☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆ -5ページ目

差別したい ~4・くぼみから引きずり出したもの~

◆お断り◆
毎回鬱陶しいほどに、くどくどと書きますが、今回のテーマはあくまでも
他者の、万人の中にある差別・偏見を糾弾したり、それを問題としているのではなく
自分自身の差別・偏見の元となる価値観や基準から、それを実行するまでの変化の部分を
解きほぐしたいというものです。
なのであっちへ行き、こっちへ行き、めちゃくちゃな進み方をすると思われます。
人のそんなもん知っても無駄だと思うことも多々あると思いますので最初にお断りしておきます。
読む価値はこのへんで見極めてください。


初期に出会った私の内部のくぼみとして、私の中にある差別、偏見的な感覚を探してみる。
なるべく曖昧で、なんとなくそうかな?というものがいいな。
農村部の嫁の扱い、なんかにも偏見はあるけれど、それはしっかりしっかり自覚しているし。
ホームレスの人やアキバ系の人を避ける、という感覚はどうだろう。何故避けるのか。何故嫌なのか。
ボランティア的活動ではホームレスのおじさんと微弱ながら心を通わせられたように感じたことがある。
いわゆるアキバ系の男の子(男性)と仲良しだったりもする。

何故彼らが「集」なったり、「個」を失う場面では避けるのか。
それは個々を「知らない」から「怖い」のだと思う。
「個」を知ることで払拭できる部分はあれど、「集」としての性質を理解していないし
その「集」を織り成す一構成員となる「共通の特性や経験、感情の成長軌跡」を知らないからだと思う。
ここで「個」から「集」への理解も要求される。
それだけじゃない。「個」を知らなくても「集」を知ることは出来るか否かも必要になる。

このことでもひとつ気付いたことがあるのだが、私が持つ差別・偏見を行為として移す可能性のあることは
「恐怖」に限定されているようだということ。
差別・偏見、そのものをテーマとするとそれだけでは片手落ちどころか
語ること自体が偏見的になってしまう。しつこいですが、今回はそれそのものがテーマではない。
「恐怖」がもととなる差別・偏見の芽と、一番の大きな着目部分はやはり行為へと駆り立てる
そして駆り立てられていることにすら気付かない精神構造部分だ。

個の彼らを知ることは出来て、多分差別的、偏見的な見方はしていないと思う。
なのに「集」となった彼らを知らないため恐怖感を持つ。
私は実はこの恐怖感を払拭しなければならない、とか恐怖感を持つことが差別や偏見につながるのだ
という説をあまり重要視していない。なぜならそれは前回でも触れたけれど、無理だと思うから。
いや、ひとつのことがらに焦点を当てれば無理と言ってはいけないかもしれない。
どんな形でも「無理ではない」という人もいるだろうけれど、ここでも私に限定して考える。

人間はひとつのことがらのみに従事して生きるわけではなく
常に優先順位をつけることを要求される中で生きている。必然的にそうなってしまう。
となるとすべての物事に対して深く理解するのはとても難しい。
どうしても優先順位をつけねばならなくなってくる。
逆に理解を求めたいと思う立場だとしても、その個々の順位を無いものとして
「理解をして欲しい」と要求することには、かなりリスクがあると思う。
ここでのリスクというのは要求せねばならない側に発生してしまうものだ。

より強固で改めがたい偏見を形づくるひとつの図式として
人が本能的に持つマイナスとプラスの感覚がある。
たとえば(対比として適切でないケースもあるが往々にして適切でないことは多い)
寒いと暖かい、汚いときれい、高いと低い、おいしいとまずいなどなど。
状況やおかれた立場は無視してどちらがプラスかマイナスかと問えば
大体同じように感じることの多いことだと思う。高いと低いは微妙だけど。
それ以外にも人は育つ過程で、対比しないマイナス要因というものも、いくつも持つ。
いじめられた人は最も傷ついた言葉にマイナスをつける。
ものを食べるのが遅かった人は早食いにマイナスをつける。(または食べるのが遅いことに)
たくさんのことが原因でたくさんの判断をする。

これらのマイナス的感覚にカウントされる要素が多ければ多いほど、色眼鏡の色は濃くなるし
バイアスはかかりまくるし、フィルタの層も厚くなる。
仕方のないことと言えば仕方のないことだと思う。でも原因究明したいと思えば出来なくはない。
ところが、それを考慮に入れず「個」オリジナルの特性(性質的、性格的な部分)への評価を下せば
正確(があるかはまた別)な判断は出ない。
けれどもそれが通常行われる個々の評価でもある。

それそのものが間違っているとかいうこととは全然違うことでもある。

私が「私」に問うのはこの部分のマイナス要因がどれくらい重要で、本質的なものかということだ。



2007年4月8日(日)PM:1:11に上げた記事です。

差別したい ~3・光を当てて探る~

◆お断り◆
毎回鬱陶しいほどに、くどくどと書きますが、今回のテーマはあくまでも
他者の、万人の中にある差別・偏見を糾弾したり、それを問題としているのではなく
自分自身の差別・偏見の元となる価値観や基準から、それを実行するまでの変化の部分を
解きほぐしたいというものです。
なのであっちへ行き、こっちへ行き、めちゃくちゃな進み方をすると思われます。
人のそんなもん知っても無駄だと思うことも多々あると思いますので最初にお断りしておきます。
読む価値はこのへんで見極めてください。


何かのきっかけで、私がこのように防御の本能が働くことに出会ったとき
構えて生きることとそういった傾向をもつ人への理解を望むという気持ちは同時に発生している。
わりに親しくしている(今回の犯人以上の付き合いがある)人の中には小学生アイドルが好きな人もいる。
いわゆる同性愛者も男女ともにいる。そして現アーレフや、統一教会の信者もいる。
私は彼らのことは好きなのだ。
だからこそ、そこ(偏見を持っていることと、防御と防御の際に発生する差別)に切り込みたい。

私が彼らを好きなことと、彼らのもつ「傾向」を警戒する気持ちを持つことは私の中では矛盾ではない。
彼らが個々に持つ傾向、と言うよりも、彼らが帰属していると感じる「集」への警戒かな。
それ以外に共通のものを持っているということもあるし
彼らは総じて私がマイナス要因とカウントする(後で触れます)ものをあまり持っていない。
けれど、好意を持っていると同時に、防御的な構えも持っていることは明記しておく。
彼らを「個」として好いている気持ちと、彼らが彼ら自身で帰属意識を持つ「集」の部分への
無理解ゆえの防御姿勢は表裏一体であり、並行して感じるものでもある。

