれば、バランス悪いなぁ、という感じもしなくはない。実際、駅名が決定して1ヶ月以上経過しているのにこの新駅名への反発の声はやむ気配がなく、命名撤回を求める署名呼びかけまでなされている状況である──中には、というか案の定だが、誰が決めた(命名責任者)か不明、公募(民主主義)のカタチを取ってるけどカタチだけで、決まったんだからと既成事実化して、炎上を一時やりすごして世間の忘却と(慣れを待つ、というステップを示しつつ、モリカケや公文書改竄と通底すると指摘したコラムを載せた新聞もあったりした──そんな社会問題にこじつけて新聞で論じるようなことでもない、単に"キラキラ☆駅名"の話題ではないか。そもそもJR東日本は民間企業で駅はその企業の私有施設。それにどんな名前をつけようが本来所有者の勝手なのである。
 もちろん、その名前を一般市民がどう感じるかも、それが定着するかしないかも勝手であるわけで、市民側も自由にリアクションすればよい。ニュースで騒ぐようなことではない──てか"キラキラ☆駅名"でいちいち騒いでたら『YRP野比』(京急線)や『越谷レイクタウン』(JR武蔵野線)や、あの駅やこの駅はどうなる? 新聞記事とかで騒がれたりしてたか? …まあ、山手線の新駅で、再来年の東京オリンピックに合わせて暫定開業ということで注目度が高いゆえではあるのだろうけれど。
 ──といいつつ僕自身もこの駅名に少なからず違和感ありなんですけどね。開業後、定着したら慣れてくるのかどうか、今はまだわからないけど。オリンピックで訪れてくる海外の人たちにはどのように聞こえるだろうか? てかそんな駅名ひとつにそもそも関心もたれるかな?
 









 以前にこちらの記事でももクロのことを「権威主義者を判別するリトマス紙」と書いた。ファンたちが愛してやまないロックやフォークの灯が未来へと続くためには次世代以降にそのジャンルが浸透する必要があるわけで、ももクロちゃんたちの世代の参戦は喜ばしいことなはずだし、実際大御所のロックやフォークのミュージシャンたちに彼女たちが好意的に受け容れられている事実もあり、ジャンルの伝承としては希望的なことなのに、その新芽を受け容れられずに摘みたがるのってホントのファンか? …って感じでももクロの多ジャンルコラボに対する各ジャンルのファンの反応が、その人がジャンルの永続まで視野に入れた未来志向のファンかそれとも単なる権威主義者か、まで見えてくるように思える、という趣旨である。
 ──なんて書きながらも実は「それでも意識が変わらずに権威主義で嫌な顔する旧弊なファンは後を絶たないだろうな」と思っていたし、実際ももクロ自体が一般的には人気のピークを過ぎてる昨今、彼女たちを例えに出してもそもそもピンとこない人も増えてきてることだろう。であるなら権威主義者を見分けるリトマス紙を別のものに変えてみようか──『ボヘミアンラプソディ』に。
 昨年封切りされて日本でも空前のブームを呼んだこの映画、もう説明不要であろう。伝説のバンドであるクイーンの結成から'85のライブエイドまでを描いた伝記映画で、ボーカルのフレディマーキュリーに焦点を当ててストーリーが展開するのだが、フレディを始めとする各メンバーを演じる役者たちのファッションはもちろん、ライブパフォーマンスのシーンも細かい部分まで忠実に再現されており、リアルタイムで知ってる世代にとっても圧巻な作品となっている──しかし特筆すべきは、リアルタイム世代と一緒に劇場に足を運んで映画を見た息子娘たち若い世代にも父母同様に感動に打ち震える人たちが続出してることである。この映画に影響されてクイーンにハマり『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』や『伝説のチャンピオン』『ドント・ストップ・ミー・ナウ』あたりを聴きまくってる若者たちを、リアルタイム世代は果たしてどのように見てるだろうか──?
 もしも単なる権威主義者でなく、クイーンの世界の永続を願うファンであるならば、彼ら若い世代を暖かい目で見てやってほしい、できれば「こんな名曲もあるぞ」て感じで自身の愛聴盤を勧めてみて欲しい。間違っても「このニワカが」などと見下すようなことはしないでほしいと思うわけだが、ダメですか? 自分たちの世代と共に廃れていって欲しいですか?
