共同体感覚という謎
追記2:午後10:30chargeupさんのコメントから情報をもらい再度挑戦。でけた!
でけたけど、何故かブログの文字がピンクから緑に変わった!なぜだ!
「共同体感覚」これについて書きます。
例によって、あくまでも私の個人的理解であると同時に、まだ現時点での捉え方ですが
私がこの共同体感覚をどう捉えているのかという部分を書いてみます。
ちなみに仏教にもこの共同体感覚を説明する言葉があり、仏教用語では法界縁起と言うそうです。
旅行会社が登山のツアーを組んで、申し込んだ人でパーティを組ませて登山するというのがありますが
ハイキングや軽登山はともかくとしても本格的な登山のパーティは
一朝一夕に組めるものではないという前提があります。
登山パーティには個々の役割があり、責任があるらしいのです。
単なる集まりでなく、共同体でなければなりません。
共同体たらんとするのであれば、旅行会社の添乗員は素人ではまずいですよね。
登山に対するアビリティーが高いわけではないですし。
平均値だけしか考慮に入れずに、何か事を起こせば
緩急があったときは平均値以下のものを持つ場合切り捨てるしか方法がない。
最もアビリティーの高い人がカバー方法や補助の方法を熟知し、指示し、理解の伴う訓練もしているはずで
パーティを作る全員がそれを具体的にも認識しているわけです。
付随するリスクや責任、そして与えられる役割や補助のために出来ることを思考しつづけること
と考えるにいたります。(考えるにいたっただけで理解しているという意味ではない)
そしてそれはさらに範囲を広げ、「自然の一部である」という形になっています。
いますが、心理学的に共同体感覚というものを考えるとそれはあくまで
「ヒト」という生き物のものが中心となります。
風土や文化も関わり、役割や責任も多岐にわたります。
しかもそれを全ての人間が自分のことだけでなく、他者の役割や責任についても
みながそろって同じ認識であるかどうかすら確認できません。
だからこそ「感覚」とするしかないのではないかと思うのです。
言葉で説明できず、必ずしも誰もが認識しているわけではないし高低の差もあるが必ず持っているもの。
そういう概念なのではないかと考えています。
日本における共同体はそこから更に強化され、独特の成長を遂げています。
心理を学んだ人であれば、この独特の共同体を基本として成り立つ社会を築いた
日本という国の文化には触れていると思われますが、明らかな理解があるかどうかは別です。
別ではあるけれど、人の根本的な心の持つ動きを紐解く(こうとする)のが基礎となっているので
文化や歴史、人種や風土によって変化する部分は枝分かれして、演繹的に成長してはいるようです。
共同体感覚というものが抽象的概念であることに代わりは無く
頭で理解するものではないという表現を使う人がいるのも頷けます。
困難ですが、個人的にはそれぞれの持つ「感覚」はどこかで必ず重なっており
理解の範囲や方向性は違っても持っているものだと思っています。
そもそも言語が違うので「共同体感覚」という訳で理解しづらいことは確かです。
さほど難しい言葉ではないにも関わらず、すんなり入らないのはそのせいもあるような気がします。
むしろ私がその類型にどんぴしゃで当てはまっています。
私はそういった特性を持ち、説教族になりうる可能性を高く持っていることに
さほど怖れは持っていません。
というのは、私はそれを認め抑制することを常に意識しているからなのですが
哀しいことに気をつけ抑制しているにも関わらずそういった特性は時折私を蝕み
気付かせずに発露することは絶対ないとは言えません。
今はその類型パターンの枠にいるけれど、成熟の過程で脱却するであろうと思います。
2007年7月3日(火)AM:10:05に上げた記事です。
いつかまた書くとしたら、これ関係のテーマは、もう誰とも関わることのない形で書く。
そもそも個人心理という形で始まってから何年も何年も毎日毎日考えつづけてるような人たちだって
簡単に答えを出すのは危険だとされていることの答えを急ぎすぎた。
いくらか考えただけで答えが導きだせるなら地球上の誰一人悩みなんて持たない。
登山にパーティなぞいらん。一人で登る。
終わった終わった
久々のフルタイムお仕事、無事終了しました。
3ヶ月はあっという間でした。
短期のお仕事なのに、人懐っこい私は超長く勤続したかのごとく色々な人に送ってもらい
あれこれ記念品をもらったり、写真を撮られまくって帰りました。
たまたま社の雰囲気とマッチしたのか、社員へのお誘いもありがたいことにいただいたのですが
丁重にお断りし、季節労働者として呼んで欲しいとわがままなことを言ってのけ最終日終了です。
3ヶ月というワンクールは多分、私も社内の良いところの方を知ることが多く
社員たちも私の良い面しか見ずに過ごせる期間だったので、良い形で終われました。
そんな先週金曜日。帰るなり喉痛。
「もう終わり」という緊張のとぎれたところに、
だましだましやってきた風邪との折り合いが崩れたのか超激痛。
ああ、またおととしのように私は2ヶ月近く寝込むんだろうか。
不安に思いつつ土曜に医者へ行き、眠りまくったところ今日はかなり調子がよく
喉の右側にいやがった、できものみたいな腫れも引いてきたようで
水分を取るのには痛みも出なくなっておりました。
いやいや。良かった良かった。
丁度、前回記事を書いてから金曜に業務終了するまで、最後の引継ぎ業務確認やらなんやらで
とても忙しく、帰ってからもコツコツとマニュアル作りをしていたり
娘が風邪を引いていたりで、ブログから離れていましたが少々骨休めをしてまた復活したいです。