自分が差別をしているか、偏見を持っているかということには本当に正直に言って
あまり突き詰めようとは思っていない。
差別的見解や偏見である(またはかもしれない)という状態については常に気を配り
気付いていたいとは思うものの、それを完全に払拭することが根本的解決だとは思っていない。
差別的見解や偏見を完全に払拭することでなく、それを行為に移す精神構造の改めが根本解決だと思っている。
そう思うのは、私が人というものは平等さと同時に優越性を求めるという矛盾した
本能的な欲求を持っていると考えているからだ。
もしもそういう本能的な欲求がないのならば、差別になど気付かないと思うし差別なんかないと思う。
差別、という概念は生まれなかったと思っているのだ。

ここも乱暴に言えば、そういったものを生む性質を持っていても良いが
他者に何らかの害を及ぼす(または及ぼした)ときには省みることと深く洞察し
必要な修正をかけること、そしてその他者との関係性(相互の納得のうえで
住み分ける、合意する(謝罪、償い含め)、相反する)の再構築が出来ればよい。という感じにとらえている。

今回もちょっと但し書きとして、しつこく書いておきたいのだが、自分以外の人々が個々に持つ
「差別・偏見とはこんなものである。よって○○である。だから○○すればよい」
というような思想を統計しているのでも、個々に問うているわけでもない。
なぜなら思いやりと同じく、これらはどんな形であれ
人と足並みをそろえることで正解が導き出されるわけではなく
(社会的にはそういうケースパターンもある)
また同意できれば良い、共感できればどうこうというものでもないから。
各々が各々に従って、各々で責任を持たされることだと思っているからだ。

ならば、私の中のその部分を探ってみようじゃないか。
私は身勝手で、あまり社会性を重んじるタイプではないし
その上自分が興味を持っていないことに関しては恐ろしく無頓着だったりする。
ブログ界隈で一時期フィーバー(全っ然関係ないけどこの単語が好き)していた著作権問題や、ブログ論。
ほとんど興味がなかったので、あちこち読み歩いて「へえ~!へえ~!あ、そう~!」と思ったけれど
多分ほぼ7割方右耳から仕入れ左耳から廃棄してしまったと思う。

そんな私でも差別したい、偏見を持っていたい、と思ったことはない。
なのに、そういう側面がないとは言えない。
これはつまり差別や偏見は大まかに言って、事後発生的性質を持つからだと思う。
個々の内部に生まれる差別や偏見は、大部分が「防衛本能」に由来していると思う。
そしてその防衛本能を産むのは欲求だからだと思う。

出来れば差別もしないし偏見も持たない、そして万人に思いやりととってもらえる行動しかせず
賢く、誠実で、公平で、完璧なる人でありたい。それが無理でも近づきたい。
無理だと思うからこそ、自分の中で必要そうな大事だと思う部分を強化していくしかない。
その中で、この部分に関しては持っている本質的な部分を根底から削除するのでなく
「行うこと」になるべく誠実に(自分にね)制限をかけていくという選択を私はしているということだ。



2007年4月8日(日)PM:0:15に上げた記事です。

この記事群については、もう追記はありません。

差別したい ~2・事件から内部探求へ~

◆お断り◆
毎回鬱陶しいほどに、くどくどと書きますが、今回のテーマはあくまでも
他者の、万人の中にある差別・偏見を糾弾したり、それを問題としているのではなく
自分自身の差別・偏見の元となる価値観や基準から、それを実行するまでの変化の部分を
解きほぐしたいというものです。
なのであっちへ行き、こっちへ行き、めちゃくちゃな進み方をすると思われます。
人のそんなもん知っても無駄だと思うことも多々あると思いますので最初にお断りしておきます。
読む価値はこのへんで見極めてください。


私の中にも幼児性愛傾向について独自の見解はあるし
それに対して持っている自分の価値体系は、今の時点では修正するつもりはない。
だから他者とその定義について語り合うことも、今は必要としていないし、興味もない。
ただ、その「強制的な行為」には激しい嫌悪感を持つ。
許すとか許さないとかではなく、強制的な行為に移るという安易な答えの出し方には納得も出来ない。

そういった傾向をもつ人に対して、私の見方や偏見的側面を指摘されたとしても
私は今後もそれを持ちつづけるし、払拭する気はない。
攻撃するわけではないけれど、フィルタははずさない。それが差別であっても。
ただ、このテーマで何かを書こうとしている中に○○は差別かという議論を望んで書くことはない。
そういう差別の定義・判定合戦はしたくない。
あなたのしていることは差別ですよ、と言われたら記事自体を最終的には非公開にするかもしれないし
一旦その自分の持つ感覚を洗いなおしたりはするだろうけれど、多分認識は改まらないと思う。
まあ防御的な部分とそれを理由に相手を貶めたり、自分と相手の上下関係を
多数決や感覚で決め付けて侮蔑したりするのとは、まったく別の問題とは思っている。

どんな立場でどんな人であっても侮蔑して蔑んで、それを正当化するというのは
私の中では差別の範囲に含まれる。
それ以外の部分については時折、自分の中で差別かどうかを考えることはあるけれど
他者と論じて結論を導き出すつもりはない。
差別や偏見は個々の中で、判定し評価して責を追うのが妥当だと思うし最も必要だと思うから。

この回では、この事件の犯人を私の持つ大切なものに近づけたくはない、と感じたことが発端となって
「差別・偏見」の中のひとつとしてとらえたことを流れとして記してみる。
流れをおさらいしてみて、感じたけれど、私はその流れの中でかなり対象範囲を広げている。
広げた(ということだけでも)部分も頭の片隅に前提条件としてインプットしていただけるとありがたい。
この事件の後感じた防御的反応に由来する私の行動を、私は差別だとは思っていない。
けれど、差別へと発展する可能性のある反応だとは思う。発展する前になるべく細かく丁寧に紐解いておきたい。

そういう身近に感じる犯罪を起こす傾向への一般的認識は薄い。驚くほど知られていない。
(犯罪を犯すってトートロジー?冗語だよな。でも起こすはおかしいか)
(でも待てよ、犯罪と罪は別だよな。しかもサ変動詞じゃない。だとすると犯罪を犯すでもいいのか)
(厳密には冗語だけど許される冗語って感じかな)←ちょっとした雑談
知られていないだけでなく、知ることの重大さはもっと認識されていないと思う。
知れば払拭できる部分は多分にあるし、私も出来れば払拭して差別をせず、偏見は持ちたくはない。
その反面同時に「何故、害を受ける側だけが理解の努力をせねばならないのか」という疑問も持つ。
払拭する必要性のことだ。

