2月に入り、とても冷たく強い風が吹く頃になると私の頭に浮かぶ事があります。

「明暦(めいれき)の大火(たいか)」通称「振袖(ふりそで)火事」のことです。

1657年に起こった歴史上最大規模の大災害です。

歴史に詳しい方はご存じかと思います。

 明暦三年正月十八日(3月2日)の未の刻(午後二時)に火の手が上がり、折からの強風

に煽られてたちまち江戸中に燃え広がりました。

火の手はまるで巨大な化け物のように町を覆い二日間に渡って町を燃やし続けたのです。

江戸城本丸(天守閣のある建物)をはじめ二の丸、大名屋敷、社寺など江戸八百八町

総てを焼き尽くしました。

二日間で江戸のほとんどが焼き尽くされました。

この災害での焼死者は十万八千人と言われています。

火事と喧嘩は江戸の華などとも言われますが、火事が頻発した江戸時代でこれほど

の大きな被害を出した災害は他にありません。

災害規模はとてつもなく大きいのですが、同様に大きな謎を持った災害です。

 

 大きな謎とは、火元が特定出来ていないことです。

日本史的には「本妙寺」が火元であると伝えられています。

当時は本郷 丸山(文京区 本郷五丁目)にあったお寺です。

明治43年に移転して、現在は豊島区巣鴨五丁目にこのお寺はあります。

しかし、知れば知るほど出火元は「本妙寺」ではないと思えてくる史実が出てきます。

 

 もし、この「本妙寺」が火元であったとしたならば想像を絶する厳罰があったはずです。

火事が多かった江戸時代、幕府は火元に対して厳罰をもって対処していました。

明暦の大火の後、「本妙寺」は厳罰に処されるどころかまるでエリートコースに乗ったかの

ような待遇を受けて、火事が起こってから三年後には元の場所で復興することが出来てい

ます。

そして十年後には日蓮門下の勝劣諸派の触頭(ふれがしら)にまでなっています。

この触頭の仕事は幕府からお寺への伝達や本山や配下のお寺から幕府への各種の訴願や

諸届を上申することです。

幕府とお寺を結ぶ なくてはならない重要な窓口を果たしていたというわけです。

これはむしろ、処罰を受けるどころか昇格です。

 

 ちなみに「明暦の大火」から後 明和九年(1772年)に起きた大火の時は

火元の寺はその後 五十年間再建は許されませんでした。

火事を出してしまうという責任は改易(かいえき)になってもおかしくないほどの

重大な処罰があっても不思議ではないことなのです。

なのに、「本妙寺」は一切 お咎めなしです。

 

 変ですよね?

怪しげなにおいがプンプンしてきます。

何か裏がある!はずです。

 

 私は以前からこの謎に興味を持っていました。

10年ほど前に実際に「本妙寺」を訪れました。

ここが火元とされているお寺なのか・・。

墓所のはじに大きな慰霊碑がありました。

明暦の大火の供養塔です。

10万人も亡くなっている・・。

四方八方から火が押し寄せ、その中で逃げ場を失った人たちはどれほど悔しい思いをして

命をおとしたことでしょうか。

えらいことだよなぁ。

真相を知りたいものだなぁ・・。

 俗に伝えられている「本妙寺」からの出火の原因は<振袖>が関係しています。

<振袖火事>と言われている所以(ゆえん)です。

火事が起こった江戸時代、葬儀には亡くなった人が生前一番愛用した衣類を棺に掛けて

行われるのが慣例でした。

埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られて墓の穴を掘った穴掘り職人の浄め(きよめ)