とは言ったものの、若干波に乗れるかどうか心配ではありますが。
宿題も残ってるし、それとは別に書きたいこともあるし、ぼちぼちやっていくことにします。
以前の状態と同じように、土日祝月あたりは基本お休みしつつ平日昼間にのんびりの予定。
また年末近くにフルタイム発動の予定であります。
はふー。しかしとりあえず今は体調を整えることにします。
2007年7月1日(日)PM:9:27に上げた記事です。
気が付けばブログもいつのまにか始めてから2年過ぎました。
ブログ的にも「終わった終わった」感いっぱいです。今は全然楽しくないし書きたくない。
ような気がする。
体調は以前に比べるとあっという間に良くなり、ずっと治まらなかった咳も止まりました。
この季節の咳は多分アレルギー反応だな。
神と鏡と私とあなた2
神についてはあくまで個人的な前提です。長いけど。
私は叶わない「事」はあるけれど、適わない「者」は持っていないのです。
物理的に適わないことはたくさんあるけれど、私にはそれを劣等として受け入れる余地がないのです。
もちろん、以前触れた「優越欲求」は私も持っていますが
基本軸は相対性のものでなく絶対的なものなのです。
絶対的な価値観が軸とは言っても、相対的価値観を持っていないわけではないので
凹むこともあれば、哀しいこともあり、深く傷つくこともあります。
あるけれど、絶対的な価値は揺るがないわけです。
それを踏まえて再度心理学的側面からではなく個人的思考から本題を考えてみます。
【引用1】
「個への好意と彼らが属する集への警戒は矛盾なく存在する」(要約)
という内容が登場します。ならば
「個への警戒と彼らが属する集への好意は矛盾なく存在する」
はずです。
「他人が助けてもらうのを非難する人に寛容であることができない」
まではよくても
「人に助けてもらって生きているくせに」
を前につけてはいけないのです。
【引用2】
「何故他人が助けてもらうのを非難する」というメンタリティがあり得るのか、を問うことは、同胞に石を投げることにもなりかねない怖さがあります。
【引用3】
「神はいない」「同胞に石」は同種の禁忌なのでしょうか。
この部分です。
実は私はこの部分を理解するのに、結構な読み返しが必要でした。
私の中では上手く繋がらなかったのです。多分ばかだからだと思います。
引用1の前半部分、AをBと入れ替えてもまた事実、という形式について最初は考えていたのですが
それでは私の思考は上手く繋がらない。
そこでこの1例に限って考えてみました。
私はAさんに好意を持っているが、Aさんの属する宗教団体には警戒心がある。
逆。私はAさんの属する宗教団体には好意を持っているがAさんのことは警戒している。
ありですね。個人的には完全に存在する感覚です。
宗教団体、とするとフィルタがかかりやすいので別のものに。
☆Aに好意を持っているが、Aの通うミュージックスクールは胡散臭い。
☆Aの通うミュージックスクールは素晴らしいが、Aのことは警戒。
☆Aに好意を持っているが、Aの職場(マルチまがいの商法、ベンチャー企業、先物取引)は警戒する。
☆Aの職場(マルチまがいの商法、ベンチャー企業、先物取引)には好意が持てるが、Aを警戒。
☆Aには好意を持っているが、Aの母国のことは警戒している。
☆Aの母国には好意を持っているが、Aを警戒している。
普通にありますね。
私個人の考えでは、逆にしても同胞への石にはならなさそうに感じます。
しかし同胞の中に相対的価値軸へのウェイトが非常に重い人がいたらどうでしょう。
共同体感覚と勘違いされる(いや非常に似通っているのほうがいいかな)、属性への愛です。
一神教的一元論の愛ゆえに他を排除する形の愛なら
「仲間に石を投げるなんて!!!!!!」となるかもしれません。
一元論的に他を排除していくしかない形の成り立ちを必要とするとなると、同朋に石となる。
それは引用1の「他人が助けてもらうのを非難する人に寛容であることができない」が
絶対価値感軸に基づいているものであり、「人に助けてもらって生きているくせに」が
相対価値観軸に基づいている違いにも如実に表れているのではないかと思うのです。
相対的な事物を表明することは、関わりの形や成り立ち、定義の統一、ルールの共有が必要になる。
それは、ごく限られた人数でしか成り立たない。または複数であることでは完全には成り立たない。
のではないかと思うのです。
しかも「社会」という複数の人間が生きるステージは非常に一元論的常識が根強い。
相対軸を中心に考えれば「神はいない」は大きな禁忌になると思うのです。
人は一人一人少しずつ、そして大きく違いますから。本当は統一できることなどほとんどないのでしょう。
しかし絶対軸を中心に考えれば「神はいない」という4つめの選択肢も生まれるでしょう。
自分ひとりを統合し、統一した思想を基に生きるのは可能です。
この相対的価値観と絶対的価値観は脳性理学における「共感」を研究する中でも大きなテーマです。
科学的な反応としての心の動きと、それだけでは測りきれない「情動」においても
非常に重要なファクトであるとされ、大変多くの議論、そして研究を重ねているようです。
現時点での私の結論としては、相対的価値軸としての「神」との戦いは
戦ってでも勝ち得たい何かがある人は負け戦に挑むと思います。
迎合を望む人もいるでしょう。共存を望む人もおり、神と離れて生きる人もいる。
そしてそのどれもが、何かを失い、何かを得、そして最後は鏡と戦うであろうと思っています。
2007年6月16日(土)PM:2:02に上げた記事です。
ある種、私は「日本人として」「社会に生きる者として」のものすごく大きな欠陥のある人間です。
それがこのシリーズを書いて身に沁みました。
