2019年12月30日、私は松山での仕事から一時的に解放され

江戸に戻りました。

 

                              (20191230 今治の辺り)

 

 特急しおかぜ号の窓からまじかに見える海に解放感を感じ、

さらに瀬戸大橋を渡りつつ、本州に入れる喜びをかみしめ・・。

 

                          (20191230 瀬戸大橋)

 

 年が明けた2020年1月4日 山手線に乗り、上野を目指します。

「鶯谷(うぐいすだに)駅」生まれて初めて下りる駅です。

 

                                             (20200104 鶯谷駅)

 

 「す、すごい!」 (何がすごいのか!?)

眼に入る建物のほとんどがホテルです。

みごとです。 

 

                    (20200104 鶯谷駅より)

 

 前回の記事では、2019年12月に松山で「八股榎お袖大明神」のことを知り

そして、「俳人 正岡子規とのつながりを知った」というところまで書いています。

 

       (正岡子規) wiki

 

 「俳人 正岡子規」 誰もが知っている名前だと思います。

国語の教科書に登場していました。 日本を代表する文人だということです。

頭に浮かぶ俳句は何でしょう?

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」でしょうか。

(この句は療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた夏目漱石作の

「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句と言われています)

 

「松山や 秋より高き 天守閣」

 

                          (20191213 松山城)

「春や昔 十五万石の 城下哉」

 

                        (20200113 松山駅 交番の前)

 

 短歌でいえば

「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」

「松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く」

「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」

 

 短歌の方が写生的に描かれている情報が多いのでイメージしやすい感じです。

なんか、文学しているなぁという気持ちになりますね。

情景が描かれて、心象が重なるとそこに3次元的な世界が出現します。

作者の真意は細部までは理解出来ませんが、おおまかな道筋に沿い

似たような世界を文章から描き出すことができます。

文学って深いなぁ。

 

 正岡 子規は慶応3年(1867年)9月に伊予国温泉郡藤原新町(現 愛媛県松山市花園町) 

で生を受けます。

 

 そして、明治35年(1902年)9月 その生涯を閉じました。

34歳という若さでした。

死を迎える7年間は結核で身体を動かすのもやっとという状態だったそうです。

二十歳のころに、初めての喀血をし、日清戦争へ従軍記者として戦地に赴き

帰りの船の中でもひどい喀血をし、重体に陥り、鳴いて血を吐くと言われる

「ホトトギス」に自分を重ね、そこからホトトギスの漢字表記を使い

俳号を「子規」(子規 = ホトトギス)としたのだそうです。

 

 病床にあっても子規は片時も俳句や短歌から離れませんでした。

子規が生涯 残した俳句は20万を超えると伝えられています。

 

                           (20200104 鶯谷) 

 

 子規は明治27年から東京上野東根岸に移り住みました。

「子規庵」です。

 

               (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

 故郷から母と妹を呼び寄せて子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として多くの

友人や門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。

 

                       (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

  

           (20200104 東京 根岸 子規庵 休庵のため入れませんでした)

 

 子規庵にはこじんまりとした庭があり、子規のこころはこの庭で自由に

駆け巡ります。

 

                   (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

 土があり、石があり、草があり、花があり、虫たちが飛び交い、小鳥が歌い

見上げればそこには季節の空が広がっていました。

 

                  (20200104 東京 根岸 子規庵)

 

 子規にとって、その庭はとても重要でその庭を入り口として、その奥に

果てしない世界が広がっていたのです。

 

「山吹も 菜の花も 咲く小庭哉」

 

「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」

 

 子規にとってこの庭は創造の源だったと考えられます。

病床に伏したまま、じっと庭に眼を向けていたのです。

 

「いくたびも雪の深さを尋ねけり」

病床から庭に眼を向けても、雪の深さを知ることは出来ず、

母と妹に繰り返し尋ねている様子が想像できます。

 

 弟子の高浜虚子(たかはまきよし)は子規が亡くなる3年前(明治32年)に

ガラス障子を子規庵に設置します。 

子規が床の上からでも庭が見えるようにという配慮からです。

 

「糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな」

 

              (20200104 東京 根岸 子規庵  ヘチマが見えます)

 

 子規の絶筆の三句のうちのひとつです。

ヘチマは子規が結核の薬にしていた植物です。 

ヘチマの花が咲いたけど、自分は痰がつまり、もはや仏になろうとしている

自分にはこの薬は間に合わない。

最期の最期まで、自分の命が尽きようとしていても文学に向き合っていました。

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」

「をととひのへちまの水も取らざりき」

 

 3つの句を書き上げた瞬間、筆を落として倒れこんだと伝えられています。

 

 数多くある子規の俳句の中に題材が狸のものがいくつかあります。

「若殿が 狸寝入の 寒さ哉」

「夕立や 穴に逃込む 豆狸」

「狸死に 狐留守なり 秋の風」

「古家や 狸石打つ 落葉の夜」

 

                        (20200113 松山)

 

 その中には明らかに松山の「八股榎お袖大明神」のお袖狸のことが書かれて

あるものが存在しています。

 

                (20200113 八股榎お袖大明神)

 

                  (20200113 八股榎お袖大明神)

 

「餅あげて狸を肥る枯榎 紙の職に春雨ぞ降る」

「百歳の狸すむてう八股の ちまたの榎いまあるやなしや」

 

            (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 子規にとって、狸の存在は「望郷」そのものであったはずです。

狸を通して、自分自身の心情を文字に刻んだのだと思います。

病床で常に故郷を想い、勝山を見上げ、グラウンドで白球を追い、列車が走り

子規の魂は東京 根岸と故郷の松山との間を

行ったり、来たりしていたと考えられるのです。

 

          (20200113 八股榎お袖大明神) 

 

「十年の汗を道後のゆに洗へ」

 

                  (20191228 道後温泉 本館)

 

 明治29年(1896年)7月に療養のために一時帰省する際に作った句です。 

夏目漱石と「愚陀佛庵」で52日間の共同生活を送ります。

 

                   (20200114 坊ちゃん電車 県庁前)

 

 子規と夏目漱石はマッチ箱のような坊ちゃん列車に乗り込んで道後温泉へ

向かったかもしれません。

そして、2人の姿を八股榎の上からお袖狸はみていたはずです。

 

              (20200113 八股榎お袖大明神)

 

       (20200113 八股榎お袖大明神 榎の木)

 

 人に愛されて、尊敬もされた正岡子規。

子規の文学革新運動は夏目漱石、河東碧梧桐、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節たち

により受け継がれ、その後の文学界に大きな影響を与えました。

 

       (松山 勝山の登城道の途中で採取した砂岩)

 

    (20200104 子規庵 勝山で採取したピラミッド型の砂岩と子規庵の小石)

 

 東京 根岸の子規庵には松山城のある勝山の中腹の断層から採取した

ピラミッド型の砂岩を置きました。

 

        (20200104 子規庵 画面中央 ピラミッド型の砂岩を置いた) 

 

                       (20200105)

 

                         (20200105)

 

 松山の「八股榎お袖大明神」には子規庵の敷地内にあった

小石を持参してお参りしました。

 

                           (20200113 八股榎お袖大明神)

 

           (20200113 八股榎お袖大明神)

 

                   (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 初めてこの場所に入りましたが、妙にこころが落ち着きました。

なぜかはわかりません。 

 

                (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 腰掛に座りながら、小一時間この場所でぼんやりと過ごしました。

そして帰り際、東京・根岸の子規庵から持参した小石を傍らに埋めました。

 

                  (20200113 八股榎お袖大明神)

 

 この2つの点により東京 根岸の子規庵と松山は直線で結ばれます。

 

 

 狸が駆け巡った勝山の砂岩、子規が力強く生きた子規庵の小石。

互いに強く引き寄せ合うはずです。

子規の魂が狸を想う瞬間に、目の前には松山の光景が広がるはずです。

 

「卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)」 

 

                     (20191213 松山城より)

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

参照 伊予たぬき学会