広島での仕事を終え、松山に戻った日、城山公園の桜が

咲いていました。

 

 

  ソメイヨシノではないと思いますが、もう桜の時期になりました。

春ですねぇ。

 

 

 松山での仕事は終盤きつかったです。

最終日、結局すべての仕事が終わったのは午後12時少し前でした。

晩ご飯も食べずによくがんばりました! 

ホテルに戻り、松山最後のコンビニのご飯を食べました。

「焼うどん」です。 ファミリーマートでいちばん多く購入したご飯です。

なかなか、おいしいですよ。

 

 

 2月29日 住み慣れた街ともお別れです。

午前9時半に県庁前を通過する「坊ちゃん電車」

 

 

 見上げればいつも、見えた「松山城」

 

 

 少し先の角にある「八股榎お袖大明神」

 

 

「大変お世話になりました」

「本日、私は江戸へ戻ります!」

 

 特急しおかぜの発車時刻は10時20分です。

最後に「きつねうどん 400円」と「とりの天ぷら 120円(だったかな?)」

をいただきました。

 

 

 こしがあり、なめらかなのどごしのこの松山の麺ともお別れです。

およそ、3か月間いるのでその間にポイントは制覇出来るだろうと思っていましたが

20回分のポイントまであと5個足りませんでした。 

 

 松山駅の改札を入った正面にこんなものが・・。

アンパンマンですね。 

 

 

 確か、週に1回 バイキンと闘っているはずです。 

どんな菌にも負けないのだろうか。

がんばってほしいです。 松山を守ってほしいです。

 

 昨日までは晴れていたのですが、この日は雨になりました。

雨だれが落ちる車窓を眺めながら、ぼんやりとこの3か月を反芻していました。

 

 

 「坊ちゃん電車」パンタグラフを出さないでなぜ走行出来るのか!?

坊ちゃん列車ミュージアムの存在を知り、さっそく行ってみました。

 

 

 

 けれどもそこは、スターバックスそのまんま。

(コーヒーを飲みながら「坊ちゃん列車」を見られます)

 


 

 常設展示はされていますが、誰か詳しい方がいるわけでもなくただ、

坊ちゃん列車が店内の端っこに置かれてあるというものでした。

 

 

 誰にも聞けません。

江戸にもどってから自分で調べました。

そうしたら・・。

 

 夢を壊したくない方、または知りたくない方は6行ほどすっ飛ばしてください。 

 

 駆動は軽油を燃料としてのディーゼルエンジンで走っている事が分かりました。

ちょうど八股榎お袖大明神の角を通過するときに、はしご状のパンタグラフの

ようなものを出しますが、これはパンタグラフではありません。

架線に取り付けられたトロリーコンタクターというセンサーの働きをするものに

パンタグラフ状の上部を接触させて電車の接近を検知させています。

そうすることで他の電車同様に進路変更を行うことが出来ます。

 

                                      (参考画像 wiki) 

 

 広島で知人と会えたことがうれしかったです。

知人の会社に行き、食堂でご飯を一緒に食べました。

 

 

 夜は居酒屋に連れて行ってくれました。

 

 

                (コイワシの刺身 おいしかった!)

 

                 (イカとタコのから揚げ おいしかった!)

 

                 (カキフライ ひとりで全部食べてしまった!)

 

                (鮮度の高い お刺身 おいしかった!)

 

  (富久長 広島 安芸津の今田酒造さんのお酒 口あたりがよく おいしいお酒でした!)

 

 別の日にまた、知人の会社に行きもうひとりの知人とも会うことが出来ました。

 

 

 この日は休みの日なのに、わざわざ来てくれました。

 

 

 何年も前に、3人で10日間ほど缶詰状態になり、この食堂でごはんを

食べて、一緒に仕事をしたことが昨日のように思い出されました。

 

 

 「また元気に会いましょう!」とハイタッチしてお別れしました。

 

 広島逓信病院へも行けました。

 

 

 

 この敷地の一角にある建物はかつて処置室や手術室があった建物です。

原爆投下後、ここの医師や看護士さんたちは連日、被爆により負傷した

方々の処置をひたすら続けました。

 

 

 

 もちろん、私はその現場にいたわけではありませんが、その当時の様子を

記録した映像を見て知っています。

私にとって、とても意味のある、そして思い入れのある建物です。

 

          (20200229 特急しおかぜから見えた瀬戸内海)

 

                  (20200229 瀬戸大橋を渡る)

 

 もう一度、松山城にも道後温泉にも行きたかった。

 

                   (20200227 城山公園 さくらと松山城)

 

                     (20200227 城山公園)

 

 がらーんとした感じの大きな通りの松山が心地よく思えるようになっていました。

食べ物は何を食べてもおいしかったです。

 

                 (20200229 新幹線 車内)

 

              (20200229 多摩川を渡り江戸へ)

 

                  (20200229 江戸)

 

 家に戻り、靴を脱いだら足元に短く枯れた芝が落ちていました。

松山の城山公園の芝でした。

なぜかしんみりしました。

 

 水槽のドジョウもメダカもクチボソも自動エサあげ器のおかげで

元気でした。  植物も枯れることなく元気でした。

 

 

 出張前に大家さんからいただいた、水仙の球根から芽がでていました。

大家さんが、フェンス越しにじょうろで水をかけてくれていたことを後日 知りました。

 

 3月1日 朝、洗濯をして天日に干しました。

カーテン越しに日差しが入ってきます。

洗濯ものが風に揺れて、日差しを受けています。

こんな、何でもないことがすごくうれしくて。

少しずつ自分の日常が戻っていることを実感しました。

 

 2日から仕事でした。松山にいる時よりもハードです。

でも、自分の家から仕事場に通えるだけ幸せなのかな。

帰り道 3か月ぶりにいつもの道を歩きます。

BoAさんの歌声が私の足取りを軽くしてくれます。

生き物はその環境に順応しようとします。

住めば都という言葉がありますが、もう少し、長く松山にいたら

私の日常の場所になっていたかもしれません。

 

                      (20200302 帰り道)

 

 私の日常、面白いか、面白くないかは別にして

私はごくありふれた普通の、 私の日常に戻りました。

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

                  (20200227 松山 城山公園にて)

 

 

 2月21日(金)

 

 

 車で1時間ほど走って、愛媛県の東よりの東予というエリアにある 西条市まで来ました。

 

 

 夕方までここでの仕事になります。

きれいな海が目の前に広がっていました。

 

 

 海が見える場所はいいですね。

天気も良くて気持ちのいい場所です。

 

 18時に松山に戻り、そのまま広島に移動しました。

今回は高速ジェット船、フェリーだと2時間45分かかりますが、

さすが高速船、1時間で到着します。

 

 

 広島での担当者と一緒だったので、お気楽に海を眺めることもなくカップ酒をひとつ

くれたのでそれを飲みながら、じゃこ天とおつまみを食べながら

ずっと話をしていました。

 

 

 仕事の話は一切なく、主に恋愛の相談でした。

私のアドバイスは果たして、ひとつの実を結ぶことになるのでしょうか??

うまくいかなかったら、どうしましょう?