ここで問題になるのは、人は何もかもに深い理解を持てるほど、生きることに恵まれていないということ。
様々なものから身を守らねばならず、そのすべてに理解を持つのはすごく難しい。
犯罪を行った(とりあえずこれに修正)ものだけに理解を持てばいいというのではなく、
そういった傾向を有するかどうかも見極めねば身を守れない。
しかも理解の努力は自分のためだけにしているということを意識しなければ誤解や歪みも生じる。
その2点は密接ではあるけれど、必ずしもしなければならないことでもない。
果たして払拭する必要性のようなものは傾向への認識も薄く、理解をしたいと感じてもいない場合
問題提起したり話題になったからと言って届くだろうか。多分届かないと思う。

誤解して欲しくないのは、犯罪を行ったもの、それが「個」であれ「集」であれ
それを差別していいという意味ではないということ。もちろん傾向を有するものに対しても。
偏見を持っていいということでもない。
偏見を持ってしまうのと、持ってよいと正当化するのとは、これはまたまったく別の問題だ。
当然、差別される側が持つ思いを発した言葉を軽視してもいいとかではもちろんない。
差別はする側が100%悪い。それが差別かどうかもまた別な話として。
差別であると断定したとして。仮定ばかりで評価もないが、それが私の差別の評価。

差別かどうか、ということを考えるときは自分の中のデリカシーの部分と他者のそれとを比較検討して
どうしても発せられなければならないか、発するだけの理由があるなら発したことへの
責を追えばいいんじゃないかと個人的には思っている。
発することで責められたり罵倒されたり、蔑まれたりすることも当然あるだろうし。
そうされたときに自分のしていることを正当だと証明しようとするのは全然誠実ではないと思う。
差別や偏見を持って近づかれ、それをぶつけられて正当さを証明するのとはわけが違う。
誠実ではないからといって罪ではないけれど、それを自分に許せば
結局のところ「平気でうそをつくひとたち」になるしかない。
なっても別にいいもん。何が悪いの?という人もいるだろうな。
別に悪くない。好きにすればいい。ただそういう人を信用せず、重要視しない人もいるだけだ。
これは自尊感情ではなく「自尊心」の問題なので自分で納得出来るならそれでいいとも思う。
何にせよ、どんなケースでどんな理由であれ、差別に正当性はない。

上で書いたこととそして差別と偏見の定義や判定を避ける、ということからも今回はその差別的要素や
偏見の芽を自分の中でどう位置付け、どう責任を取っていくかということに焦点をあてています。

そしてこの事件が発端だったため、幼児性愛傾向という
また別の認識と下準備と基本知識の必要なことに、図らずも光をあててしまったけれど
この部分についても今回は深くは触れるつもりはない。
ただ私が娘や夫、当然自分自身を守りたいと思う気持ちが、何物かを避けるという防御方法を取るときに
私は偏見を持って差別しないでいたい、と思うから内部探求する。
その防御方法から偏見を持ち、差別することで防御する、という部分の心的な流れをもう少し深く考えたい。


※別な話、別な話と言っていますが、これは同カテゴリの別件と言う感じで、全体を深く探る場合は
 避けてはいけない部分なのですが、今回は全体ではなく一部分にのみ絞りたいので別な話とします。

【お詫び】
せっかくトラックバックいただいた余談部分ですが
不適切な表現であるばかりか、意味合いも曖昧でした。
読んで不愉快な思いになった方もいらっしゃると思います。ごめんなさい。
反省して削除します。
それに伴いいくつかコメントも削除させていただきました。猫、すまん。

トラックバックくださったchargeupさん、chargeupさんのところからいらしてくださった方、ごめんなさい。
トラバまで消させてしまいました。重ねて、お詫びします。
本当にごめんなさい!



2007年4月8日(日)AM:11:51に上げた記事です。

返す返すも残念な、私の浅はかな余談部分。
chargeupさんには本当に申し訳ないです。改めて、ごめんなさい。
素朴な疑問だからこそ核心に近かった。それを忘れていたのと、甘えが出てしまった。
いつか、この形の「甘え」についても書きたいなぁと思いつつ反省するのでありました。
はぁ~…。

差別したい ~1・事件~

まずはお断りとして…。
毎回鬱陶しいほどに、くどくどと書きますが、今回のテーマはあくまでも
他者の、万人の中にある差別・偏見を糾弾したり、それを問題としているのではなく
自分自身の差別・偏見の元となる価値観や基準から、それを実行するまでの変化の部分を
解きほぐしたいというものです。
なのであっちへ行き、こっちへ行き、めちゃくちゃな進み方をすると思われます。
人のそんなもん知っても無駄だと思うことも多々あると思いますので最初にお断りしておきます。
読む価値はこのへんで見極めてください。


ある事件があった。
その事件とは小学校中学年の女子に対する痴漢行為を40歳にリーチのかかった男性がしたというものだ。
最近、この手の犯罪もとてもよく報道されている。問題はその犯人が知り合いだったというところ。

よくテレビでも逮捕された犯人を知る人が言う「いい人だったのに…」とかいうコメントを聞いて
「本当!?全然わかんないのかな?絶対何らかのサインは出てるよ」なんて思っていたけど
例に漏れず私も犯人の男性に対して「え!!!そんなことしそうに見えなかったのに!」と思った。
自分が思って初めて、そういったコメントを発する人が、
それほど近しい人ではないのだ、ということに思い至る。
それほど近しくないからこそコメントするし、いい人程度の感想ですむのだろう。

私と犯人とは本当に知り合い、といった程度で4、5回会っただけのこと。
しかし知り合ったきっかけは、かなり近しい人を通してであり
その近しい人、友人Aは犯人とかなり長く親しんできた人だった。
友人Aが犯人と、私がジャポネッサに対して持つような友人感覚での付き合いでないことは知っている。
それでもよく話もしたし、世話になったり、楽しい時間も共にしたりしたらしい。
私も毎回Aとの関連ではあったけれど、会って話しをした印象は何ら特別なことはなかったし
良い人だなと思いもした。

この事件を知って動揺したAが電話をしてきて知ったのだが、Aはとても動揺していた。
激しいショックも感じていた。同時にものすごい嫌悪感も抱いていた。
激しい失望感を感じる自分に対する罪悪感も持っていた。
私はといえばショックを受けたのはそれを見抜けなかったという自分に対するものだった。
後々一番大きく効いた部分はまったく別のものだったのだけれど。

4、5回(各30分から1時間くらいの間に合計15分くらい話した)会った程度で
それを見抜けるかと言えば、無理だとも思うけれど。
実際、私とAと共通であり、Aと犯人とも共通の友人たちは
犯人がそういったロリコン的要素を持つ趣味を持っていることを知っていた。
彼が逮捕された後どうなったかは知らない。
話題にすることで、直後に受けた感情を再度味わうにはまだ受けた衝撃が癒えない。