協力したり、妥協したり、苦しんだりするくらいなら孤独と不便を選ぶ。
曲げたくないところを曲げねば共存できないのなら山奥で一人で暮らす。
種としては非常に劣った、役に立たない生き物です。でもそれでもいい。
私である誇りを失うくらいなら。
神と鏡と私とあなた
chargeupさんにいただいたコメントの「シリーズ化」という言葉に食いつかせていただきました。
と思っていたのですが、これは相当心理学が好き(変な表現)な人でも読むのが面倒だろうなぁと思うのと
心理学自体を大まかに説明出来なければいかんだろう、という考えのもと
荷が勝ちすぎであると判断して、中止しました。
心理学は科学的、物理的に「現段階では事実である」と証明されている部門と
了解学的部門にわかれており(厳密にはもっと多岐にわたります)同じ心理学を学ぶ人の間でも
激しく対立している部分があるので難しいです。
とはいえ、神という概念に触れるのもなかなか難しいです。
神という概念の定義は個人差が激しいからです。概念としてしまうことすらいかがなものかと迷います。
ここではとりあえず暫定的に「概念」とさせていただきました。
かつ何がしかのやりとりを産める関係性であると考えることは、私にとっては困難です。
まず、それを考える人にとって「神」が対等なものなのか、自分より優れた存在としているのか
相対的な存在なのかを決めねばなりません。
決めねばならぬと言うのは、仮定です。信仰ではありません。論ずるための便宜的な定義です。
特別な信仰を持ってはいません。
判断は大方、自分の生きてきて見聞きした狭い体験をもとに決断します。
そういった考え方は日本における「八百万の神」という多神教に通ずると言われますが
多神教は厳密には宗教とは違っていると私は考えています。
そして私は、神や、またそれに代わるようなものを感じたこともなければ
それに値するような感覚もまた経験したことはありません。
ただ、過ぎてゆき、ただ、無数のパターンを感じているだけです。
発生していることを鑑みると、一神教とは根本からして違います。
神が創ったすべて、人が創った概念の神、そういう違いがあります。
神であることにかわりはないと考えれば、そうともいえるかもしれませんが。
また、「攻撃的な多神教」は一神教の攻撃性と非常に似ているとも思います。
一神教は絶対的存在を持ち、それが唯一の真理であるゆえ排他的なのは当然と言えば当然です。
寛容に他の絶対的存在を認めるならばそれは一神教ではない。
そしてそれゆえに支配的ヒエラルキーを持つコミュニティとなる。当然といえば当然です。
私はこれが「宗教」と名のつくものが怖れられる大きな一因だと考えています。
むしろ苦しみや一般的な不幸を多く含んだ年月でしたが、今のところ信仰を求めたことはありません。
親は持っていましたが。否定もしないし、それに対して不満もありません。
強いて言えば、親の持つ信教をまた信ずる人々が当然のように、教義を前提とした
「教え」(生活規範や世間への価値感、また自身のあり方含む)を私もまた持っているとし
さらにそれを執拗に「集う」ことで示せと押し付けられることには今も辟易しています。
なぜなら多くの宗教は一般的に「絶対的」なものを一つ持っているからです。
ある種のヒエラルキーが存在しています。
多神教においてもまた、ある種のヒエラルキー、食物連鎖などが存在しています。
そしてそれは置き換えるとするならば(置き換えられるわけではないです)
自分自身が自分のためだけの神であると言えるあり方なのです。
これは多神教のあり方とは明らかに違い、むしろ一神教における神の概念に非常に近い。
近いけれど、私は神だ、と言っているわけではありません。
自分を上回る、自分を創り給もうた絶対的な存在を持っているのとは違うだけです。
そこに何らかの意思を持つ偶像的存在を感じてはいないということです。
自然は自然であり、それ以上でもそれ以下でもないというのが私の基本的な考えです。
それは私という人間もまたその1つであり
それ以上でもそれ以下でもないと考えているということでもあります。
関係性をもとに自分を考えるというのは「相対的」でしかない。
しかし「個」である私の思想や行動パターンは、私という「絶対的」なものが決断するわけです。
日本の文化としてある「八百万の神」という概念も「絶対的」である唯一神という概念も「相対的」です。
唯一神、一神教の一元論的な思考と違っているとは言え、相対的なものであることに変わりは無い。
それを前提としているため、「神はいない」とすること、ひいては必要としない
つまり相対的でない価値観、自尊感情と繋がると考えます。
それはもちろん相対的なものの数だけラインが変わってくるということでもあります。
私の中に相対的な価値は何一つないわけではありませんが、私は私という絶対的なラインを信じます。
まず第一に。仮に、その思想を誰かに排除され、誰かに非難されたとしても。
ただしそれは非常にいやなことです。
非常に嫌なことではあるけれど、生きるために必ずしも必要ではないとも私は思っているわけです。
他者の心のありようはいかに優れたルールや
いかに優れた社会でもコントロールするわけにはいかないのです。
(それについて、というのが私がこのブログで最後に書こうと決めている
わたりとりさんに誓った(勝手に)テーマ両翼の権利です。)
いつか記事の中で「神とだって闘う」と書いたことがありますが
私にとってそこでの「神」も畏敬の対象ではなかったと思われます。
あくまでも、神は自分自身なのです。
自然とも戦いません。仮に私に何らかの押し付けを為したとしても。
そのヒエラルキーを私は受け入れていて、そしてそのヒエラルキーに畏敬の念を感じているからです。
