『仏の教え、お念仏に巡り合うということ』 | 浄土宗長福寺のブログ

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埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 さて、今月は、仏様の教え、お念仏の教えに巡り合うことについて見ていきたいと思います。

 

 法然上人の御法語に

無始よりこのかた六趣にめぐりし時も、かたちは替われども心は替わらずして、いろいろさまざまにつくりならいて候えば、いまもういういしからず、やすくはつくられ候え。念仏申して往生せばやとおもう事は、このたびはじめてわずかに聞き得たる事にて候えば、急とは信ぜられ候わぬなり。

【往生浄土用心・昭法全562】

 

訳:果てしない古の過去から今まで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界に生れ変わり死に変わりを繰り返していた間、その姿形は変わりはしても、心の本性は変わることなく、種々様々に罪を造り重ね、今となっては物馴れて、たやすく罪を造ってしまうのです。お念仏を称えて往生せよと言われても、永い時間を経た果てに、今ようやく初めてその教えを聞くことができたのですから、すぐに信じられないのも無理からぬことです。

【法然上人のご法語① 消息編 92P 浄土宗出版局】

 

 『六道輪廻』ろくどうりんねという言葉を一度は聞いたことがあるでしょうか。魂が、六つの世界を回っているというお話です。仏教では、この六道輪廻が原則としてあります。そのため、タイやチベットでは、地面を歩いているアリであっても、自分の亡くなった親かもしれないかもと、踏まないように慎重に歩きます。

 私たちは、幸運にも、天から数えて二番目の人として、この度は生を受けることができたのです。このことは、大海を泳ぐウミガメが、海を漂うきの切れ端に、ちょうどその顔が入るくらいの穴があり、ぴったりと息継ぎの時にその穴から顔を出すくらいの確率なのだそうです。

 しかし、私たちは、その生き死にの中で、たくさんの罪を犯してきました。今では、罪を犯すことに慣れてしまい、たやすく罪を犯してしまうのです。ですから、尊い仏様の教えに出会っても、この六道輪廻から離れ、阿弥陀様の極楽浄土に往生できるお念仏の教えに出会っても、なかなか信じられないのも仕方がないことであるのですと、法然上人が説かれています。

 古来より、日本は仏教国です。聖徳太子が制定された十七条の憲法より、仏教を国の道徳の基本としてきました。このことは大変ありがたいことで、現在の日本人の寛容の心にもつながってきます。

 ぜひ、仏教が身近にあるのですから、その仏教に触れ、その教えを見つめなしていただければ幸いです。

合掌