私とAが受けたショックの大きな理由の一つは、私たちが幼い娘を持っているということだ。
自分の娘がそういった対象になったら、という嫌悪感は拭えないし拭いたくない。
多分、私はもうこの先その人に好んで会うことはないと思う。
そして娘には会わせないように気をつけると思う。
そして同じ幼い娘、幼くなくても娘を持つ友人には警告的に事件の情報を漏らすと思う。
それは彼にとっては不利益だし、本質的に幼児性愛傾向は努力で直すとかいうものなのかどうかわからない。
不利益と言ったのはその幼児性愛傾向の欲望を満たすための機会を奪われるということでなく
交友関係の幅が狭まるといった意味で。

さて、これは差別であろうか。
そんな疑問から私の差別・偏見を行為に移すまでの精神構造をめぐる旅は始まった。

あ、この最後の「これは差別であろうか」へのコメントは少し待ってください。
これが聞きたいという意味の記事ではありません。言わば前フリなので。
差別や偏見の定義や判定は、このテーマでは望んでいません。むしろ避けていきます。
そのあたりは先で触れます。



2007年4月8日(日)AM:11:04に上げた記事です。

一気に書いて、少しずつ手を加えながら上げた記事群。
本当に思い入れ深いです。

差別したい ~エピローグって間違えたプロローグ~

ひどいタイトルで正直すいません。
今回、シリーズとして書くつもりでいることは、差別・偏見、それのみに焦点を当てているわけではなく
そこを含む「平気でうそをつく」精神的な部分について考えます。
つまり「私」は差別したいのか、ということです。
シリーズ一番初めに言ってしまいますが、言葉として「差別・偏見」というのを多用しますが
問題は差別と偏見ではありません。
私が焦点を当てているのは、それを行為として取りうる精神的世界についてのことです。
全然関係ないですけど、今焦点と打とうとして掌底と打ってしまいました。
う…。ぐわぁ~!あ、すみません。ちょっとした発作に襲われました。放っておいてください。

差別って一体どんなものなんだ、と思ったときに辞書やらで調べると
偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。
また、その扱い。と書いてある。
それとは別に仏教用語としての差別(シャベツ)の意味もあり
もうひとつありましたが知りたい方は辞書でどうぞ。

平等に不利益だったら差別じゃないのかしら。
多分これという確たるものではないからこそ難しいんだろうけど。
精神的な部分でなく物理的な面ではわりと法律的に決着がつきやすいけど、
精神面での決着はそうはいかないだろうし。
ひどいときには法律的な場に持ち出した方が責められたり。
上海ではよく、だまされたほうが悪いとか言われるそうですが、似てますね。てことで本題に。


「集」というものを理解しようとしたとき、いくつかの群集パターンがあり
それを形作る要素の特性として「感染」と「合流」「規範」「暗示」というものがある。
「感染」は「集」となってから生まれるキャビンフィーバーのようなものと言ったらいいでしょうか。
たとえば戦争や革命時に虐殺に一般市民が参加してしまうような。
群集になることで観念や情操的なものが一瞬にして感染してしまうという。
集まることで群衆行動的意識が発生する。

「合流」はもともと群衆行動を求めていたり、群衆行動に走りやすい傾向をもつ人が集まっているため
より大きく強固な群集行動となる。
同一傾向、同一動因、同一興味を持った人が集まるため
「感染」の「集」とは違い、突然人が変わったかのような群衆行動を起こすのではない。

そして「規範」はその集合体の内部でのみ通用する規範をもとにして行動する集団。
いわゆる新興宗教とひとくくりにされてしまう集合体への説明などに出てくる部分なのですが。
一般的に新興宗教として揶揄を含む偏見的見解を生んでいるのは実際の宗教や信仰ではなく
オカルト集団のこと指しているのでしょうね。
この規範説はオカルト集団を知るためのひとつの説明になります。
で、「暗示」についてはちょっとまた別の機会に。洗脳とかはこの説に含まれるでしょう。

ただし、これらは完全に割り切って考えてしまうと「群衆行動」への理解は片手落ちになってしまう。
すべてのパターンには当てはまらなくなってくる。
ということで「集」の理解とは別に「群集行動」の理解もまた必要となってきます。
昨今はこの中の二つの要素を組み合わせたタイプの合併説があります。
もともと群衆行動を起こす傾向の人が集まり(合流)そこでの群衆行動の中で群集行動的要素が発生する(感染)ということです。

とりあえず、エピローグと間違えてしまったプロローグではこれから探ることに影響した知識を記しました。
誰も言ってくれなかったら最後を書くまで気付かなかったな、きっと。chargeupさんありがとう。
プロローグをエピローグと間違うなんてフロイト的に言ったら「もう終わらせたいのであろう」ですね。
いえ、やっと取り掛かれたんだから明日は続きをアップだぞ!
しかし取り組む際に感じた葛藤は「出さないでおこうか」というものであったことを鑑みて
出すに迷った証なのかもしれません。



2007年4月8日(日)AM:0:05に上げた記事です。

本当に久しぶりに、どっぷり自分に浸かって、楽しくて、わくわくして
そして満足したシリーズの始まりです。
最初から思いっきりコケたけど、大満足です。
ここまでぶつぶつつぶやけば、そりゃ満足に決まってるじゃないの。
と、イーヴルも言っています。

新年度

明日から外に出勤なのです。あ、もう今日になってしまった…。
久しぶりでどきどきです。

そして…。

娘と距離的にも時間的にも長く離れることが思ったより寂しいです。
最近またぐぐーっと成長した娘と、楽しくて嬉しい日々を送っていたのでなおさらなのでしょう。
そりゃ生まれたときから可愛くて大事だったけど、日々可愛いと思う気持ちが増しているので
ほんの短期間なのにぐじぐじと床に「の」の字を書いています。
うう…、娘~。かあちゃん寂しいよぅ…。

本当は昨日か今日、更新したかった&ちゃんと書きたいテーマもあったのですが
ちょっとショックを受けたことや、新しい仕事のこと、娘の通院のこと
家を空けるためのあれやこれやが非常に複雑な気持ちにさせたせいか、書けなかった。
フルタイムで久しぶりに仕事をしても元気と時間が余って、気持ちが落ち着いたら書きたいな。
いつもの長ったらしくてめちゃめちゃな内省ごっこもしたいのですが
物理的に私か娘の健康への被害が及んでしまうと、なかなかそこに意識が使えないです。
やっかいな。