2007年6月16日(土)PM:2:00に上げた記事です。
神というテーマは一人であれこれ考えるには楽しく面白いテーマです。
ただしそれは信仰としてではなく歴史的に、心理的に見る「神学」的な研究です。
人がそれぞれ心に持つ「神」はその人個人のものであり、共通する部分は非常に少ないと感じます。
それゆえ公の場で何かを検証するためにはあまり有効に使える概念ではないなと改めて思いました。
その何かが神学的探求なら必要不可欠とは思いますが。
それ以外においては前提が違いすぎます。
それと一つしつこく言っておきたいことが。
「神は自分自身」ここだけ読んで勘違いされるのだけは嫌だなーと。
私が神を自分自身であると言ったのは、「自分以外の何か畏敬的、かつ支配的存在を持たない」
そういう意味で言っています。
万人にとって「私が神だ!」と言っているのではありません。
ゆえに私の言う「神」は私のためだけに、私にのみ畏敬的かつ支配的に存在する、という意味であり
それは「自分以外の何者か」ではなく私自身である、
つまり鏡に写る、私が意識していない私自身という意味です。
影響も存在も全ては私しか知りえず、誰にも何かを与えることも何もない。
Clementia
アラバストロにあるアラバストロス 中にあるのはアラバスター アラバスターはしんと輝く
アラバスターはパルテノンに行きたかった
コロッセオに行きたかった
タージ・マハルに行きたかった
ジュリオ・チェーザレに会いたかった
アラバストロのヴードウワ アラバストロスに入れられた
アラバストロスの中でしんと輝き サブ・ローザ
贈られたアラバスター アラバストロスで眠るふり アラバスターはしんと輝く
アラバスターはパルテノンへ行く
コロッセオに行く
タージ・マハルに行く
ユリウス・ツェーザーのもとへ行く
アラバストロのアラバストロス 中にはカルヴァドスが注がれて アラバスターはカルヴァドスに浸される
「ヴュー・ハルー!」
「ヴュー・ハルー!」
急いで 急いで
逃げて 逃げて
手の届かないところへ
四方に飛び散る弾の届かないところまで
「ヴュー・ハルー!」
「ヴュー・ハルー!」
アラバスターはどこまでも どこまでも どこまでも キツネのように 飛ぶように
「ヴュー・ハルー!」
「ヴュー・ハルー!」
声が聞こえなくなるまで
アラバストロのヴードウワ アラバストロスの中のカルヴァドスに浸されたアラバスター
アラバスターはパルテノン コロッセオ タージ・マハルへ ユリウス・カエサルと 飛んでゆく
そっとつぶやく 「Alea jacta est…」
薄髪のカエサルと微笑む アラバスターはどこまでも
2007年6月3日(日)PM:5:45に上げた記事です。
アラバスターは石の名前です。
大理石の仲間みたいなので、行きたい場所、会いたい人を大理石で有名な場所や人にしました。
ジュリアス・シーザーとダイレクトに使うとインパクトが強そうなので、色々な国の彼の呼ばれ方を使いました。
「ヴュー・ハルー!」という掛け声は狩りの際、キツネが出たときに掛ける言葉らしいのですが
カモが来たぞ、みたいな使われ方もするみたいです。
外国語をカタカナで表記するのは、私が好きな書き方ですが、色々な国の言語を入れ込むとまた良いです。
たのしかった きんようび~
やっと1週間終わった…。
なんとお仕事期間延長決定。6月も働くもとちくれったでございます。
しかし、通勤電車。あれがなかったら仕事って半分くらいストレスがないような気がする。
今の短期派遣状況&今の職場に限って言えばストレスの9割解消デスメタル。
やべー使っちゃったよ。ぜってー食いつく(笑)
そんなわけなので、多分就業中はあんまり頻繁に更新できないし
ちから☆メンの真似して裏ゲスブきらーん!を作ろうかなー。
雑談できるしねぇ。てことで意味のない更新。
以前もやった、ぷち日記風にこの記事に更新することにします。限界LOVERSで。
すみません、ちょっと遊んで帰ってきたのでテンションがおかしいですか、そうですか。
5月19日(土)
昨日のテンション明らかにおかしいですね(笑)いつも変なのですが、明らかに線を越えているときがあります。
こんばんは、ちょっちぷんです。
起きたら毎週恒例誰もいない。仕方が無いのでお部屋を片付けて掃除。
そのうち娘と夫が帰宅。ちょっちぷんはJP宅へ。
夕方帰って娘と遊んで、食事して入浴して片付けして娘就寝。
その後夫と、色々話をして今に至る。もうそろそろ寝ようっと。
週末はこれでもか!というくらい寝まくりまくりすてぃです。寝ても寝ても眠い。
AM:0:07
20日(日)
今日も起きたら夫&娘はいませんでした。
なのでお布団を干して掃除。お昼ご飯を思案して準備をしていたら帰宅。
お昼を食べて娘のあれやこれやをして昼寝の準備。
ほっと一息の娘の昼寝タイム。のんびり読書&猫の相手。
夕方ぶらりと買い物に行き、また片付けやら家事をして夕ご飯の準備。
仲良く夕ご飯を食べて入浴して今にいたります。
ああ、週末ってあっという間に終わるわぁ~。
ちょっとブログタイムして、寝ます。来週もまた5日間早く寝ようっと。
PM:10:00
21日(月)
昨日、一昨日と打って変わって(これは野球用語だろうか)今日は一番のりで早起き。
最近、娘の夜中起きが治まりつつあり、安定して寝てくれるので助かります。
月曜日、これぞ5月というような(5月は本当は雨が多いらしい)湿度の低い(これ重要!)爽やかな一日。
なのになんだか気持ちはすかっとした感じでもないのは何故?週の初めだからかしらん。
帰ってからもみぞおちのあたりがなんだか重いような…。年齢的なものかしら…。
あ~、腰痛いし足だるいし眠い~!