の酒代にされていました。

事の発端は火事が起こる三年前にさかのぼります。

明暦元年正月十八日、本妙寺で恋煩い(こいわずらい)で亡くなった十七歳の娘さんの

葬儀が行われました。

棺にはその娘さんが生前一番愛した振袖が掛けられ、葬儀が終わると振袖は古着屋に売られて酒代になります。

ここで話が終われば何の不思議なことはないのですが、その同じ振袖が翌年、そのまた翌年と三年続けて同じ月日に同じ年頃の娘の葬儀の棺に掛けられてきたというのです。

これに驚き怪しんだ寺の僧は三人の娘さんの遺族に話します。

「この振袖には娘さんたちの思いがこもっているのでありましょう 供養をせぬばなりま

すまい」ということで、遺族も参列して読経供養して燃やすことにしました。

その時に火が付いた振袖が強風で舞い上がり、本堂の屋根に燃え移ります。

振袖は火の粉をまき散らして燃え始めたとされています。

これが出火の原因だと伝えられています。

なので<振袖火事>と言われるようになりました。

 

 この振袖火事のお話は文学的というか戯曲的にものすごく魅力があります。

不思議さ全開で人の興味・好奇心をくすぐります。

実はこの話は明暦の大火の後にうまれたお話です。

あくまでも伝承であり その話の生まれた経緯もはっきりしません。

 

 自然発火で江戸の大半が焼失したとも思えません。

何かしら原因があるはずです。 

 

 多くの研究者がこの明暦の大火の真相に迫ろうとしてきました。

 

 まずは< 気になるポイント ① >  

失火なのか放火なのか??

一説によると火の手があがった日は朝から強風が吹き荒れていたとされています。

そんな風の強い日に火を燃やす不謹慎な人がいるでしょうか? 

もし、火事を出してしまったら厳しい罰が待っているのです。

出火の時間は午後の二時です。

たとえ行燈(あんどん)を使っていた時代としても昼過ぎの、この時間であれば普通

消しているのではないでしょうか?

なので、私の考察としては失火ではなく放火と考えます。 

 

 < 気になるポイント ②  >

なぜ放火なのか? 

 放火前提ですが、真っ先に考えられるのは単純に幕府転覆を狙う反体制の仕業です。

とにかく江戸の町を壊滅させてしまおうということなのです。

一度火の手が上がれば、風の加減によってはあっという間に町は焼け野原になります。

江戸の町の住居は密集しているうえにほとんどが木造です。

一度火が付いたら それはまるで、たきぎ同然のように燃え上がるはずです。

 実行に移した犯人は 明暦の大火から六年前に幕府転覆を図った由井正雪一派の

残党が報復のために本妙寺に火を放ったと考えられています。

文京区文化財調査委員 戸畑忠政さんによる考察です。

 

 そしてもうひとつの放火の理由 

当時、江戸の町はめまぐるしく発展して町は何の規則性もなく滅茶苦茶に膨れ上がって

いました。

現代での感覚で言えば都市整備が必要とされる町になっていたのです。

「なんとかして、この町をもっと効率よく住みやすい町にして管理したい」

幕府は考えをあぐねていたはずです。

この謎を解くカギは時の権力者 松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)である。

彼こそが大火の黒幕だと指摘するのは都立北多摩校で日本史を教える黒木教諭です。

 

 もっとも手っ取り早く、簡単な方法があります。

一度、全部焼き野原にしてしまおうと考えたのです。

人々の生活を無視したあまりにも利己的で残忍な方法です

確かに邪魔なものを全部取り払えば、都市整備は簡単に進められます。

 

 この都市整備をするために動いたのではないかと言われているのが

松平伊豆守信綱とされています。

一説によるとこの伊豆守信綱は頭のキレは抜群で人々からは「チエ伊豆」といわれたほど

でした。

このままの江戸では乱が起きた時に攻めるにも守にも不利な状態だと考えたのでしょう。

江戸全体を頑強な砦にして強い江戸の町を作りたかったのです。

大火が起これば都市整備は実行に移せます。

位置的に考えて江戸の町を焼き尽くすのに都合の良い場所はと選ばれたのが本妙寺のあたりだったということになります。

出火の様子を伝える「加賀藩史料」には本妙寺近くで馬に乗った侍が目撃されています。

徳川家の史書にはその侍を放火犯として捕えた記述が残されています。

ただし、その侍は処罰は受けていません。

この人物が何者かの命令で放火の実行にあたったのではないかと黒木さんは考えています。

                 (読売新聞 昭和五十七年十一月一日版より)