まぁ、いいか・・よくないか。 

 

 

 半分残っていた広島での仕事を今回の滞在中で完全に終わらせます。

ちかれますな。

 

 

 前回、広島滞在中に出向くことは出来てはいたのですが、記事にしていない

内容がありました。

それは広島城です。

 

 

 広島城の別名は 鯉城(りじょう)です。

 

 

 

 広島城は天正17年(1589年)に一文字にみつ星の家紋の毛利輝元(てるもと)が

築城した城です。 

2年後の天正19年(1591年)に入城しました。

 

 

 その後、慶長5年(1600年)に福島正則が入城。

元和5年(1619年)に浅野長晟(ながあきら)が入城。

 

 昭和20年8月、原子爆弾により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべてが崩壊、焼失。

 

 昭和33年、現在の天守閣を再建しました。

 

 

 現在の表御門です。

きれいですね。 

平成元年の広島城 築城400年を記念して復元に着手して平成3年に完成したものです。

焼失後も残存した表御門の礎石の上に昔通りの工法で復元したものです。

軽く、昔通りの「工法」とか「復元」などと書いていますが、このことは実は

とんでもなく大変なことです。

 

 

 昔の工法を知らなければならないことだし、再現できる技術もなければならないし、

その元になる資料もなければ話は進められません。

 工法再現の技術は人から人へ受け継がれていなければ出来ないことです。

資料に関しては、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図

をもとにして、発掘調査の成果や明治から昭和にかけての写真を総合的に

検討して往時の姿をよみがえらせたのだそうです。

すごいことです。 

 

 

 

 広島城は印象として、力強さよりも美しさを感じます。

実戦的というよりも象徴的な面を意識して作られているように思えます。

 

 

 広島の地は歴史の中でもとても重要な場所として位置づけられてきました。

海に面しているので海運が古くから発達しているし、川もあるので荷物の

運搬や人の移動に利用できます。

当然、陸路も大きく発達してきました。

 

 

 こうした利便性の高い地に城を築くということは世に向けて

自分を最高の舞台で見せることになります。

この城は毛利輝元の力を証明する城です。

 

 

 お城の中は資料館となっています。

館内は基本、撮影禁止です。 

 

 

 

 入り口近くに置かれた大きなモニターで広島の歴史を映像で見ることが出来ます。

この内容が充実していてよかったです。

 

 

 現在の江波地区は元々は島だったことを知りました。

そこを埋め立てて陸にしたのですね。

巨大デルタ地帯、太田川の自然の力と人の力で陸地を広げました。

 

 

 路面電車の駅でいうと「中電前」の近くの交差点の角に神社があります。

白神社(しらかみしゃ)です。

 

 

 

 かつては城下町形成の時代、この白神社の場所に海岸線があったものと考えられています。

当時は船が岩礁に気づかずに座礁することもあり、岩の上に白い紙を立てたのだ

そうです。 

 

 

 

 この場所は三角州の発達の歴史をたどる意味でも貴重な場所となっています。

 

 

 

 広島城に戻りましょう。

広島城の敷地内に護国神社があります。

 

 

 この神社も広島城同様に原爆投下により崩壊しました。

 

 

 

 

 原爆投下後の様子を記録した写真の中に大きな鳥居が見えます。

向かって左端にドーム、右端に鳥居が見えています。

護国神社の鳥居です。

本殿が焼けて、焼失しても鳥居だけは残りました。

 

      ( 広島城天守閣より原爆ドーム方向を見る )

 

 現在の護国神社から少し離れた場所に大きな鳥居が置かれてあります。

この鳥居こそ、被爆後の写真に写っていた鳥居そのものです。

 

 

 鳥居は移設されて、この場所に佇んでいます。

熱線で焼かれた部分はただれてはいますが、それでも倒れることなく

立ち続けました。

 

 

 絶対に倒れません。

どんなことがあっても倒れません。

見えない数多くの人の力でこの鳥居は支えられています。

立ち続けます。

 

 

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

                                     (20200208 大会前日)

 

 2020年2月9日(日) 愛媛マラソンが開催されました。

エントリーしている方はアスリートエントリーで3000人、一般エントリーで7000人 だそうです。  合計 10000人が走るということになります。

実際にはもう少し参加人数が増えて10406人という数字がニュースで出ていました。

参加費用は1万円弱なので、この一日で1億円近くが動いたわけですね。

このイベントに参加するために遠方から来てホテルに泊まっている方もいるようです。

イベントが成功すればその土地の経済効果へ直結します。

この日、ホテルの料金も通常日の2倍から3倍近くの値段に跳ね上がりました。

びっくりです。

 

 

 そして当日 ものすごい人たちです。 

みなさん、気合が入っていますね。

今日は晴れの舞台です。 恰好いいですね! 

屋台も出ていました。

 

 

 

 もちろん、私は参加していません。

42.195キロ なんていう距離を走ったことがありません!!

スタート地点は県庁前、ゴール地点は城山公園内になっています。

 

 

 数日前から城山公園内でイベントの準備が進められていました。

簡易トイレを設置したり、簡易フェンスを立てたりと着々と準備は進んでいました。

 

 

 思い起こせば2019年の12月から、この城山公園の近辺を歩いていますが

走っている方々をよくみかけました。

あの方々はきっと、今 この場所に来ているはずです。

みなさん、偉いですね。 長距離を走るために自分の身体を鍛えぬいて

コツコツと努力を積み上げてきたわけです。

それは自分の筋肉となり、強い精神力となり、力強い身体に変化したはずです。

 

 

 私は今までマラソンとか駅伝をまじかに見たことはありませんでした。

仕事の関係者も参加しているはずです。

 走るコースをネットで調べてみると海の近くまで行くようです。

きっと、きれいな景色があるはずです。

風は冷たいですが、天気はいいです。

ちょっと行ってみますか。

 

 正式なスタート時間は午前10時です。

17分前の9時43分 私は勝手にスタートしました。(非公認)

 

 

 スタートと言っても私はコーズにも出られないので沿道をトコトコ

歩いて行きます。

行けるところまで行って、疲れたら戻ってきましょう。

 

 

 10時07分  先頭ランナーが通過していきました。

私が24分かけて歩いた地点までたったの7分で走ってきたことになります。

速いですね。

 

 

 その後、たくさんのランナーが通過していきます。

応援している方々も多いです。

同じ会社の方や家族、病院から車いすで応援に駆け付けている方々など

みなさん、懸命に応援しています。

 

 

 このあたりで5キロ地点ですね。

 

 ランナーのみなさんもこの辺りから歩いている人を見かけるようになりました。

始めのしんどい距離になるのでしょう。

 

 

 

 途中、ボウリング場や、「坊ちゃんだんご」の製造会社などを見かけました。

「そうか、この辺にあったのか・・」

 

 

 知らない土地を歩くと、それなりに発見があって面白いですね。

 

 給水所でのサポートなどもランナーの安全管理に対して万全な

準備が施されています。 

 

 

 

 およそ10キロ地点ですね。 

 

 

 大谷トンネルです。 

 

 

 最終走者が来るとアナウンスしながら車が近づいてきました。

 