みなさん、今週も頑張りませう…。(オマエと違って頑張ってるっつーの、JP以外は)
PM:10:20
25日(金)
ひいいぃぃぃぃ~~~!!!!!!
何故か月曜の次が金曜になってる!!!!!なんでっ!?どうしてっ!?
それはオマエが気を失っていたからだよ…ふふふ…(魔女の声)
こんばんにゃ、ちょっちぷんだす。気付いてみれば金曜日。
今日は仕事の後、会社でコーヒーを飲みながら博多とおりもんを食べて、まっすぐ帰ってきました。
久しぶりにフルタイムの外仕事に就いて、今週で1ヶ月と半分くらい過ぎ、
緊張感も薄れ、慣れもあるのか異様にダルいし、眠くて眠くてたまりませんでした。
毎日、お風呂から出て髪を乾かしていると軽く白目をむいてしまうほど。こわいって。
それが大体午後8時30分から9時のことです。信じられない。
一日パソコン仕事をするせいか目もしょぼしょぼで、ブログも長時間できないし。
そのうえ、なんだか重い。待っている間に軽く居眠りですよ。
ほんと、年取ったんだな~。30代って社会ではひよっこ、だけど身体は衰えるイケてない年代です。
今日もちょっと早く寝よう。また明日…。
.o○(いつまでこのスタイル続けるつもりなんだろう…)
27日(日)
今日は、夫のじいばあの誕生日プレゼントを買いに浅草に行ってきますた。
かわゆい和手拭と扇子と夫婦湯飲茶碗を買いました。
吟味に吟味を重ね、さらに迷う私に、お店のおじいちゃまはお茶とお菓子を振舞ってくれました。
ごちそうさまでごわした。
金曜の晩、早く寝すぎたうえに土曜の朝(というか昼)遅く起きた、だけでなく
がっつり昼寝まで3時間ほどしてしまい、さすがに昨日の晩はなかなか眠れず3時近くに
やっと就寝、しかし今日は予定があるので8時起床。ね、眠い…。
娘の昼寝タイムに合わせて帰りたいので、午前出発が基本のちょっちぷん宅であります。
暑かったけど、なかなか爽やかで気持ちよかったです。
お昼に念願のつけ麺をいただき(めちゃウマの天丼と迷ったが美味しかったです)
帰宅いたしました。
28日(月)
こんばんは、ウィリアム・ローズです。
あのね、コブサラダって、ハリウッドのレストランオーナーのコブさんが
常連さんのために作った「まかないサラダ」から出来たんだって。
キユーピーのHPに書いてあった。
コブってなにさ、と思って今日も気になったからググった。
頭痛い。風邪が席を南下していて、ちょっちぷん最南端。ガクブル。
でも、とても涼しくて心地よいです。湿度が低いままだったらもう少し気温が高いほうがいいけど。
おやすみなさい。
PM10:40
29日(火)
・フランクカールトンセラフィーノフェラーノ…。気付いてもらえなかったね。
・頭が痛いです。微妙に風邪をひきそうな危ういあたりで踏みとどまっています。
・それも1ヶ月くらい。すごくね?(すごーい)
・今日は娘にシカトされています。最近ずっといないからご立腹みたい…。
・あの長いシリーズを終えてから、なんだか気が抜けたような。
・左肩が重い。
・腰痛。
・私の仕事を引継ぎする新人女性が、1業務につき10分くらい宙を見てぼんやりしています。
・ダイジョウブかしら…。
・おやすみなさい。
PM9:55
31日(木)
・5月も終わり、早いなぁ。
・相変わらず左肩凝り最強。
・久々にかなりのイラムカ。もう話し聞いてやんね。
・人生で最も自画自賛出来る言葉を贈れた子と会った。すごく嬉しかった。
・帰宅して、一息ついたら気分悪くなった。
・胃のムカつきが。
・安産祈願。無事出産できますように。(私じゃないよ)
・あと1ヶ月。
・仕事してると精神状態が違う。
・ほんとキモチワルイ。おやすみなさい。
PM10:40
6月3日(日)
・昨晩、また救急車。
・昼間は熱もなかったのに。
・しかし今回は幸い、救急で診てもらっただけで急激に回復。
・とはいえ、まだ油断は出来ないけど。
・のんびりブログでもと思ったけど叶わず。
・TBは次週改めて。
・自分のキモチワルイのふっとんだ。気が張ってる。
