「幅二十間の本所・横川にかかる法恩寺橋を渡りきった長谷川平蔵は、
編笠のふちをあげ、さすがに、ふかい感懐を持ってあたりを見まわした」
鉛色の雲におおわれた空に凧がひとつのぼっていた。
平蔵は昨年末に自分が捕まえて死罪にした強盗・野槌の弥平一味のうち
取り逃がしていた小川と梅吉を追っていました。
法恩寺橋の幅二十間とは36mの長さです。
なるほど、現在の川幅を見ても確かに36mほどです。
長谷川平蔵とは江戸時代、旗本であった長谷川家の三代に渡る通称です。
歴史上、実在する人物です。
池波正太郎さんの小説「鬼平犯科帳」のモデルです。
職業は火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)
放火や押し込み強盗、博打などを取り締まる仕事です。
配下に与力5名、同心30名をつけ、自ら現場に出向き捕り物を行います。
現代でいえば機動隊と警察を合わせた任務と言えます。
長谷川 宣雄(のぶお)の子 長谷川 宣以(のぶため)(延享2年‐寛政7年5月19日)
1745‐1795 が主人公「鬼平」です。
父の宣雄は火付盗賊改方を経て京都西町奉行所に就きます。
安永元年(1772)10月のことです。
平蔵(宣以)も妻と子(宣義)と共に京都に赴きますが翌年(1773)に宣雄が亡くなり
宣以は江戸に戻ります。
火付盗賊改方に任命されたのは天明7年(1787)9月9日 宣以が42歳の時でした。
本所は宣以が幼少時代に過ごした町です。
小説の中では「本所には彼の青春がある」と書かれています。
橋を渡った平蔵が編笠をあげて、深い感懐を持って見まわしたのはこのためです。
父が京都へ赴くまで長谷川家は本所・三ツ目に屋敷がありました。
(絵図 本所 法恩寺橋と法恩寺 周辺)
小説では横川川岸・入江町の鐘楼の前がむかしの長谷川邸と書かれてあります。
かつては横川の川岸に本所 時之鐘があり鐘撞堂(かねつきどう)がありました。
北辻橋は現在は撞木橋(しゅもくばし)と名を変えて存在しています。
大横川公園の撞木橋に「時鐘」のレプリカがありました。
絵図で見ると確かに鐘楼の前に「長谷川」とあります。
旧邸は、ここになるのでしょうか・・。
(五柱稲荷神社 絵図上の長谷川邸の位置に該当するのはこの付近です)
平蔵の旧邸の場所はあくまでも小説上での設定です。
史実としては、平蔵の旧邸の場所は現在の都営新宿線 菊川駅のすぐ近くにあります。
平蔵が暮らした屋敷はのちに、遠山左衛門尉影元(とおやまさえもんのじょうかげもと)
時代劇で知名度の高い遠山金四郎が屋敷を下屋敷として使いました。
(菊川駅 A3 出口に置かれた 銘板)
(正面の角の建物の奥が実際に平蔵が暮らした敷地です)
(付近の歯科医院の前にも銘板が置かれてあります)
小説の平蔵も久しぶりに本所にきたので、自分の生まれ育った場所を一周りしてから
法恩寺橋を渡っています。
「平蔵は横川沿いに北へ進み法恩寺橋を渡ったのである」とあります。
(菊川橋と大横川)
小説上の平蔵の旧邸から横川沿いに北へ向かいましょう。
(菊柳橋と大横川)
方向的に北へ向かうと常にスカイツリーが視界に入ります。
法恩寺橋が見えてきました。
(20200620 法恩寺橋)
横川に沿って北へ向かった平蔵は、左手から橋を渡ったはずです。
(法恩寺橋の途中から北方向を見る)
(法恩寺橋の下の水辺にカルガモがいました)
(背中や体全体が黒いし、羽根に白い輪郭が少ないのでオスと思われます)
橋を渡り切った場所、このあたりです。
このあたりで鉛色の雲におおわれた空を見上げたはずです。
見上げても、凧はのぼっていませんが横に眼を向けると、遊具が置かれた
小さなスペースがありました。
(絵図 右側が北です 法恩寺橋の東方向に法恩寺の敷地があります)
そのまま、蔵前橋通りを東へ直進します。
100mも歩かないうち、左手に法恩寺の山門が見えてきます。