じゃ、寝ます。本当はもっと早く寝る予定だったのに、やることいっぱいで遅くなっちゃったのだ。
んでもって行ってきま~す。


2007年4月2日(月)AM:0:15に上げた記事です。

ひえー!ブランク明けだってのに初出勤の前日に夜更かしするとは!!
我ながらアホですな。
思いがけず終わっているはずの新年度のお勤め、続いております。
社員に、と言っていただいたのですが丁重にお断りいたしました。
とりあえず今月一杯でフルタイム就業は終わりです。
後々ピンポイント助っ人には対応いたします。
ということで、とてもよい形にまとまりました。
ありがたや、ありがたや。

強くなりたいのです

chargeupさんの記事、「強く生きるのです」「強く生きるのです2」 へのトラックバックです。

chargeupさんはこの2つの記事中で他人に「強くなれ」と言う人について考察されています。
またその「強さ」の意味合いについても触れています。
「強く生きるのです」の方へコメントしたのですが、私は「強くなれ」と言われた記憶はなく
逆に(逆か?)強い人として「強い人には弱い人間の気持ちはわからない」と糾弾されたことが何度かあります。
ここで私に向けられた「あなたは強いから」の強さはchargeupさんの「強くなれ」の強さとは
きっと違っています。
今日はその違っているほうの「強さ」について考えます。

過去に言われた状況は驚くほど似通っていて、多分それを言わせているのは私なのでしょうけれど
人と人との付き合いにおける「思い合う尺度」が問題となっています。
たとえば、彼と喧嘩してしまった、友達とトラブってしまった、など。
ちょっと違った角度で、片思いの人へ告白、または彼、彼女が欲しい、という願望というのもあります。
たいていは私がその思われ人ではなく(友達でも恋愛でも)相談された第3者です。

Q1:好きな人に思いを告げたいけど勇気が出ない。
A1:それでは告げないでおく。

Q2:友達と喧嘩してしまったが、相手が悪いのに無視されて腹が立つ
A2:そう告げて相手を徹底的にののしる。もしくは和解したいなら告げつつ話し合う。

模範解答
Q1
話がループしたとしても、やさしく少し困った顔と頼りになりそうな態度を使い
「大丈夫だよ!頑張りなよ!A子可愛いし、きっとA男もそう思ってるよ。上手くいくって」
これらの応用バージョンをつくり、繰り返し励まします。
例え心の中で全然大丈夫かどうかわからず、A子さんが人並みの容姿で、A男くんを知らなくても
上手くいくって、という根拠のない自信付けが必要です。
「言いたいと思ったら言いなよ」などという思いやりのない冷たい態度では友達がいなくなります。

Q2
とにかく相談者の肩を持ちましょう。喧嘩の内容を事細かに聞いてあなたの、または一般的な善悪に
従ってアドバイスなどはしてはいけません。相手は自分が悪かろうと悪くなかろうと味方が欲しいのです。
友達なら味方をしてあげ「あなたは悪くない!悪いのはみんな向こうよ!謝ることないよ!」
と言って力付けてあげましょう。そして出来たら力を合わせ、喧嘩した相手を
逆に不愉快な目に合わせたりすれば友情が深まります。

※模範解答はほんの嫌味ですが、多分これを求められているのだろうという推測をもとにしました。

この模範解答的思考は、私が「強い人にはわからない」と言われたのちに
果たして本当にそうなのか。そして私は強いのか。強いならばその強さの定義とは何か。
仮に言葉通りとしてそれは非難されるようなことなのか。
そういうことをあれこれと考えた末に今のところ落ち着いている思考です。

それというのも「強い人にはわからない」と言われただけならなんとなく「は?」と思っても
多分流してしまったと思うのです。あまり気にしなかったと。
ところが、すべてにおいて起こった共通の知人、友人を通じての非難が私を悩ませたのです。
その非難の言葉を検証していくと「強い人にはわからない」の強さは「無神経」と
とてもよく似ているのです。いや、まさに無神経なのか。

好きな人に思いを告げたいけど、どうしたらいいのかわからない。という思春期から連綿と続く悩み。
これを相談することを好意的に推測すると、緩やかに勇気を溜めるまでの励ましを求めている。
穿って推測すれば、なんとかして欲しい。つまり依存的欲求。
なんとか、の中身に大小はあれど。
情報が欲しい、守備固めを任せたい、相手を説得(?)して欲しい。
ある意味このケースで相談してきた人に言われた「強い人にはわからない」は当たっていません。
それは私が強く(無神経)はない、ということでなく、実は望みはわかっているからです。
私はそういった行間を読む(もしくは読んだつもり)ことで「良い子」を演じてきたのですから。

知っているけれど、それを行動に移す、つまり模範解答のように振舞うことは
私の中では決して誠実なことではない。
だって、そんなことは私はされたくないし、心ではそれが役に立たないことも知っているのです。
日本人の謙譲の美的性質か、人は自分の望みを口にし人に希うことを恥じていたりします。
(全然関係ないけど「希う」ってすぐ読めました?ちょっちぷん、恥ずかしながら今知りました)
私は口にしない望みを推測してかなえられるほど成熟などしていないのです。
出来ないし、やりたくない。
口に出され、協力を仰がれたら出来ることを出来る限りには手伝うし、嫌だとは思わない。
嫌なら嫌だと言えばいいと思うし。

しかしそれを行動に移せばそれは「強い(無神経だ)からわからないんだ。この繊細な私の望みが」と
なって糾弾されるのです。
一部、友達づきあいをしている友人たちはいつも必ず、本当に必ずスケープゴートを
自分たちの中(コミュニティ)から創り上げています。
「ねえねえ、来月旅行行かない?B子にはナイショでさ(笑)最近B子なんかムカつくんだよね」
次の月になれば、来年になれば、B子はC子に変わります。
私にも「こいつにはなんか意地悪したくなる」というような理不尽な気持ちがあります。
あるけど私は一度「こいつ嫌い」と思ったら死ぬまで嫌いです。
執念深いのかしつこいのか一旦嫌いになったら覆りません。
だから嫌い、と思った相手とは付き合いを断ち切ります。
それも「強い(無神経な)人にはわからないんだ。この揺れる思いが」と糾弾されるわけです。

私の認識としては「強い」というのは「自尊感情が高い」とほぼ同義語です。
そして自尊感情が高いというのは「過不足なく自分を知ってそれに満足する」ということです。
なりたい、欲しいと願うなら目指せばよいもの。
自尊感情が高い人が必ずしも一般的に幸せかと言えばそうでもないでしょう。
高潔な素晴らしい人かと言えばそういうわけでもない。
じゃなんでなりたいのかと言えとそれが私にとって、楽な生き方で自然だと思うからなだけです。