・とりあえず今日は他の記事アップして終わります。
・でもこの記事はひっそり続ける。
PM5:40
10日(日)
前回から1週間経ってしまった。娘の具合が悪くなるとやっぱりブログは出来ません。
というか忘れてしまう。
今は外で仕事もしているのでなおのこと、自分の心の動きやらなんやらを考える余裕もなく。
娘も今回は入院なんかの大事にならず、比較的早く回復を見せてくれたので良かったです。
週の後半あたりから元気になってきて、週末は通常通りに回復しました。
お見舞いのお言葉ありがとうございました。
今日の昼間からやっと、宿題に取り掛かり始めましたが手ごわいです。
自分の中で興味の強いテーマのことを書くと文体が攻撃的というか、感じ悪くなっているような気がして
何度も推敲します。宿題2つを同時進行中ですが、明日片方上げられたらいいなーと思いつつ。
しかしもう少し煮詰めたいような気もしないではないし。
でもでも、寝かせておいたところで大きく変化はしないであろうし。悩みます。
悩むけど、こういう悩みはなかなか楽しいものでもあります。
職場の女性に「めぞん一刻」を借りました。
なんて言うか甘酸っぱいです。ある一時からとんと恋愛ものを見なくなり随分経ちます。
久しぶりに恋愛ものを読んだような。
金曜日、新入社員の歓迎会&私の歓迎会兼送別会の場を設けてもらったのですが
始めは週中設定だったので、丁重にお断りしたら、そのためだけに金曜に変更してくれてしまい
申し訳ないやら、なんやら。絶対参加しないとまずいじゃん、それ。
そのときの話題は、もともといた事務の女性と新入社員の男女、計3名の独身者の
恋愛話が主で、そういうことを話すのが苦手な私は作り笑いで顔が痛かったです。
人数が少ないとぼーっと出来ないということを思い出しました。
でも、久しぶりに恋愛に対する価値観や、現状の話を聞いていて
もう私にはまったく関係の無い、そして2度と訪れないことなんだなぁと実感。
不思議な気持ちと、安堵感を味わいました。
いや、しかしもう(おそらく)2度とないとなるとなんとなく寂しいような。
その後での「めぞん一刻」だったのですが、それで充分堪能しました。やっぱりもういいや(笑)
さ、寝よう。おやすみなさい。
AM1:25
11日(月)
記事はやはり間に合いませんでした。
胸の中でうごうごと蠢いている気持ちをスカっと表現したい。
スカっとでなくてもいい。ドロっとでも、ガバっとでも。なんでもいいから出したいな。
でも神も心理学も、ある一定のラインから先に行こうと思うと途端に難しくなる。
簡単に自分が感じている曖昧な感覚を書いたことが、誰かの土台になってしまうと思うと怖い。
でもじっくり書く。
それで…。
頑張りすぎちゃだめだよ。
誰が何を言っても、私は大好きだよ。
誰が何を言っても、間違っていることなんて正しいことと同じくらいほんの少しなんだから。
それで…。
元気に楽しく笑えますように。
広い大地も、高くて透き通る大空も、あの高くて険しく見えるひんやりした山もみんなあげる。
可愛い花も一緒に見よう。美味しいものも一緒に食べよう。
それで…。
いつもは離れて静かに眠ろう。
宙に浮かんで、涼やかな空気の中で。
大丈夫。絶対に大丈夫。
ちゃんと出来てる。
おやすみ。おやすみ、私の大事な友だち。
PM11:40
12日(火)
は~…、元気づけても元気はなかなか出ないよね~。そうだよねぇ。
自分のでも人のでも、小さな不安みたいなのがあるのを見るのは切ないような苦しいような。
みぞおちのあたりに大きな漬物石が鎮座ましましてるみたいだよ。
背中がこわばって眠れない。
頑張れ、頑張れ。
だけど、どんなに心で思ったって、そんなのは伝わらない。
行動したって伝わらないんだから、思うだけなんてもっと伝わらないんだ。
どんなにどんなに心を痛めて、一人ひっそり涙を流したって
そんなの伝わらない。
伝えたいんじゃない。わかってもらえないのが悲しいだけ。
全部自分のため。自分の心が痛いだけ。
大丈夫なんて、どうして言える?