 そして、やがて時間切れで強制的に走ることをやめさせられていきます。

エントリーすればどれだけ時間をかけてもゴールすることが出来るという

わけではないのですね。

 

 運営側にも事情があるでしょうし、走者にとってもストップをかけられた

方が身体的に負担が軽く済むはずです。

倒れられてもみんなが困りますからね。

優しさと厳しさの両方の意味を持った判断なのですね。

こういう現場はテレビの中継では映ることはありません。

貴重な瞬間を見ているのだなぁと思いながら歩き続けます。

 

 

 

 住宅の横でレモン栽培をしている畑を見つけました。

瀬戸内海は温暖な気候です。

冬でも過ごしやすい地域なのですね。

 

 

 途中、畑に置かれた(捨てられた?)ボートがこの近くに海があることを

示しています。

 

 

 海が近くに見えています。

瀬戸内海が見えるところまで歩いて来たのだなぁとちょっと感慨深く

なります。

 

 

            (20191213   松山城天守閣広場より)

 

 

 

 反対側の車線では折り返してきたランナーが次々と走っていきます。

 

 お腹が空いてきました。

「おっ、うどん屋さんの看板があるじゃないか」

 

 

 肉うどんと鳥の天ぷらを食べました。(非公認)

店内のテレビではすでにゴールした方々の様子が映し出されていました。

速いですね。 

 

 

 

 ここでのうどんは松山駅構内で食べるものよりもほんの少し麺が

太く感じました。  おいしいうどんです。

 

 

 

 その後も沿道をトコトコ歩き続けますが、コースは18キロくらいの地点

北条の北中前交差点から海沿いから外れます。

内陸部を通り、またこの道に戻ってくるコースになっています。

 

 

 

 両方の足の裏が痛くなってきました。

こんなことでは、明日からの仕事に影響します。

 

 

 それ以上に問題なのは、ボウリングができなくなってしまいます。(そ、そっち!?)

後はほぼ、同じコースを戻るだけなので近くの「光洋台」の駅に向かい

電車で松山まで戻ることにしました。 

 

 

 

 最終尾についたパトカーと白バイの後方から交通規制が解除されます。 

 

 

 だんだんと、道路からマラソン色は薄れていき通常の道路になっていきます。

 

 

 

 

 2020年、愛媛マラソン 

沿道からの 自主参加 → 棄権 という結果でした。(非公認)

 

 

 

 

 

                    (20200209 松山駅)

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 2020年2月3日 広島での仕事を半分終えて、松山に戻ります。

また船に乗り瀬戸内海を渡るのですが、広島から松山へ直行して戻るのはもったいない

気がしたので呉で寄り道をしてから戻ることにしました。

 

 朝、広島のホテルをチェックアウトします。

 

 

 路面電車で「中電前」から広島駅まで行きます。(190円 パスモにて)

 

 

 

 広島から在来線で呉を目指します。

初めて乗る路線です。

 

 

 バスでも行けますがなんとなく電車を選択しました。

 

 

 進行方向、左手には急峻な山の斜面が見え続けています。

そこにたくさんの住宅が見えます。

 

 

 

 「呉ポートピア駅」を通過し、天応地区に入りました。

このあたりは2018年の西日本豪雨の際に土砂崩れが起きた場所です。

 

 

 

 道路は閉ざされ、一時期 陸の孤島状態になりました。

約300棟の住宅が全半壊しました。

山の斜面にはまだその傷あとが確認できました。

水が浸み込むと崩れやすくなる「真砂土」という土壌であるために災害が

大きくなったと言われています。

自然災害による被災は悲痛です。

自分の愛する故郷に裏切られた気持ちになります。

地球が活動を続けている限り、起こりえる避けられないこととして

受け止めなければならないのでしょうか。

復興計画の中に災害公営住宅の建設が予定されています。

安心して生活できる日常が早く戻ることを願います。

 

 

 呉駅に到着しました。

 

 

 

 駅の前に巨大なスクリューが置かれてあります。

そうです、ここは日本を代表する造船の町です。

 

 

 通りの向こうに巨大な潜水艦が見えています。

潜水艦「あきしお」です。  

 

 

 

本物の陸上展示です。 その大きさに驚きます。

ここは「てつのくじら館」海上自衛隊呉史料館です。 入館料は無料です。

 

 

 海上自衛隊の歴史や掃海艇の活動、潜水艦「あきしお」の内部を見学できます。

 

 

 面白くわかりやすかったのは艦内の狭さを体験できたことでした。

 

 

 

 

 潜水艦の中にいると時間の感覚が分からなくなります。

体内時計を維持させるために昼は明るいライト、夜は赤いライトにしているのだそうです。

 

 

 

 

 

 

 また、曜日の感覚を保つために金曜日はカレーと決まっています。

 

 

             艦長の牛ステーキ海軍カレーライス  1550円 

 

                       (江田島へ向かう船)

 

 

 その後は、呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」へ行きました。

入館料 大人500円 ロッカー使用料‐100円(使用後100円は返却されます)

 

 

 

 ここには戦艦大和(10分の1スケール)が展示されています。

実物はこの十倍あると思うとちょっと自分のスケール感覚がおかしくなります。 

 

 

                                   (戦艦大和 wiki)

 

 戦艦大和 全長 263m あります。

1940年(昭和15年)進水  1945年(昭和20年4月7日)沈没 

不沈戦艦のはずの大和は海の底にあります。

艦載砲としては史上最大の46センチ砲を9門搭載してはいましたが

一度も使われていません。

 

 

 船の建造の歴史を見ながら、日本の技術の高さに対して誇りは感じますが

と、同時に どこか虚しさを感じます。

これらの事実を記録して保存していく使命もあるのだなと考えながら

大和ミュージアムを後にしました。

 

                           (呉中央桟橋ターミナル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 原爆ドームの前に立ちます。

相手は建物なので、何も語りはしませんが熱線と爆風を受け

焼けただれ湾曲した鉄筋やコンクリートの壁の一部が

時間を越えて、眼を向けるすべての人に何かを伝えてきます。

 

 

 

 1945年8月6日 午前8時15分  

原子爆弾は広島上空、投下目標の相生橋から少しずれた場所の上空600mで

核分裂爆発しました。

 

 

 

 

 

 

 

 熱線と爆風が一瞬にして走り、たちまち街は火の手に覆い尽くされました。

と同時に初期放射線が街に降り注ぎます。

 

 

 建物は砕け散り、人の身体は焼け、何が起きたのか分からないまま

命は途絶え、かろうじて生き延びた人も重く深い傷を背負ってしまいました。

 

 

               歪んだ橋の鉄筋 

 

                  熱線で焼けた墓石  

 

      銀行の前の石段に座っていた方の影がそのままの形で残っている

 

 

 原子爆弾が落とされる直前まで、いつもと変わらない日常がそこにありました。

ひとつの出来事がすべてを変えてしまいます。

 

 

 そして、その後の長い時間 人を苦しめます。

その苦しみは、今日、この日も続いています。

終わらない苦しみ。 

それは人類の悲しみです。 

 

          3人の子供たちの制服を1体の人形が身につけている

 