欲しい人は趣味が悪いと言われようと猪木のDVDを買やぁいいのです。
私は「気にならない人」になりたい。そう強くなりたいのです。
そういう意味では私は全然「強い人」なんかではなく、「無神経な人」と言われると
自分で選んでそうしているにも関わらずくよくよと悩んで芋掘りをしてしまうのです。
ある意味「気にならない人」は無神経なのかもしれないけど。うちの夫のように。



2007年3月27日(火)AM:11:41に上げた記事です。

火が点いた「自尊感情」話。止まらない、止まれない、gogoギャルは止まらない~♪
強くなりたいなぁ。

ペキニーズりかちゃん

こういうこと書いてあるのを見ると微妙な気持ちになるし、んなここで書かんでも…と思うんだけど書く。
書くけど、具体的なので一応限定にしました。


娘のクラスのりかちゃん(仮名)が可愛くない。
最近、顔を見るだけでイラっとしてしまう。
きっかけは、りかちゃん(仮名)がうちの娘をぶったり、どついたりしているからなのだけど…。
りかちゃん(仮名)は毎朝、そしてお迎えの時間、必ず子の受け渡しをする入り口付近にいる。
毎日それはもうきっかり。

娘とは今年度から同じクラスになって、初めは「ちょち子ちゃんかわいい」と
べったりだったらしい。
私にも毎朝よく話し掛けてきて、あーでもないこーでもない言っていた。
「そのズボンかわいー。どこで買ったの?」
「あのねー、ちょち子ちゃんかわいーね」
「ねー、ちょち子ちゃんのパパは~?」
などなど、真剣にどうでもいいことをよく話していた。
あれこれ答えたり、娘の服について言及するので「りかちゃん(仮名)のお洋服、くまさんだね。かわいいね」
などと会話を発展させてみたりしていた。

それがしばらく続いた。
朝はそれなりにあれやこれや私も準備があるので、早々ゆっくり相手をしていられないのだが
出来る範囲で相手をしていた。
娘は朝とても機嫌が悪く、基本的な性質として好意があろうとなかろうと子供だろうと大人だろうと
慣れていない人に、相手のペースで関わられることがとても苦手だ。
だから娘はりかちゃん(仮名)があまり好きではないらしい。

りかちゃん(仮名)は時折「ねーちょち子ちゃんだっこしたい」と言うが早いか
娘をはがいじめ状態で数cmほど持ち上げようとする。
同じ年の子だから「だっこ」は無理だー。
と思い「ちょち子ね、だっこあんまり好きじゃないんだ。だからお人形にしてあげてね」
そう言っていたのだが、それは何日か続く。
そんな攻防が続いたある日、またしてもだっこしようとするりかちゃん(仮名)。嫌がり暴れる娘。
止める私の手を逃れ、自分の要求を満たそうと急ぐりかちゃん。
りかちゃんの手がずれてチョークスリーパーの形におさまったまま持ち上げた拍子に
ジャーマンスープレックス的に後ろへ共倒れた。
床に派手に後頭部をぶつけて泣き喚く幼児二人。

「こんのくそがきゃ~~!!!(ワナワナ)」ちょっちぷん心の叫び。

正直なところ、あやうくパンチくれてやる寸前でした。本当に数mmの寸止め。
普段、微妙なお年頃の子供たちを指導する先生は、微妙な問題なため強く叱ったりせず
制止して言い聞かせるだけだったのですが、このときはあわくって(ひょいパクひょいパク)
すっ飛んできて、私と娘に謝りながら、りかちゃん(仮名)をどこかへ連れ去っていきました。

このとき以来、さらにりかちゃん(仮名)のことが嫌いになった娘。
朝りかちゃん(仮名)が寄ってくるだけで泣き喚くようになってしまいました。
娘は一度機嫌を損なうとそれがかなり長く尾を引いてしまいます。
それは先生も困るわけです。午前中いっぱい泣かれたりするし。
で、りかちゃん(仮名)を朝他の遊びでひきつける作戦を決行したらしい。

ところがりかちゃん(仮名)は定位置(送り迎えゾーン)から離れるのをものすごく嫌がる。
翌朝も娘をひざに乗せて体温を測る私の背中に抱きついてくる。
翌々朝も座っている私に転がって甘える娘を押しのけて自分が転がってくる。
翌々々朝も娘を抱いている私の足に抱きつき、娘の機嫌が悪く泣いていたため相手をしてあげられずに
いると娘の足を思い切りつねくる。
翌々翌々朝も娘を抱きしめている私に必死に「ね!ね!ちょち子ちゃんのママかわいい!」と
話し掛けてくるので「今さよならしてるから、ちょっと向こうで待っててね」と言うと
突然「ちょち子ちゃんかわいくなーい!かわいくなーい!くちゃい!くちゃーい!!」と
娘の頭をぺしぺしはたき始めた。

「か、かわいくね~~!!!!!!!!」ちょっちぷん心の叫び2

娘がジャーマンを食らってからというもの、私は密かにねちっこく観察して
・どうやら私がいるとき、先生が娘を構っているとき以外はアウトオブ眼中
・送り迎えゾーンにいるのは大人と話したいという欲求が強いため
・他の保護者の方はすごいスピードで子を置いていくためほとんど話さない
・りかちゃん(仮名)は朝一番早くから一番最後まで最長の時間いる
・送り迎えは親御さんではなく家庭保育ママさんがする
・なぜかお母さんと一緒のときは目を合わさないどころか話し掛けるとしどろもどろになる
などなど、の情報を得た。

そこから大人の愛情を欲しているのでは、という推測を導いた。
深く応えることが出来ないなら、ほんの少しの偽善的やさしさは見せないほうがいいのではないか。
そう考えて、とりあえず少し距離をとることにした。
返答は何かをしていて忙しい、というフリをしながら真顔でする。
なるべく目を合わさない。
1週間もしないうちにりかちゃん(仮名)は娘を攻撃対象にロックオンした。

「ちょちくん(なぜか君づけに・笑)くちゃいくちゃーい!」
「ちょちくん、かわいくない!」
「ちょちくん、おうちかえって!」
「ちょちくん、ば~か」
しまいにはなぜなのかまったく理解できないけど