 今回『ボヘミアン…』のブームによって新たなリトマス紙ができたわけだが、同様のリトマス紙はいろんなところにあると思います。僕は常々"聴かず嫌い""観ず嫌い"を皮肉っぽく批判してますが、それは決して受け手側の姿勢だけでなく、先人たちも伝承意識を持たねば、ですからね──
 









 一昨年秋の元横綱日馬富士による暴行事件以降、貴乃花部屋及び貴乃花親方がらみの話題が途切れることがなかった相撲界。親方が理事を解任されてから平年寄にまで降格されて以降、状況はなりを潜めていたと思われたのだが、昨年9月場所直後に貴乃花親方は突然相撲協会を退職する──
 こちらの『おすもう』カテゴリでは、記事を書くたび毎回毎回貴乃花部屋及び貴乃花親方がらみの記事ばかりになるのもワンパターンで芸はないし、何より書いてる僕自身がウンザリなので、僕はここまでわざとそれには触れずにずーっと静観してきた。貴乃花親方が退職したことも、それに至った経緯についての親方側と協会側の言い分の食い違いとそれぞれの信憑性についても、引退or退職等の用語の違いによる書類不備についても、その結果の弟子たちの千賀ノ浦部屋移籍についても、書きたいことはいくつもあったけど敢えて書かずにいた。その翌場所の貴景勝の初優勝のようなめでたい話題さえも、それまでのスキャンダラスなあれこれに目をつぶったままこれだけことさらに記事で称賛するのも何かしらじらしい気がして書くのを憚られて見送ったし、前回記事の輪島さんは先代貴ノ花とは親友であり、その息子である貴乃花親方とも懇意であり、訃報にあたって輪島さんとの想い出を語った報道もあったのだが、僕の前回記事ではそこには触れなかった。貴乃花親方の景子夫人との離婚の話も、それに続くように靴職人の長男も自身の素行で離婚に至ったことも、大相撲や協会とは無関係の話なので『おすもう』カテゴリではもちろんだが『ノンセク』等の他カテゴリでも触れないでいた──
 そんな中で今度はすべての迷走の発端となった貴ノ岩が、被害者から一転して加害者となり、自ら責任を取って引退することになった──この件についても当の被害者である付け人本人もその親御さんもさほど被害感情を持っておらずむしろ貴ノ岩に寛大な処置を望んでたり千賀ノ浦親方の苦悩が伝えられてたり、そもそもこの件がこんなに早く大っぴらになったり貴ノ岩自身の決断も速攻だったりときな臭さを感じたり、元師匠である貴乃花親方のこの件に関するコメントもいろいろとツッコミどころがたくさんあったりと、記事に書けそうなことはいくつもあるけれど、これも現在進行形でこの後また何か新情報が出てきそうな気がして、現段階であれこれ書くのは早計かもな、という判断になった。
 現在進行形でこのあとまた…、というのは貴乃花親方についても同じである──厳密にはすでに相撲協会を退職しているから貴乃花親方ではなく一般人の花田光司さんだが、各メディアは現在も貴乃花親方もしくは元貴乃花親方あるいは貴乃花さんと称しており、本人も今後どの名前で活動するのかもハッキリしないし、本人の現時点でのメディアでのコメントもあれこれ疑問点は多々あるし、これからまだまだ何か新事実や新事件が突然発覚して、今日書いた記事内容が数日後には全然見当違いだった、なんてことはいくらでも起きそうな感じである。これでは、貴乃花親方がらみの話題で記事を書いてUPするのは何か裏をかかれて足をすくわれるような気がしてならないから、おいそれと書けないではないか──
 そんなわけで、もうしばらく貴乃花親方だけでなく『貴』の字にまつわる話題には触れずに静観していようと思います。たとえ明るい話題であっても。貴景勝がもう1回優勝しても大関にスピード昇進してもここで話題に出すことは、しばらくないだろうな──しかし、そんな風に思わざるを得ないすべての事情の中心に、他でもない貴乃花親方がいることは間違いないわけで。そんな彼が去って行った相撲界、果たして現在よりも悪くなるのか、それとも逆に良くなるのか…、それも今の段階では、僕には何とも言えませんです。ともかく、現場の力士たち(もちろん元貴乃花部屋の力士も)は雑念を払って相撲に打ち込んでください──
 