 激しい苦痛の中で絶える命。

絶望の中で生きた命。 看取る命。

どんな状況の中でも人は「生きて」きました。

生きなければならないと思い、生きてきました。

 

         お弁当の中のごはんは焼けて真っ黒になっている

 

 でも、そんな思いをしなくても済む選択肢もあったのです。

原子爆弾をつくらないこと、原子爆弾を使用しないこと。 

 

 

 人類がこの地球で生きていて、社会規範が生まれ、多くの地域では

自由に生きることが許されてはいますが、自分自身が生きていく以上

人の人生を遮ったり、邪魔をしてはいけません。

 

 

 世界で唯一、被爆した国が、今度は自国の中で原発事故が起きました。

電気の力に頼らなければならない社会であれば、どのように電気を作るのか

それが安全なのか危険なものなのか。

何度も繰り返し考える必要があります。

 

 

 答えを出していくのは結局、自分です。

 

 

 人は生きていかなければなりません。

どんな苦しみがあったとしても人は生きていかなければなりません。

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 2020年1月19日 移動日でした。

松山から広島に来ています。

 

 今日は2020年1月26日、あっという間に1週間が経ちました。

なーんにも時間がとれなくて、なーんにもできていません。

(仕事は出来ているのでそれでいいのかな、かな、かな)

ホテルの近くのコンビニで「広島のお好み焼き」を見つけました。

 

                          (20200126)

 

 今、自分が広島にいることを少し実感できました・・。

「なぜ、ここまでこのソースは甘いのだろう」

「甘いな」「やっぱり甘い」「なぜ、ここまで甘いのだろう」「甘い」

 

                 (20200126 久し振りの広島お好み焼きでした。)

 

「岡山まで行って広島へ行くのかなぁ」と思っていたら

船で行けることを教えられました。

「なるほど!瀬戸内海を船で渡ればいいんだ!」

船での移動は滅多にないことです。 

「楽しみです!」

 

                       (20200119 大手町駅)

 

 伊予鉄で松山市内「大手町駅」から「松山観光港」を目指します。

30分くらいだったかな?

 

                    (20200118 高浜駅 近く)

 

 「高浜駅」で一度下車して今度はバスに乗り換えます。

 

                                   (20200119)

 

 そして、数分で目的地の「松山観光港」です。

バス代込みで運賃は470円でした。

 

                         (20200119)

 

 広島へはフェリーで行くことにしました。

高速ジェット船もありますが、それほど急ぐ旅でもありません。

 

                (20200119 松山観光港 ターミナル)

 

 のんびり行った方が運賃も安く済みます。 大人片道 3670円。

11時05分 出航で呉経由 広島で 13時45分の到着予定です。

 

                        (20200119)

 

                

                            (20200119)

 

 人だけではなく、車も運べる船なのでそこそこ大きいです。

船内の空間はゆったりとしています。 

 

 

                           (20200119)

 

 座席、横になれるスペース、大きめのテーブル付きの座席など

利用者の好みに対応した座席が用意されています。

始めは「ずいぶんゆっくりと進む船だなぁ」などと思えるのですが

甲板に出て潮風にあたりつつ、船の航跡を見ると実際に出ている

スピードを体感できます。

「速い!」

 

                           (20200119)

 松山から離れていきます。

大海原に出るわけではないので、視界のどこかには常に島が眼に入ります。

航路は「瀬戸」の中を進んでいるようです。

 

    (20200119 スクリーンショット)

 

 瀬戸内海には島が集中しているエリア「瀬戸」とそうではないエリア「灘」

があります。 

2種類のエリアが交互に並ぶように瀬戸内海を構成しています。

とても面白い地形だと思います。

 

 

 地殻変動の成せる業です。

四国を縦断している「中央構造線」この断層が300万年前に横ずれを

起こしたことで瀬戸内海は生まれたと言われています。

 

 

                        (20200119)

 

 元々は海が存在していなかった場所なのに、300万年経った今、私たちは船で

移動しているわけですね。 

 

                 (20200119)

 

 船は島と島の間を抜けるように進みます。

呉港に入ります。

海上自衛隊の船が見えます。  

 

                     (20200119 呉港)

 建造中のタンカーも見えました。

普段の生活では見ることの出来ない光景です。

 

                        (20200119)

 

 呉港を出航してからは右手に広島の沿岸部を見ながら進みます。


 

 

 呉を過ぎると広島はもう目の前です。

 

    (20200119 スクリーンショット)

 

 

                  (20200119 広島港 ターミナル)

 13時45分に予定通りに到着しました。

 

           (20200119 ターミナル内で食べた 肉うどん 麺が丸い)

 

 ホテルにチェックインしてすぐに平和記念資料館へ向かいました。

 

                            (20200119)

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 2020年1月18日(土) 松山に来て以来、初めて丸1日休めました。

さぁ、ほっつき歩きましょう!

 

                                     (20200118 松山城)

 

 天気もよかったので、散歩がてら松山城に行きます。

ここに来るのは3回目になります。

標高132メートルの勝山に築かれた要塞です。

天守閣のある広場の梅がきれいな花を咲かせていました。

もう、梅が咲く季節なのですね。

あっという間に時間が過ぎたように思います。

 

                       (20200118 松山城)

 

 昼ご飯は「すだちラーメン」を食べに行きました。

松山市内で食べられる所を見つけました。

松山総合公園の近くでした。

 

                        (20200118 りょう花さん)

 

「りょう花」さんというラーメン屋さんです。

ラーメンにすだちが入っています。

柑橘系とラーメン、私の頭の中ではうまく結びつきません。

本当においしい味になるのだろうか?

楽しみにしてすだちラーメンが目の前に現れるのを待ちました。

「来た! こ、これがすだちラーメンなのか!!」

 

                         (20200118 すだちラーメン)

 

 ブログ上のお友だちがおいしいと知らせてくれたラーメンです。

今、食べておかないと一生 食べられないかもしれないのです。

気合を入れて、まずスープを一口・・。

「なんだ、このサッパリ感は!」 不思議な味でした。

今までの人生で知らない味を口にしました。

鶏の水炊きのスープにスパイス多め、仕上げは塩ラーメン風にして

あとはすだちで全体を引き締めている感じです。

 

                    (20200118 すだち塩ラーメン すだち2.5個 使用)

 

 ラーメンなのにサッパリしているぞ。

柑橘系が身体に入ると健康になっていくような気になります。

すだちは徳島県の特産品と書かれていました。

四国のご当地ラーメン、おいしくいただきました!