絵図でみると、かつては相当な広さの敷地だったようです。
参道を真っすぐに進みます。
真正面に法恩寺が見えてきます。
境内に大きめの水鉢が置かれてあり、野生のメダカと共に小さな蓮華がありました。
ゴミひとつ落ちていない、よく管理されている美しい寺院です。
法恩寺の左側は横川に沿った出村町です。
19歳の平蔵は百姓家を改造した道場、高杉道場(師匠 高杉銀平)の門を叩き
剣術を学んでいます。
絵図の中に法恩寺がある左手に「百姓地」という場所が確認できます。
百姓地とは農地のことです。 この敷地の近くに高杉道場があったはずです。
庭の北面は武家屋敷の土塀によって遮られていて、その土塀からこのあたりでは
珍しい数本の山桜の老樹がありました。
あたりの人々はこの広大な屋敷を「出村の桜屋敷」と呼んでいました。
宣以がこの道場に通っていたころ、桜屋敷には18歳になる むきたての茹で玉子のような
初々しくはじける魅力の「おふさ」という娘さんがいました。
(ハゼがいました この辺りは隅田川と荒川に挟まれた場所ですが汽水域なのでしょうか)
平蔵は軽々しく声を掛けることすら出来ない、秘めた思いをずっと抱いていました。
同じ道場での剣友 左馬之助も 「おふさ」に対して特別な気持ちを持っていました。
結局、平蔵と左馬之助の思いは深い胸の内にしまい込まれたまま「おふさ」の
祝言を見届けることになります。
この横川を花嫁姿になった「おふさ」と嫁入り道具を載せた舟が2人の眼の前を過ぎていきました。
(オスのカルガモと思われます)
若い2人の思いは長い時間が経っても、変わらず、そのままでした。
平蔵は「おふさ」の幸せを願っていましたが、その意に反して
「おふさ」の人生は時間の流れに翻弄されていました。
そして、平蔵が追う、犯人とのつながりさえ見えてくるのです・・。
(スカイツリー 634m )
(鏡の前に立つと自分とスカイツリーを入れ込みで見ることが出来ます)
現在の横川は昔の様子とはだいぶかけ離れたものになっています。
水の流れは地上から確認できるところは、ほんのわずかです。
そのほとんどは暗渠(あんきょ)になっていて区が管理する公園になっています。
水は流れていますが、その上に人が歩ける空間が作られています。
昔の水の流れの上に現代の「憩い」や「くつろぎ」が存在しています。
人がのんびりと歩ける遊歩道、池や小さな滝、テニスコート、釣り堀までありました。
この日は天気もよく、多くの方たちがこの公園に集まっていました。
今から、およそ220年前にこの通りで平蔵は追っ手を追い込むため
歩いたはずです。
自分の青春時代の思いを抱きしめながら、凶悪犯を捕まえるために
この町を命がけで駆けました。
大きな交差点、車が行き交うこの道のどこかに平蔵の姿が見えるのではないのか。
横川の流れに平蔵は何を思ったでしょう。
水面に平蔵のこころが映し出されることはないのか。
時間が経っただけです。
雑踏の中に平蔵が駆ける足音が途切れ途切れに聞こえた気がします。
私は今、平蔵が駆けた場所と同じ場所に佇んでいます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
追記‐横川が生まれた背景には明暦3年(1657)に起きた江戸最大と言われる
大火災が関係しています。
幕府はこの大火災後に江戸の都市整備を大々的に行ないます。
火除地を確保するために河川を掘り、家屋を移転させる区画整理が行われました。















































































































































































