「ちょちくん、ちんちん!!!ちんちん!!!!」

と大声でわめき始めた。が、このときは先生にまたしてもどこかへ連れ去られて行った…。

「ち、ちんちん…!?なぜ!?」ちょっちぷん心の叫び3

部分的に発達が遅い娘は何かと手がかかるため、先生を独占することが多く
先生方がまだ赤ちゃんぽいところの抜けきらない娘を「かわいい!」とよく言ってくれている。
くるんくるんの巻き毛でくっきりぱっきり二重の目におそろしいほど長いまつげを持って
生まれた娘の容姿も先生は誉めてくれる。多分他に誉めるとこがないだけなんだが。
だけどりかちゃん(仮名)だって容姿が可愛いです。整ったはっきりした顔立ちだし。
しかし時々なぜか「ねー、ちょち子ちゃんママ見て~」と言ってペキニーズみたいな顔をする。
それと娘には市販のコンディショナーを使っているのだが、なぜか「いいにおい~(ハァト)」と言われる。
ちなみに関係ないけど周りの子はコンディショナーは使わないらしい。
使わなくても子供の髪ってさらさらだもんね。でも娘はもじゃもじゃなのよ。
使わないとひどいことになってしまうのだ。ばくざん先生どころか和田勉になってしまうのだ。
先生が軽い気持ちで「わ~、ちょち子ちゃんすごくいいにおい~」と言うと
子供だちは割と一瞬にして「ちょち子=いいにおい」と覚える。
で、結果みんながみんな「ちょち子ちゃん、いいにおい~(ハァト)」となる。
りかちゃん(仮名)はそれもおもしろくないため「ちょちくん、くちゃい!」なんだろうな。

そういうことがあるとき、りかちゃんは激しく娘をなじったり、隠れて軽くぶったり、どついたりする。
娘ばかりに愛情がかけられているように感じるのだろうと思う。
事情を知らなかったら大人でも「ちょち子ちゃんだけ特別なのかな?」と思うかもしれない。
ましてや子供には知る由もなく、わかるはずもない。
娘にかけられているのは愛情ではなく手なのだということは。
大人の視線や愛情を自分にむけるための、りかちゃん(仮名)なりの戦いなのだろうと思う。
それくらい必死に欲しているのだろうと思う。

でもやっぱり全っ然かわいくないうえに大人げなくフツーにむかつく。

娘には本当に手がかかるし、私は基本的に子供が好きではない。
たった一人自分の子供を育てるのに右往左往して四苦八苦している。
余裕なんて全然ない。わずかばかりにある余裕はすべて娘に使いたい。
りかちゃん(仮名)のような感覚を持つ子に対する関わり方は何通りかあると思うし
そのいくつかは狭い範囲でなら出来ないこともない。
だけどぐんぐん成長する今の段階で、さらに上記のような私の持つ「狭い範囲でなら出来る」は
後々りかちゃん(仮名)の精神面の成長の命とりになる可能性がとても高い。

りかちゃん(仮名)の親でないどころか、親戚ですらなく、ましてや可愛いと思ってもいない私が
簡単に関わっていいとも思えない。
私の偽善的な部分は「何か出来ることがあるんじゃないの?」とか
「狭い範囲でも、一時的でもきちんと向き合えるところがあるって思えるだけでも違うんじゃないの?」
などとも思っていたりもする。
幼児期の関わりは、すべてが人格形成の土台になる。
愛情のやりとりは本当にデリケートで形も様々だ。
狭い範囲でも関わったほうが良いことは多いし、様々な形の関わりは覚えて損はない。
損もないし、必要だとも思う。
だけど精神面の満足感に関しては別だと思っている。

思考のどこかで全身全霊でもって「簡単に何かできるなどと思ってはいけない」と叫ぶ私がいる。
たとえば、カンボジアや中東の子供たちは予防接種や最低限の医療
何より最低限生きられるだけの食べ物を必要としていて
彼らの人格形成はどうなのかというと二の次だったりする。
生きるための最低限必要なものすら手に入らないから。

不遜な言い方だけれど、私にとって物理的な支援はどちらかと言えばしやすい。
そして偽善的な気持ちも満足しやすい。
けれど、物理的には何ら困っていない子供たちの持つ精神的な支援は素人には難しすぎる。
意識しないでいられたら自然に接することで、それが結果的に支援になるかもしれない。
意識してしまった以上は、リスクやデメリットを考慮すれば引くのが最善策だと私は思う。
あくまでも私の最善策でしかないけれど。
人を思いやって、何かを行動に移す以前に、私は私を満足させて
私に余裕を持たせなければ、それはただいたずらに介入するだけになるとしか思えない。
よその子とよその子の親となればなおさらに。
友達や知り合い、ご近所さんとなるとまた少し違うけれど、基本は同じように考えている。


なーんてくどくど書いたけど、要はあれだ。かわいくねー!!ってことが吐き出したいだけです。
先週の金曜も
「ちょちくん、ちょちくん、ちょちくんよ~♪」と歌いながら娘に上履きを投げつけてきやがった。
最近はさすがに先生が目を光らせてくれているけれど、大人げなくぶつけ返してやろうかと思った。
これからもりかちゃんはある部分においては他の子よりも早く成長すると思う。
そのとき、成長の遅い、手のかかる愛情をたくさんかけられている(ように見える)娘への
憎悪が爆発しないことを祈りつつ今日も



「…っんとにかわいくねーなー!!!」


と心で叫ぶちょっちぷんなのであった。おしまい。
ちょっとスッキリ。


2007年3月26日(月)PM:0:52に上げた記事です。

りかちゃん(仮名)はあれからわりとすぐに、娘に飽きたようです。
新年度中のちょっちぷんに代わり、夫が代打を務めていますが
夫は別な子にムカついている模様。
曰く、「ちょち子のことアイツ呼ばわりしやがった!!」だそうで(笑)
溺愛ですな。

気になるニックネームの謎

マイケルがマイクやミッキー、クリストファーがクリス、トーマスがトムなんかは
なんて言うか、日本で言えばりつこがりっちゃん、しょういちろうが「しょう」みたいな感じでわかる。

ベアトリスやレベッカがベッキーなのも、クリスティナがティナなのも、セオドアがテッドなのも、
アンソニーがトニーなのも、エリザベスがリズなのも、微妙だけどステファンがスティーブなのも、
ヴェロニカがロニーなのもまあわかる。
これは、あれでしょ?「ひさひろ」とか「ひさこ」が「ちゃーちゃん」みたいな感じでしょ?