 

                (20200118 ファーストボウル)

 

 その後は2020年初のボウリングです。

スコアは140ちょっとでした。

 

                (20200118 ファーストボウル)

 

 ガターが出なかった分少しはマシかなぁ。

3ゲーム、右手で投球しました。   

やっぱり へなちょこであることに変わりはないですね。

 

                      (20200118 道後温泉)

 

 その後は道後温泉へ。

4回目になります。 本館に入りました。

 

               (20200118 道後温泉 本館)

 

         (20200118 道後温泉 プロジェクションマッピング中) 

 

 年末は40分待ちの賑わいでしたが平日はそれほど混まないようです。

すんなりと入れました。

で、4回目にして気が付いたことがありました。

 

                 (20200118 道後温泉 商店街)

 

 それは道後温泉へ向かう商店街の途中にある細い路地の先に

「射的」があったことでした。

 

                (20200118 道後温泉 射的)

 

 温泉街の名残りなのでしょうか。

うれしくなり、ついつい入りました。

 

                   (20200118 道後温泉 射的)

 

            (20200118 道後温泉 射的)

 

 可愛いキューピーさんが見えたので闘志がわいたのですが、

中に入って話を聞くとポイント制で大・中・小のキューピーさんに当てれば

それに応じたポイントが手に入り、その総合点で用意された景品を手に出来る

というシステムでした。

 

                   (20200118 道後温泉 射的)

 

 一気にテンションが下がりましたが、挑戦しました。

5個の弾で300円です。

結果、1回も当たりませんでした! 

1回づつ狙う位置を調整しながら5回撃ったのですが・・。

うーん、難しいです!! 

ボウリング同様、へなちょこでした! 

 

             (20200118 何度か通ったスーパー) 

 

 夕食は大きめのスーパー内で済ませました。

スーパーのイートインを利用するのも2回目です。

新鮮なお刺身を食べたくなった時にこんなことをします。

 

            (20200118 スーパー店内 イートインコーナーにて)

 

 鯛めしのおにぎりはうれしかったです。

鯛めしを食べたかったのです。

マグロの中とろ、口の中でとろけました。

おいしいなぁ。

 

      (20200118 本マグロ 中トロ マグロ イカ カンパチの刺身)

 

 ジャコカツもおいしいです。

みかんが無性に食べたくなり、袋のものを買いました。

 

 とても充実した一日でした。

 

        (20200118 すだちラーメンを食べた後 松山に江戸を見た)

 

                 (20200118 松山市南江戸にて)

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 2019年12月30日、私は松山での仕事から一時的に解放され

江戸に戻りました。

 

                              (20191230 今治の辺り)

 

 特急しおかぜ号の窓からまじかに見える海に解放感を感じ、

さらに瀬戸大橋を渡りつつ、本州に入れる喜びをかみしめ・・。

 

                          (20191230 瀬戸大橋)

 

 年が明けた2020年1月4日 山手線に乗り、上野を目指します。

「鶯谷(うぐいすだに)駅」生まれて初めて下りる駅です。

 

                                             (20200104 鶯谷駅)

 

 「す、すごい!」 (何がすごいのか!?)

眼に入る建物のほとんどがホテルです。

みごとです。 

 

                    (20200104 鶯谷駅より)

 

 前回の記事では、2019年12月に松山で「八股榎お袖大明神」のことを知り

そして、「俳人 正岡子規とのつながりを知った」というところまで書いています。

 

       (正岡子規) wiki

 

 「俳人 正岡子規」 誰もが知っている名前だと思います。

国語の教科書に登場していました。 日本を代表する文人だということです。

頭に浮かぶ俳句は何でしょう?

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」でしょうか。

(この句は療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた夏目漱石作の

「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句と言われています)

 

「松山や 秋より高き 天守閣」

 

                          (20191213 松山城)

「春や昔 十五万石の 城下哉」

 

                        (20200113 松山駅 交番の前)

 

 短歌でいえば

「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」

「松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く」

「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」

 

 短歌の方が写生的に描かれている情報が多いのでイメージしやすい感じです。

なんか、文学しているなぁという気持ちになりますね。

情景が描かれて、心象が重なるとそこに3次元的な世界が出現します。

作者の真意は細部までは理解出来ませんが、おおまかな道筋に沿い

似たような世界を文章から描き出すことができます。

文学って深いなぁ。

 

 正岡 子規は慶応3年(1867年)9月に伊予国温泉郡藤原新町(現 愛媛県松山市花園町) 

で生を受けます。

 

 そして、明治35年(1902年)9月 その生涯を閉じました。

34歳という若さでした。

死を迎える7年間は結核で身体を動かすのもやっとという状態だったそうです。

二十歳のころに、初めての喀血をし、日清戦争へ従軍記者として戦地に赴き

帰りの船の中でもひどい喀血をし、重体に陥り、鳴いて血を吐くと言われる

「ホトトギス」に自分を重ね、そこからホトトギスの漢字表記を使い

俳号を「子規」(子規 = ホトトギス)としたのだそうです。

 

 病床にあっても子規は片時も俳句や短歌から離れませんでした。

子規が生涯 残した俳句は20万を超えると伝えられています。

 

                           (20200104 鶯谷) 

 

 子規は明治27年から東京上野東根岸に移り住みました。

「子規庵」です。

 

               (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

 故郷から母と妹を呼び寄せて子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として多くの

友人や門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。

 

                       (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

  

           (20200104 東京 根岸 子規庵 休庵のため入れませんでした)

 

 子規庵にはこじんまりとした庭があり、子規のこころはこの庭で自由に

駆け巡ります。

 

                   (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

 土があり、石があり、草があり、花があり、虫たちが飛び交い、小鳥が歌い

見上げればそこには季節の空が広がっていました。

 

                  (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

 子規にとって、その庭はとても重要でその庭を入り口として、その奥に

果てしない世界が広がっていたのです。

 

「山吹も 菜の花も 咲く小庭哉」

 

「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」

 

 子規にとってこの庭は創造の源だったと考えられます。

病床に伏したまま、じっと庭に眼を向けていたのです。

 

「いくたびも雪の深さを尋ねけり」

病床から庭に眼を向けても、雪の深さを知ることは出来ず、

母と妹に繰り返し尋ねている様子が想像できます。

 

 弟子の高浜虚子(たかはまきよし)は子規が亡くなる3年前(明治32年)に

ガラス障子を子規庵に設置します。 

子規が床の上からでも庭が見えるようにという配慮からです。

 

「糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな」

 

              (20200104 東京 根岸 子規庵  ヘチマが見えます)

 

 子規の絶筆の三句のうちのひとつです。

ヘチマは子規が結核の薬にしていた植物です。 

ヘチマの花が咲いたけど、自分は痰がつまり、もはや仏になろうとしている

自分にはこの薬は間に合わない。

最期の最期まで、自分の命が尽きようとしていても文学に向き合っていました。

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」

「をととひのへちまの水も取らざりき」

 

 3つの句を書き上げた瞬間、筆を落として倒れこんだと伝えられています。

 

 数多くある子規の俳句の中に題材が狸のものがいくつかあります。

「若殿が 狸寝入の 寒さ哉」

「夕立や 穴に逃込む 豆狸」

「狸死に 狐留守なり 秋の風」

「古家や 狸石打つ 落葉の夜」

 

                        (20200113 松山)

 

 その中には明らかに松山の「八股榎お袖大明神」のお袖狸のことが書かれて

あるものが存在しています。

 

                (20200113 八股榎お袖大明神)

 

                  (20200113 八股榎お袖大明神)

 

「餅あげて狸を肥る枯榎 紙の職に春雨ぞ降る」

「百歳の狸すむてう八股の ちまたの榎いまあるやなしや」

 

            (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 子規にとって、狸の存在は「望郷」そのものであったはずです。