 もうひとつの説があります。

これは放火説ではありません。 失火が原因であるとしています。

この説では本妙寺の近くにお屋敷があった老中阿部忠秋家が火元であると説いています。

そう語るのは本妙寺檀徒の杉山茂雄さん(昭和六十三年十一月一日寂)です。

本妙寺の門前には加賀前田家があり周辺には寺院や大名屋敷が立ち並んでいます。

 

本妙寺の寺報によるとこの大火の翌年から老中阿部忠秋より十五俵の米が大火の回向供養料として本妙寺に届けられています。

この供養料は幕末まで続いています。

明治維新後は金額 金十五両によって続けられ、大正十二年九月の関東大震災に至って終了しています。

 本妙寺に対しての阿部家からの供養料は二百六十年余りに渡って送り続けられました。

これはいったい、何を語るのでしょうか。

この事実から、本妙寺としては火元を引き受けたと考えられるのです。

 出火の原因は女中さんによる失火とされています。

当日は朝から強風が吹き荒れていたそうです。

阿部家では雨戸を閉めていたために室内が暗く女中さんが手ロウソクを持って歩行中に

つまづき、転倒しロウソクの火が障子に燃え移ったのが原因とされています。

 

 これならば強風の日に火事が起きた状況が説明できます。

そうだったのか。 失火だったのか。

 

 出火元の 阿部忠秋は老中です。

幕府の中枢にあります。

この事が明らかになると大衆の怨恨の的になるのは必至なことであり、幕府の威信の失墜

は免れません。

大火後の江戸の復興も不可能になるかもしれません。

そこで、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守らが協議をして阿部家の責任を追及するよりも

江戸復興の政策遂行を進めるために、本妙寺に火元を引き受けてもらうよう要請して、本妙寺はそれを引き受けたとされています。

 

 二百六十年余りに続いた阿部家からの供養料は名目は供養料ですが、本当は火元の汚名をかぶり、阿部一族を救ってくれたことに対してのお礼だったのです。

 

 本妙寺が汚名をかぶることで、この大火の騒乱を沈めることと江戸の復興

大きく貢献したわけです。

もし、これが事実であるとするならば、大火の処理として幕府は最も前向きで建設

的な答を出したと思います。

 

 大火の原因は失火なのです。

火事を起こそうとして放火したわけではないのです。

誰にでも予期せぬことは起こります。

その責任を追及せずに、江戸の復興を最優先させるべく出した答えが「出火元は本妙寺で

ある」ということだったのです。

 

 この大火で亡くなった方には本当に供養しなければならないことだと思いますが、幕府

はみごとな政策をとったと思います。

 

 本妙寺もとても慈悲深い決断をされたと思います。

人を救い、江戸の復興を支えたわけです。

 

 歴史の中には埋もれてしまった真実がたくさんあると思います。

現代で、もし同じような大火が起きたらどうなるでしょうか。

出火元は厳しく責任を追及されるはずです。

例え失火であったとしてもです。

振袖火事のような伝承は生まれる余地はないはずです。

 

 振袖火事の伝承が生まれた背景にはひょっとしたら「人を救う」という思いが根底にあ

ると考えられます。

失火の責任を追及せずに、火事の原因を作り上げたのです。

江戸中の大半を焼き、10万人もの命が失われてしまった時にその責任を追求出来るものでしょうか。    無理です。 

振袖火事として歴史に残っている理由は1657年の江戸時代に生きる人たちの

この苦難を乗り越えようとする思い前向きな考えから生まれた結果であったと私は考えています。

 

 

 

 この記事を書くにあたり、本妙寺を訪れた際にいただいた小冊子に書かれてある

内容を参考にさせていただきました。

平成十二年五月に発行されたものです。    ありがとうございました。