 ふだんから車を運転してる人なら、たいていは道路を走っている車の中にこんなナンバープレートを付けてる車を見たことがあると思う。通常の車両登録ナンバーとは違う、仮ナンバーである。個人で申請して公布されるものは赤いラインが対角線上に引かれていて、業者が使用するものは赤枠で縁取りされている。両者はそれぞれ申請方法や申請受付機関、使用条件や使用目的の範囲、有効期間などは異なるが、車検切れや登録抹消などで通常のナンバーがなく、そのままでは公道を走行できない車両を自走で移動させる必要があると認められた用途で動かす際に公道上で取りつけるための暫定的なナンバーであることに変わりはない。
 で、この仮ナンバー、上述の通りナンバーのない車を走らせる時に使うものなので、申請取得の際に使用目的は明確かつ詳細に問われるのだが、そのナンバーが使用される車両の車種までは問われない(業者の場合だと複数の車両に掛け持ちで使用されるのが普通)ので、そのナンバーを取りつけて走行してるのが申請者か否か、素人にはもちろん関係機関の職員であっても公道走行中にはまず見抜けまい──要するに仮ナンバーが盗難に遭って第三者が盗難車の正規ナンバーを取り外して不正使用してたとしても、第三者にはまずわからないわけだ。それだけに貸与された仮ナンバーの管理には厳重さが求められるし、万一紛失した場合のペナルティも厳しい。
 そんな、仮ナンバー装着の車が前を走行していたら、あなたはどうですか? 上述の通りこれをつけてるのは車検のない車である。エンジンとか足回りとかは大丈夫なのだろうか? あるいは盗難車に不正使用されてる可能性がゼロではない。運転してるのが凶悪犯なら犯罪に巻き込まれない? などなど、不安な可能性を考えればキリはない──しかし、基本的にこれを取得してる人はある程度の車両の機構の知識の持ち主である。特に業者用の場合なら、車の整備管理のプロである。むしろ安心して後ろを走れるのでは? まさに、イチかバチかの賭けのような気がする。あなたはどちらの可能性に賭ける?
 そんな仮ナンバーに関して、一般ドライバーはもとより日常業務で車と接してても知識が乏しい人はいる。仮ナンバー車にフロントガラスのステッカーを見て「これ車検切れですよ」と言ってくるガソリンスタンド店員とか、ファミレスの駐車場に止めてる間、上述の盗難を防ぐために車両からはずしてダッシュボードに仮ナンバー置いてる車を110番通報したり、また駆けつけた警官もそのドライバーに根掘り葉掘り事情聴取しようとしたり、中には「車検証見せてください」なんていう警官までいるらしい──よく見かけるわりには、その仕組みについてはあまり知られてない、てか僕自身教習所で習った記憶がないし、実際に自分で使う機会がなければそんな知識を得る機会もなかなかないのだが…。
 でも、決して例外的とはいえない枚数の仮ナンバーが発行され、実際にそれをつけた車が道路を走行してる状況である。仮ナンバーについての知識、もうちょっと一般に広く周知されてもいいのではなかろうか。無用な誤通報や誤認トラブルを避けるためにも──
 









 表題の意味? 昨年暮れまでTBS系で放映されてたドラマ『中学聖日記』のことです──放送開始直後は『TVガイド』か何かであらすじチラッと読んだだけと思しきイッチョカミの「『高校教師』の二番煎じかよ」「子供に観せられない」「ゴールデンタイムに不謹慎」的な声が大きく、その先入観からか視聴率も低迷してたようだが、ちゃんとドラマを観た人たちは『高校教師』と『中学聖日記』の世界観の違いも理解でき、主人公を始め登場人物たちの心情の流れにもついて来れて共感も呼び、観た人の間での評判はかなり良かった。しかし上述のイッチョカミ及びそれを鵜呑みにした人たちの観ず嫌いが最後まで尾を引いたのか、視聴率も上がらずじまいだったようだ──僕は表題の通りうるうるしながら毎回観てましたがw
 で、この記事は『Jダベ』カテゴリなので本題はドラマではなく音楽──上述『高校教師』と同一視した人は、主題歌『プロローグ』の歌いだしの部分だけ聴いてその印象が強まったことでしょう。実は僕も一瞬、森田童子『ぼくたちの失敗』を思い出しました。イントロや最初の歌いだしのメロディとテンポ、そして歌ってる女性の声質とどこかけだるそうな発声…、どれもが『高校教師』の主題歌に使われた『ぼくたち…』を彷彿とさせるものだった──それは出だしだけで、2小節も先に進めば明らかに曲調も世界観も別だとわかるし、サビまで聴けばまず混同する人は誰もいないだろうけど…、ドラマ同様、上述の印象だけで聴くのをやめて森田童子のイメージを持ち続けてる人とか、いたりするのかな──?