狸を通して、自分自身の心情を文字に刻んだのだと思います。

病床で常に故郷を想い、勝山を見上げ、グラウンドで白球を追い、列車が走り

子規の魂は東京 根岸と故郷の松山との間を

行ったり、来たりしていたと考えられるのです。

 

          (20200113 八股榎お袖大明神) 

 

「十年の汗を道後のゆに洗へ」

 

                  (20191228 道後温泉 本館)

 

 明治29年(1896年)7月に療養のために一時帰省する際に作った句です。 

夏目漱石と「愚陀佛庵」で52日間の共同生活を送ります。

 

                   (20200114 坊ちゃん電車 県庁前)

 

 子規と夏目漱石はマッチ箱のような坊ちゃん列車に乗り込んで道後温泉へ

向かったかもしれません。

そして、2人の姿を八股榎の上からお袖狸はみていたはずです。

 

              (20200113 八股榎お袖大明神)

 

       (20200113 八股榎お袖大明神 榎の木)

 

 人に愛されて、尊敬もされた正岡子規。

子規の文学革新運動は夏目漱石、河東碧梧桐、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節たち

により受け継がれ、その後の文学界に大きな影響を与えました。

 

       (松山 勝山の登城道の途中で採取した砂岩)

 

    (20200104 子規庵 勝山で採取したピラミッド型の砂岩と子規庵の小石)

 

 東京 根岸の子規庵には松山城のある勝山の中腹の断層から採取した

ピラミッド型の砂岩を置きました。

 

        (20200104 子規庵 画面中央 ピラミッド型の砂岩を置いた) 

 

                       (20200105)

 

                         (20200105)

 

 松山の「八股榎お袖大明神」には子規庵の敷地内にあった

小石を持参してお参りしました。

 

                           (20200113 八股榎お袖大明神)

 

           (20200113 八股榎お袖大明神)

 

                   (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 初めてこの場所に入りましたが、妙にこころが落ち着きました。

なぜかはわかりません。 

 

                (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 腰掛に座りながら、小一時間この場所でぼんやりと過ごしました。

そして帰り際、東京・根岸の子規庵から持参した小石を傍らに埋めました。

 

                  (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 この2つの点により東京 根岸の子規庵と松山は直線で結ばれます。

 

 

 狸が駆け巡った勝山の砂岩、子規が力強く生きた子規庵の小石。

互いに強く引き寄せ合うはずです。

子規の魂が狸を想う瞬間に、目の前には松山の光景が広がるはずです。

 

「卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)」 

 

                     (20191213 松山城より)

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

参照 伊予たぬき学会

 

 

 

 

                         (20191210 城山公園 お堀)

 

 八股榎お袖大明神

「やつまたえのき おそで だいみょうじん」と読みます。

城山公園の周りの堀、東堀端と南堀端の角にその社はあります。

私が2019年12月1日に松山に入り、駅から歩いてホテルに向かう途中に見て

おもわず足を止めた社です。 

 

                       (20191210 城山公園 お堀)

 

 18時前でしたが、あたりは暗闇に飲みこまれつつありました。

スマホの地図で確認しつつ、お堀沿いに歩き 目的地のホテルを目指していました。

大きな道沿いの歩道とはいえ、お堀沿いの歩道はそれほどの明るさはありません。

遠くからも、その場所に何かあることは確認できていました。

近づくにつれ、何か得体の知れないものを感じます。

 

                   (20191210 城山公園 お堀と 松山城)

 

 そこから放たれている ある種の「異様さ」を感じていました。

うす暗い闇の中に赤い幟が見えています。

それに、幾重にも重なった鳥居が見えました。

はじめはどこかの神社から持ってきた鳥居をここにまとめて置いてあるのだろうかと

思いました。

 

      (20191210 城山公園 お堀  八股榎お袖大明神 裏側より見る)

 

 しかし、どうも様子が違います。

社の正面に立ち、目の前を見ます。

急な石段を下りた先に祠が見えました。

 

 

                   (20191210 八股榎お袖大明神 正面)

 

 「何だろう 八股榎?」 薄明りの中で供物が見えました。

もっと近づけばよく見えるのでしょうが、あたりは暗く、まったくの独りで

異様さを感じる場所で、どんどん奥に入っていく勇気はありません。

初めての土地だし、この場所について何の情報も持っていないのです。

 

          (20191210 八股榎お袖大明神 正面)

 

 まるでこの場所から異界の口がぱっと開いているかのようにすら思えました。

自分のこころのどこかで、自分の行動を止めさせるもうひとりの自分がいます。

「やめた方がいい」「カメラも向けない方がいい」

自分に言い聞かせ、写真を1枚も撮らないまま その日はホテルに向かいました。

 

 仕事が忙しくなり、しばらくはこの「八股榎お袖大明神」のことは頭から離れていました。

でも、何の気なしにあの日に見た光景が頭に浮かびます。

「なぜだろう? 気になる・・」

 

                            (城山公園 松山城)

 

 ホテルから仕事場への道は、その社の場所を通らずに城山公園の中を歩きます。

それでも、何の脈絡もなくふっと、頭に浮かぶ時がありました。

「ちょっと行ってみるか・・」

仕事の帰り道に近づいて見てみました。

 

                             (城山公園 お堀)       

 

 石段を下りようとしたその時、動く人影らしきものが見えました。

ぞっとしました。

「うそだろっ! こんな夜に人がお参りしているのか?」

恐怖感が募り、また中に入ることは出来ませんでした。

あたふたしながら、周りを見ると傍らに自転車が1台止められていました。

「自転車でここに来た人なのか?」 

今、見たものは普通の人でありますようにと思いながらホテルに戻りました。

私は臆病者です。 ひょっとしたら、この世の中には祟りとか呪いとか科学では

証明できないものがあるのではないかと思っているふしもあります。

であれば、なるべく接したいとは思わないのです。

安全第一、健康第一、火の用心で100年ほど生きて十万億土先にあるといわれる

冥途へ旅立つ予定なのです。

それまでは、元気にしていたいのです。

 

                           (城山公園 松山城)

 

 で、その社をネットで検索してみました。

         (初めからそうしろよ!)