だけど、だけど、元気でいて欲しい。笑って欲しい。
楽しいよ、って思っていて欲しいよ。
私は頑張る。泣いても頑張る。
頑張れ、頑張れ。
娘と一緒に眠って、明日も頑張れ。
PM:10:50
5月19日(土)AM:1:20に上げてから続く記事です。
とりあえず、字数の制限一杯になったので終わりです。
裏キラ第2弾はどうなるか未定です。今何も考えたくない。
鏡との戦い
属性が被っている事でしか人は戦わないのではないか、と錯覚するほどに多く見聞きします。
私はそれを本能的な優越性が原因と考えています。
無意識的に比較対象としやすいのは、似た立ち位置にいる人です。
それが被れば被るほど、望む形が得られなければ憎さ100万倍になりやすい。
外見で言えばむしろフロイト派であります。(全然関係ない)
優越性を追及するということは、劣等感を持ち続けるということでもあります。
ただし、アドラーの説では「だからポジティブであれば結果は自ずと望ましい補償となる」という結論付けです。
このあたりには私は頷けないし、結果の一つであるとしか考えていません。
もちろんそれだけではありませんが。
人はダイナミックで単純でありながら、計り知れないほど複雑な感情を持つ生き物です。
複雑な感情は小さな小さな出来事が育て、相対的な関係性から土台として認知されていきます。
その中の部分的な損害が、劣等感を歪んだ形の補償へと向かわせていきます。
その一つが「似た立ち位置の存在への投影」です。
自分が戦うことを避け、相手に戦わせるという形になるのだろうと思います。
通常、人の感情は些細な出来事や、身体のバイオリズム、健康状態、収入状態、充足感
数限りない理由で線引きの部分が揺れ動いています。
それが比較的安定している人もいれば、常に不安定で、気分屋、情緒不安定といった評価を持つ人もいます。
線引き部分が揺れ動くのは何も情緒不安定なせいだけではありません。
逆に絶対的な認知・評価・価値の部分は他者が「変!」と言おうと決して揺るがなかったりもします。
感情だけでも相当複雑なうえに、線引き部分も揺れ動いているため
人はダイナミックで単純なのに計り知れないほど複雑な生き物となりうるのです。
これは生命体的観点で言えば弱い生き物となります。
感情部分に大きなウエイトを占められている、つまり相対的、共同体感覚を強く持つというのは
自然界の生き物の性質としては非常に弱いものでもあります。
共同体でしか生き長らえないのですから。
その中で、優越性を求める部分の自己評価を高めたいという欲求が最も強いタイプで支配的な人は
自己評価が他者によって脅かされていると関連付けるため、ある自衛テクニックを使います。
それが説教であると言えると思っています。
常に上からの目線による言葉使い、文脈のジャンピング(論旨すりかえ)そういった抑圧的な武器を駆使して
相手との位置関係を一見操作していると感じさせ、自己評価を高い位置へと持っていき自分自身を守るのです。
自分を傷つけることによって、他者を傷つけるという行為です。
内省も言わば武器として使うとすれば、ここにくくられるでしょう。
それを認識しているかいないかによっても、長いスパンで見た自尊感情の発達には大きく影響します。
優越を欲するのは決して悪いことではないと個人的には思っています。
それが相対的に過ぎ、かつ支配的であることが他者を抑圧する行為へと変化しやすいのだと思うのです。
たくさんいるにも関わらず、大きな問題として扱われることがないのは
人には自己治癒能力が備わっていることや、誰しもがそういった攻撃者の持つ特性を持っているからでしょう。
自らの内に潜む罪の芽となる部分を、どこかしら認識し、罪悪感を持って生きているから
赦すことも出来るのだろうと思っています。
赦すことが出来ないことを、忘れる(たかのように意識付ける)思考体系に組み込む、という
比較的ポジティブに見える行為で自衛したり、自分を責めさいなむ、傷つけるという
進むべき道としては険しく切ない行為で自衛したりしてだましだまし生きられてしまったりもします。
実際、より多くそういう抑圧を受けざるを得ないケースというのも往々にしてあり
「みな同じ」というくくりへと答えを見出す人の多くは、そういったケースを想定できないのでしょう。
想定できない以上、知らずに犯す罪もあるでしょう。
当然、自分が常に人より少し高い位置にいるという自己認識であれば、知らないことを
人に突きつけられたときに、とっさに少し低い位置に戻ることは出来ないだろうと思います。
気付いたときに、フタをしてなかったことにする人はそこから「平気でうそをつく人たち」となるのです。
声高に「善を施せ」と主張しながら。
けれど、それは必ず、繰り返しますが、必ず自らを大きく傷つけ、徹底的に損なうのです。
1:アドラー心理学入門/ロバート・W・ランディン/前田憲一訳/一光社
2:アドラー心理学入門~よりよい人間関係のために~/岸見 一郎/ベストセラーズ
3:アドラー心理学教科書(実践カウンセリング)/現代アドラー心理学研究会編集/ヒューマン・ギルド出版部
4:アドラー心理学の基礎/ルドルフ・ドライカース/宮野栄訳/一光社
5:感情はコントロールできる 幸福な人柄をつくる/D・ディンクメイヤー、G・D・マッケイ/柳平訳 /創元社
6:人はなぜ神経症になるのか/アルフレッド・アドラー/岸見一郎訳/春秋社
7:どうすれば幸福になれるか(上下)W・B・ウルフ/前田啓子・仁保真佐子訳/岩井俊憲監訳/一光社
心理学も哲学と同じく生きている学問であり、常に原題に引き戻される部分は多々あります。
最終結論であり、絶対真理ではありませんが、現段階ではの結論は得られます。
そこで、現代アドラー心理学からさかのぼってゆくのが最も理解しやすいのではないかという
説をとり、私はこの順番で読み進めました。
現在は図書館やネット上で、付随する文献などに飛んでいるのと、アドラー以外の心理学者のものも