しかし…
ロバートがボブ、またはボビー、ウィリアムがビル、マーガレットがペギー、ロベルタやバーバラが
ボビーってのはなぜなのか。
もちろんロバートをロブ、ウィリアムをウィル、マーガレットをメグ、ロベルタをベル、
バーバラをバーブと呼んでいることもあるけど。
より名前に近い音や表記でニックネームがつくのはわかるけど、
いまひとつ想像のつかないニックネームなのはなぜだ。

一番納得がいかない、いや謎なのは…

『リチャードがディック』

それ別の名前じゃね?完璧に。
つまり、まりこなのにちょっちぷんくらい違くね?(ちょっちぷんの本名は「まりこ」ではありません)
ニューヨーク市のニックネームがゴダムあるいはゴッサムくらい謎じゃね?
ゴダムまたはゴッサム(でも英語の発音を聞いてるとゴゥタムて聞こえる)は
イギリスの地方都市にある村だよ?
なんでまた村の名前をでっかくなった市につけたのやら。
ちなみにスペイン語だとフランシスコがパンチョくらい謎じゃね?
前にメキシコ行ったとき
「帰りはエンジェル?パコ?」って聞かれて「へっ?」って行ったら
「ロサンゼルス経由?サンフランシスコ経由?」って聞きなおされた。
向こうではフランシスコはパコとも呼ばれていたりするらしい。

合衆国のことはアンクル・サム。
だれ?サムおじさんて。と思って調べたときに知ったこと。
昔、ニューヨーク州の精肉検査官サム・ウィンクルさんて人が軍用の肉に
U.S. (ユナイテッド・ステイツ)のスタンプを押したそうな。
それを見たその下で作業を受け持つ人たちは、彼の愛称「アンクル・サム」の略だと思いこんだらしく、
そこからどこまでも話は広がり、合衆国はアンクル・サムと呼ばれるようになったとか。
まさしく都市伝説!ミラクルだわ。

カリフォルニアはゴールデン・ゲイトだったっけ?
ニューヨークのバッファローがクイーンズ・シティだったり、
ノースカロライナのシャーロットがホーネッツ・ネストだったり。
インディアナ州はフージアがニックネームで意味は「開拓民の州」て感じだった。
シンシナティなんて豚の屠殺で有名だったからってポークポリスって呼ばれてるらしいし。
豚おまわり、ってひどくね?
ぜんぜん関係ないけど、なんだっけなアフガニスタンとかウズベキスタンとかカザフスタンとか
あのあたりの国名にはちゃんと意味があったなー。

パキスタンが清廉な国
アフガニスタンは山国の民
ウズベキスタンはウズベク人の国
カザフスタンは放浪者の国
タジキスタンが冠(タジク)の国
トルクメニスタンはトルコ人に似た人の国
キルギスタンが草原を遊牧する人の国

超漠然とした曖昧なイメージの中でパキスタンとアフガニスタンは中東、
それ以外はソ連崩壊後に独立、というあやふやな知識から
勝手に北の方(地球儀の上の方)にあるというイメージになってしまっているんだけど
全部近くなんですよね。←調べろよ
自分のこのめちゃくちゃなイメージを想像するとソ連崩壊が大きく関わっているので、
多分ソ連が統治していたり支配していた時代があって、
そのソ連がなくなって独立しただけなのに私の頭の中ではいい加減な情報として
「ソ連の一部にあった国」みたいなカテゴライズが行われていたに違いない。

うすうす「~スタン」の国々がパキスタンとアフガニスタンを除いて
ソビエトの中にあったのではないかといういい加減なイメージを
「おかしいだろ、それ」と思ってはいたのですが
こうして文字にするとますますありえない話に思えてきました(笑)多分ちゃんと中東にあるはず。
私の中にある適当かついい加減な漠然としたイメージの地理関係を
立体化した地球儀を見てみたい&見せてみたい。どれだけ人が衝撃を受けるか(笑)

調べたときに知ったけど、この国々は全部違う言語を使ってるのに
国名は「~スタン」と同じ部分があるのはなぜなのかしら。
…スタン・ハンセンとなにか関係が…
ないですね。ウィー!!

さて、話がいつものように大幅にずれましたが、地名なら様々な由来もありそうだし
ニックネームみたいに「なぜ!?」と思うわけではないのですが。
なぜかこの手のちょっと謎な知識をコツコツ溜め込むことに喜びを感じるちょっちぷんであった。

そんでもって、ちょっちぷん(多分)4月から短期間外へ仕事に出ます。
なものでまた結構留守しそうな予感です。
ひとつだけとっても不安なことが。
それは娘が生まれて3年間、家の仕事しかしていなかったわけでして…あ、家事以外ですが。
自営的な仕事ですね。だからずっと家にいたわけです。

ずっと「ママンはそばにいる」と娘は思っている。
けれど娘にとってはいつのまにか「家にあんまりいない人」となってしまう。
娘が私を忘れてしまうのではないかと、不安に思う次第であります。
これ以上パパっ子クラブ度が高くなってしまったら寂しいです。
帰ってきたら「アンタ、だれ?」って顔されたらどうしよう…。しょんぼり。
ちょっちぷんの新年度、久しぶりに始まります。すぐ終わるけど。



2007年3月17日(土)PM:4:49に上げた記事です。

リチャードがディックって、やっぱおかしくね?
~スタンはやっぱスタン・ハンセンと関係あるんじゃね?

…ないですね。ウィー!!

報告:娘のパパっ子クラブ度、思ったほど高まっていません。ほっ。

いまさらながら「胡弓」についての訂正

先日、私がまだお休みに片足を突っ込んだ状態の時期にいただいたトラックバック。
今日改めて読ませていただいたのですが、どうも胡弓という言葉が示す楽器としては
アジアの擦弦楽器全般を指した時期もあったものの、それは誤用であるらしい。

中国の楽器ならば胡弓ではなく「二胡」「高胡」と呼ばれる楽器のようです。

これらを混同してしまうことにより弊害(もともとの胡弓の名称が変えられてしまう等)が
生まれていることもあり、胡弓関係者や二胡関係者から
正しい呼称の使用が呼びかけられている、と書かれていました。
それもあり訂正として記事を書かせていただきました。

楽器についても詳しくないので、ぜんぜん知りませんでした。
ずっと中国の弦楽器が胡弓だと思っていました。
まだ記憶を正しく書き換えやすい30代のうちに正しい認識にめぐり合えて良かったです。
胡弓とは日本の楽器であり、こきゅう、と呼ばれるものと、クーチョー、と呼ばれるものとあるそうです。
トラックバックいただいた記事を読ませていただいてから、画像を調べて確認したところ
私が拝見したおじいさんの楽器は「二胡」と呼ばれる中国の弦楽器であったと思われます。
残念ながらあの日以来、おじいさんにはお会いしていないので
それについてお話も出来ませんが、次回お会いできたら今度は色々お話してみたいです。

詳しくお知りになりたい方はトラックバック先の音を奏でる道具たち様 をご覧ください。


以上、ちょっと訂正!の記事でした。



2007年3月11日(日)PM:2:13に上げた記事です。

長い冬眠から覚めたらいただいていたTBで、胡弓についてのことを知りました。
何事にも歴史と奥行きがあるものですね。
あのおじいさんにもう1度会いたいです。今年は会えるといいな。