「ほほーっ、なーるほど そうだったのか・・」

恐怖感を抱くものではないことがわかりました。

 

 八股榎お袖大明神 要はお袖狸と言われる雌狸が祀られているものでした。

歴史は古く、文政13年(1830年)頃にさかのぼります。

 

                    (お袖狸? イメージ フリー素材)

 

 雌狸がお堀の端に植えられた榎の大木に移り住んだのが始まりのようです。

狸はこの大木に登り人の往来を見るのが好きだったようです。

一説には美男子を見るためという説もあるようです。

このお袖狸は神通力を持っていて道祖神になりすまし徐々に信仰を集めるようになり

有名になったそうです。

 

 商売繁盛・縁談・病気平癒などあらゆる願掛けにご利益があるとされています。

 

                   (お袖狸? イメージ フリー素材)

 

 190年ほどの歴史がある八股榎お袖大明神ですが、この時代まで平穏無事に、

過ごしてきたわけではないようで、今まで何度か消滅の危機があったそうです。

明治5年(1872年)県の命令で榎が伐られ県庁の薪にされる。

お袖狸は一時、お堀端から離れます。

明治44年(1911年)松山電機軌道の路面電車開業に伴い、祠があった大木の榎が

伐られる。

この時は勝山町にある六角堂に合祀という形で移転するものの、いつしかまた

お堀端にある別の榎の木下に祠が建てられる。

昭和9年(1934年)に伊予鉄道の複線化でまた榎の木が切り倒されることになります。

しかし、この時、不思議なことが起こります。

作業する者がケガをしたり病気になったりして一向にはかどらなくなりました。

お袖狸の祟りと言われはじめ遂には松山歩兵第22連隊の憲兵隊が乗り出すも

結局、病人が続出して撤退してしまいます。

 

 そこでお袖狸の信仰者が伐採ではなく移植する案を出して実行し

榎の大木は石井村の喜福寺へ移されます。

しかし、古い木だったということもあり、枯死してしまいます。

これでまたお袖狸は行き場を失います。

 

 その翌年、不思議な噂話が松山の町を駆け巡ります。

予讃線の伊予大井駅(現在の大西駅)に一人の女学生が降り立ちます。

それが、なぜかお袖狸が化けたものであるという話になったり、

小西村(現在の今治市大西町)にある明堂に鎮座したという話にもなり、

これが評判になり明堂には連日参拝者が集うことになります。

 

 そして戦後になり、いつの間にかお堀端の榎の下にまた、お袖狸の祠ができます。

昭和31年(1956)檜造りの立派な祠が完成します。

さらに平成26年(2014)には八股榎お袖大明神奉賛会が発足して、根強く信仰を

集めているのです。  

 

 

 幾度となく消滅の危機にさらされつつも、現代までお袖狸への信仰は

健在です。

お袖狸へ願掛けすると願いが叶うのでしょう。

土地の方々のそうした気持ちに支えられ、人と共にお袖狸も生きてきました。

 

                        (城山公園 お堀と松山城)

 

 人と狸、この場所に限らずとても距離の近い関係だと思います。

狸は動物の中でも擬人化しやすく、人間の勝手な先入観や感情移入

に応えてくれる存在だと思います。

確実なコミュニケーションがとれない分、余計に人との距離が縮むということも

考えられます。

 

                   (八股榎お袖大明神 裏側より)

 

 お袖狸は元々、松山城がある勝山で生息していた狸だと伝えられています。

森の中だけでは物足りず、里に下りてきたのでしょうか。

 

 八股榎お袖大明神に関連する資料や文献などに眼を通しているうちに

ある興味深いことを知りました。

 

 それは、俳人 正岡子規とのつながりでした。

 

 その情報が、私の行動に影響することになりました。

 

 次の記事へ続く予定です・・。

 

  参照 wiki 

 

  最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

                                                                       (20181125)

 

 表題のこの試験、私 過去に2度も「不合格」になっています!

そして、昨年の2019年11月24日(日)は3度目の受験の日でした。

 

                                                             (20191124)

 

 私の過去記事の中で繰り返し読まれているもののひとつに

資格取得の記事があります。

(あまり参考にならないと思いますが・・)

ブログを運営されている方は自分磨きを含めて積極的な方たちが

多いのだろうなと感じています。

備忘録も兼ねて「乙種第4類 消防設備士 国家試験」について記録しておきます。

 

 

 2019年12月24日(火)12時に一般財団法人 消防試験研究センターのHPにて

合格発表があり、ネットで合格を知りました。

 

       (20191224 携帯画面のスクリーンショット)

 

 12月30日に松山から江戸に戻り自宅郵便受けに投函されていた合格通知で

本当に合格していたことを確認しすぐに免状申請の準備を済ませました。

(合格通知書の右側が免状申請書になっています)

2020年2月の始めに免状が交付される予定です。

 以下 合格までのまとめです。

 

 

 「消防設備士国家資格」というのはあまり聞いた事がないかもしれませんが

要するに消防設備(4類は自動火災報知設備など)の工事や点検・整備の

仕事をすることを国から許されている資格です。

特殊、甲種と乙種に分かれていて乙種は点検・整備ができます。

 

 比較的、この資格取得は容易という事になっていますが合格率は最近では

30パーセントです。  10人のうち7人が不合格になります。

 (私は2度もその7人の枠に入ったのです!― クッ 泣)

 

 今回の道のりは遠く長かったです。(単に自分の努力が足りなかっただけですが)

1回目の受験は2018年11月25日(日)でした。  

 

                                              (20181125)

 

                                                                       (20181125)

 

           受験費用 ①  3800円 /     小計 3800円 

 

1回目 試験結果 

筆記試験 法令(70%)基礎知識(80%)構造・機能(86%)

実技   記述試験 (50%)    

 

 

 結果は実技の記述試験で及第点に及ばず不合格。

自信満々で試験に臨んだのですけどね・・。 

 

 

 合格ラインは 各試験項目の40% 以上の正解で全体で60%以上が合格ライン。

実技の記述試験に関しては5問出題されて、合格ラインは60%以上です。

乙種の試験に製図はありません。

試験時間は1時間45分です。

 

                                                     (20190531 図書館にて)

 

 2回目の受験は2019年6月1日(土) 前回の雪辱を果たすべく図書館に引き込もり

結構、がんばった(つもり)のでしたが・・。

 

                                                  (20190601)

 

          受験費用 ②  3800円 /  計 7600円 

 

 

2回目 試験結果 

筆記試験 法令(50%)基礎知識(80%)構造・機能(80%)

実技   記述試験 (55%)    

不合格 

 

 

 これまた、実技の記述試験の点数が足りず不合格!

 

 

 「なんで不合格になるのかなぁ」

自分のことは薄々「イカレポンチ」であることは自覚していたのですが、ここまで

「ポンコツ」だとは思っていませんでした。

 

 

 でも、冷静に分析すると確実に不合格になる理由がありました。

実技試験の「鑑別」の問題では消防設備の感知器や設置工事や整備で使用する工具などの

写真が出て「この感知器の名称はなにか?」とか「作動原理は?」などといった

問題が出てそれに選択ではなく、記述形式で答えるわけなのですが、この問題そのものの

写真が見たことのない知らないものが出てくるのです! 

 

 

 生まれて初めて見たものの「名前や作動原理」など説明できるわけがありません。

人間社会に例えれば初対面の方のフルネームの名前や生年月日、家族構成などを

いうのと同じようなものです。 わかるわけがありません!