 歌ってるUruという女性ソロシンガーはYoutube出身だそうだが、生年月日始めプロフィール等一切非公表で『謎だらけのシンガー』の異名を持っており、音楽的なキャリアはそこそこあるものの一般的な知名度はほとんどなく、存在がミステリアス過ぎるところも、イッチョカミ的には森田童子とかぶっちゃうかも知れない。今回この主題歌のヒットでUruが広く知られて両者が楽曲も世界観も全然違う(上述の2曲もそうだが、それぞれの他の作品群はさらに)ことが周知されればいいとは思うのだが──存在がミステリアスである以上、両者のアーティストを深く知る手段はそれぞれの楽曲により多く触れることしかないわけだから。
 そんなわけで、結論的には何度も書いてるように「聴かず嫌い、観ず嫌いはしちゃダメだよ」ってことになっちゃうんだが、それは音楽もドラマも同じである。ドラマと裏腹に楽曲的にはかなり好評な『プロローグ』。ドラマ主題歌うんぬん関係なく楽曲から入った人たちに支持されているのであろう。この曲をとっかかりに観ず嫌いしてた人たちもあらためて『中学聖日記』をご覧になってみてはいかがだろう。『プロローグ』はドラマの原作をUru自身が読んで、作中で描かれている『激しく相手を思う恋心』を表現したのだという。物語の世界観を表現したこの曲に共感できるなら、きっとドラマにも共感できると思いますよ──
 









 大学4年の時、2週間の教育実習を行うにあたり、僕を含む4人の実習仲間が担当する中学校に呼ばれて、校長先生と教頭先生、実習担当教諭との面談が行われた。その席で校長先生がしたこんな話──「何年か前に実習に来た女子学生が、放課後に訪ねてきた生徒にお菓子を配ったってことがあったんです。我々が彼女に注意をするとその実習生から『放課後ですよね。終業時間終わってるのにお菓子をあげて何がいけないのですか?』と言われて、言葉に詰まって言い返せなかったんですが…」と、何がいけないのかという問いに自分たちが答えられなかったことを認めたその上でこう続けたのだった「常識で考えて、わかりますよね?」
 自分たちが正しい理由の説明に詰まっておいて常識もないもんだ、なんて内心は思ってたのだが、当時の僕は進路として教師を真面目に考えていたし、逆らって単位を落として教員資格を取れないと困るので異論は唱えなかった。大学での教職ガイダンスでも「キミたちはまだ教育のことはよくわかっていないのだから、担当の先生に異論を唱えるのは慎んでください」と担当職員からクギさされてたんで──
 「それが常識だ」この一言を相手の反論を封じる伝家の宝刀みたいに振りかざす人が、特に偉い人に多い気がするが…、常識人のはずの彼らがなぜ、常識であるはずのことに対して筋の通った説明ができないのか。「教育のことをよくわかっていない」実習生に「教育のことをわからせる」方法を取らないのか、教育者なのに──という疑問は、卒業後教職とは別の仕事について30年以上経つ現在でもまだ消えていない。
 てか“常識”とはそもそも何か。「社会の構成員が有していて当たり前のものとしている社会的な価値観、知識、判断力。客観的に見て当たり前と思われる行為や物事の。これを欠いていると社会生活上に支障をきたすことも多い」とwikiにはあるが、その『常識』が客観的な正解だとはどこにも書かれていない。逆に「社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない」とある──と、こんな風にwikiの引用で文章を形成するのは非常識と言う人はいるだろうが、百田尚樹氏の『日本国紀』の事例もあるし、大学生の提出するレポートなどにも当たり前にwikiの引用がある状況では、それをやらないのが“常”とは言えないわけで“常”でないものを常識とは呼べまい。まあ正解では決してないのは間違いないがw
 まして常識≠正解だの、社会によって常識と非常識が逆転する場合もあるなんて言われたのでは「常識で考えてわかるでしょ」という言葉などまるでナンセンスではないか、なんて思えてしまう。そうではない常識の持ち主は世界にゴマンといるかも知れないのだから──「常識だろ」というのは、ある意味思考停止用語と言えないだろうか。その常識とやら、たえず理論立てて証明してみて、なおかつ複数のモノサシで測ってみるという作業が必要かもしれない。世の中はこれだけ多様化、グローバル化してるのだから。