 

 「なんで見たこともないようなものが問題にでてくるのだろう?」

「おかしな事もあるものだなぁ」と思い使用していたテキストをよく見てみると

自分で使っているものがおよそ9年前の出版物でかなり時差があるものでした。

「原因はこれか!」 私は基本、テキストはネットのオークションで手ごろな値段で

見た目きれいなものを購入します。

 

   (合格出来ないのはすべて私の力不足であり、この本が悪いわけではありません)

 

 この本を選ぶときも、「2009年の消防法改正に対応」という文言が眼にとまり

「これなら大丈夫!」と思ったのです。

 

       初回のテキスト本   1000円 /    計  8600円   

 

「この手のテキスト内容はそれほど変わるものではないだろう」という私の勝手な

思い込みがその後の不幸を呼び寄せることになります。

 

 1回目の受験に失敗した後で、この事に気がついてすぐに確実な対策をとれば

よかったのですが、ネットで実技の鑑別や学科試験の模擬テストが出来るサイトがあり

それをみつけた私はこう考えたのです。

「実技の問題に出てくる写真はこのサイトで網羅できるだろう」と、ととと。

同じような内容の分厚いテキスト本を新たに部屋に置きたくないという

気持ちもありました。  

 

 今までのテキストは学科試験用と考え、同じテキストで勉強をしてまた受験しました。

そしたら、また不合格でした。 「ひょえ!」

ネット上のサイトで出てくる実技試験用の画像をほとんど見たと思っていたのですが、

またまた、見たこともないものが登場しました。 

ネットの情報も最新のデータに追いついていないのかもしれません。

「なんだこりゃ、もうどうにもなりませぬな!」

 

 

 2回目の不合格には、だいぶ落ち込みました。

2回受験してもダメなのか?  

「これは、もう自分には無理なのではないのか?」

「考えてみたら、電気のことなど何も知識がなかった」

「熱感知器の設置は天井から0.3mまでか、煙感知機は0.6m以下か」

「火災発信機の間隔は歩行距離で50mか、非常ベルの間隔は水平距離で25mか」

「長さ10m以下の廊下であれば煙感知器を省略できるのか?」

熱感知器、煙感知器、炎感知器、ガス検知器・・のメカニズム。

空気膨張によるバイメタル反転で接点を閉じる、熱電対式?、イオン化式?

あまりにも覚える数字が多いし、構造も複雑です・・。

 

 

 一度はもう、やめようと思いました。

きっぱりとやめてしまって、違うことに時間を費やした方が自分の人生のためには

有益なのではないかと考えたのですが・・。

 

今まで取得した資格の試験はまぐれもあったと思いますが2つとも1回の受験で

済んでいます。 すべてマークシートだけでの解答です。

「実技の記述試験さえなかったらなぁ」などと考えてもどうにもなりません。

現実にそこに、あるのですから、なくなりはしません・・。

これ以上がんばっても時間の無駄なのではないのか?

この資格を取ったとしても仕事に使うわけでもないしな。

必要ないな。

 

 けれども、今まで相当な時間を費やしているな。

お金もちょっとかかっている。

姉にこの資格を取ると言ってしまっているなぁ。

嘘つきになってしまうのか。

全ては無駄になってしまうのか。 

何のためにここまでやってきたのだろう。

積み上げてきた知識(あればの話ですが)をすべてドブに捨てるのか! かかか。

 

このままでは私は2度も受験して合格できなかった男として生きていくことになります。

単なるアホです。

ご先祖様に合わせる顔がありません。

 

 「不合格」 なんて残酷な2文字でしょうか。

ボウリングでいえば「ガター」といい勝負です。

自分のアイディンテティをズタズタに切り裂き木端微塵にするだけの威力があります。

 

 このままでは私は「負け」です。

「自分に負けた男」です。

がんばれば、誰でも合格出来るはずなのです!

いくら数字が出てきても覚えればいいだけです。

簡単な事じゃないですか、かかか。

 

 半べそをかきながら、またオークションでテキストを落札しました。

今度の本はちょっと違います。

「伝説の工藤本」と言われているほど合格率があがるテキストです。

本当だろうか? まぁいいです。 

 

 

 少なくても古いテキストでなければそれでいい。

最新のテキストです。 バッチリです。

 もう、失敗はしたくありません。(初めからもっと真面目にやれ!)

今度は同じ「伝説の工藤本の問題集」も落札しました。

問題集まで買ったのは今回が初めてです。

完璧です。(真面目にやれば・・)

 

         (カラー写真なので見やすいし、理解しやすいです)

 

    2度目のテキスト本     2200円  /    10800円  

        問題集             2200円   /    13000円  

 

    3回目の受験費用 ③   3800円  /    16800円   

 

         (ブロ友さんのアドバイスを受け図書館での座る場所も変えた)

 

 

 時間をかけてテキストに向き合い、試験日の1週間前からは問題集にも

取り掛かれました。

 

 

 そして 2019年11月24日(日)に 受験しました。

1か月後の12月24日(火)に合格発表がありました。 

 

 

 

 私の(3回目の)受験番号が合格者一覧にありました!

正直、すごくうれしかったです! こころの中でガッツポーズを決めてやりました!

あきらめないで、上質の納豆のように粘りに粘った私の勝利です。

(本音 → もう受験勉強しなくていい! やっと楽になれる!)

 

 

3回目 試験結果 

筆記試験 法令(90%)基礎知識(40%)構造・機能(93%)

実技   記述試験 (100%)  

一応 合格 

 

 

 実技の記述試験に関しては、申し分のない出来です。

100パーセント 全問正解できました。

しかし、基礎知識40パーセントは合格点ギリギリの点数です。

一歩間違えていたら、今回も不合格になるところでした。

「まだ、まだ修業が足りない」ということです。

 

 

  合格後の手続き 免状申請  2900円  /     19700円  

書類を郵送手続きにする場合は 440円 かかります。

それと免状の返送用の封筒に貼る切手 404円 が加算されます。 

中央センターに書類を持参して、免状も直接センターでの受取にすれば

郵送のお金はかかりません。

 

 免状申請書類郵送代       440円  /      20140円   

 免状 郵送代 (返信封筒)   404円  /      20544円    

 

 免状を手にしてから初めての4月1日以降 2年以内に実技講習を

受ける義務があります。 

その後は5年以内にまた実技講習を受けることになります。

10年経過すると写真の書き換えがあります。

 

          実技講習費用 ①  7000円  /   27544円   

 

 けっこう、お金がかかりますね。

法の規制が変わったり、火災報知設備の規格変更もあるかも知れないので

最新の情報を身につけなければならないといけませんからね。

でも、私は仕事では使わないけど・・。  まぁ、いいか よくないか・・ 。

 

 現在では天井を見上げて眼に留まる自動火災報知機の種類はもちろん

その作動原理を把握できています。

 

     ( ↑  光電式スポット型感知器 錯乱光方式を使った煙感知器 )

 

 様々な場所で天井を見上げて自動火災報知機を探すクセがつきました。

並列に2つから3つ並んだ電気回路の合成抵抗を求めることが出来ます。 

( ↑ 実生活では一生使うことがない気がする )  

 

 でも、いいのです。  やっと合格出来たのですから。

かくして、丸1年以上の時間をかけて私はひとつの資格を手に入れました。

(無意味かもしれませんが・・)

ひとつ、言えることは、これはまぐれや奇跡が起きたとかの類ではなく

自分の意地と根性と底力でつかみとった資格だということです! 

悔しい思いもしたけれど、がんばったな、自分! 感無量!

 

 資格取得の受験に言えることですが、

「資格試験は不合格にするためにあるものではありません。

 合格させるためにあるものです」

 

                    (20190601 2度目の受験日)

 

 独学でどこまでいけるのか!?

また、面白そうな資格があれば挑戦してみようと思っています。

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。