並行して読み進めているため、この手持ちのものでストップしています。
アドラー自身の著書は少なめで、難解かつ読みづらいという印象を受けました。
アドラーという冠のついていない本のタイトルだけ見ると、それもまた納得できます。
私は心理的側面について知りたいだけであって、悩んでいるわけではないと
説明するのはなかなか難しかったです。
2007年5月13日(日)PM:2:41に上げた記事です。
宿題あるので追記は控えます。
差別したい ~これがエピローグ~
出発から思いっきりコケたこのシリーズもなんとか完結出来ました。
プロローグとエピローグ、よーくわかっているつもりだったけど
身に付いていないってのはこういうことを言うのですね(笑)
このシリーズを書くにあたって、初めにいくつかざっと専門書に目を通しました。
主に心理学と哲学系統のものだけれど、途中では一切手をかけないことにしました。
それは、なるべく率直で、愚かしいほど素でありたいという欲求があったからです。
まあ私がずるくて、卑怯で、愚かで、浅はかで、自分本位なのは、そんな欲求を持つまでもないのですが。
そういう自分をそのままで良いと思っているわけではないし
いつか何かしらの出会いや実体験から体得していきたいと思うけれど、今はそんな自分がいとおしいです。
それは私が今、少しずつ様々なことから自尊感情を育てることに成功しているからだと思っています。
そういう初期の段階で、このシリーズを書くという機会を作れたのはラッキーだったと心から思います。
途中、ふと「誰も読まないのにこんなところに書くのは変?」と、ふと思ったことを書いたら
お友達が、読んでいるよーとコメントをくれたことで読んでくださる人もいるとわかったし。
その節はコメントを要求してしまってすみませんでした(笑)
けれど嬉しかったです。本当にありがとう。
そういう疑問を持ったことから「誰も読まずとも何かの拍子に偶然、誰かの目に入る場所に書くこと」で
より率直さを求められたというのも、ありがたいことでした。
そして、それがブログに書くという一つの理由であることも再確認できました。
記事中、自分に誠実でありたいというような記述をしましたが、
一見とても立派そうに見えるこの言葉がどれだけ自分本位で、どれだけ人を突き飛ばす行為へと
代わる可能性のあることか、そういったことへも思考は飛び散り
散々寄り道をしたのもまた満足のいくものでありました。
実は「もう少し踏み込んで、もう少し書きたい」と、長文にも関わらず毎回思っていました。
反面、相当退屈な自分語りを思い切りしたことで、充実感を得たりもしました。
今の時点では満足しています。
なんだよ、このエピローグは。
出来の悪い雑誌の編集後記、いや、学級新聞の編集後記かよっ。
いやぁ、なんと言いますか、特にもう書くことなくなっちゃったんです(笑)へへへ。
以上、この記事を持ちまして、このシリーズは終了です。
お友達のみなさんには、こういう内部を探検したくなる記事にめぐり合わせてもらって本当に感謝しています。
2007年5月6日(日)PM:8:50に上げた記事です。
これにて完結。
差別したい ~6・暗がりで考える~
◆お断り◆
毎回鬱陶しいほどに、くどくどと書きますが、今回のテーマはあくまでも
他者の、万人の中にある差別・偏見を糾弾したり、それを問題としているのではなく
自分自身の差別・偏見の元となる価値観や基準から、それを実行するまでの変化の部分を
解きほぐしたいというものです。
なのであっちへ行き、こっちへ行き、めちゃくちゃな進み方でここまで来てしまいました。
人のそんなもん知っても無駄だと思うことも多々あったと思います。
もうこのシリーズ、実は今回で本編の最後なので、ここまで読んでしまった方には
いまさら遅いですが、今回もしつこくお断りしておきます。
全部読んで「時間を無駄にした!」という苦情をされても同情はいたしますが
特別に責任をとって、時間を返したりは出来ませんのでご了承ください。最後なので変えてみました。
「差別なんてしたいわけじゃない」というようなことを書いた。
差別や偏見の生まれる図式の1つとして、マイナス要因の感覚的な情報を得ることによって
偏見は強くなってゆくという中の、マイナス要因を感じる部分。
マイナス要因と認識される感覚は育ってきた環境や経験が培う。
いじめられたり、欲しい形の愛情が得られなかった飢餓感
差別や偏見をぶつけられる、スケープゴートを目の当たりにした経験、色々ある。
そういう培う部分に関しては個々にあれこれ思い浮かぶだろうと思うけれど
その培われた過去にある理由のことではなく、持っているマイナスが影響する部分について。
マイナスが影響する、というのは一体何なんだろう。
感情とマイナスという判断を下す出来事。
心情と事実。密接に結びついている。切り離すことなど超人でも難しいとさえ思う。
優先順位をつけながら生きて行くという現実的側面と
平等性を求めながらも優越性を求めてしまうという矛盾した本能。
そして、起きた出来事によって生まれてしまうマイナスの評価。
今の私が、その3つを含む認知を自分に納得させて生きていくためには
「好きになったものや人を、自らが自らのために理解したいと望んでいる」
そう意識し続けるだけしかないように思っている。
以前も記事にした「好意の上にしか理解は成り立たないのか」の結論の一つだ。
これは最近になってひとつの結論を私は下した。今の私にはその形の理解しかない。
結論ではなく、認知かもしれない。
したくない、ではなくて、出来ないのだ。キャパシティオーバーなのだと思う。
キャパシティ内におさまるとなると、表層的にはなるだろうけれど可能なところまでは
理解を望むし、トライしたいとは思っているけれど。
それを認めながら生きる。その出した結論が等身大の現在の、私「ちょっちぷん」だと感じている。
そこが気になるから、「好悪以外を基にした理解」に考えが及ばないのかもしれない。
私が常に「個」であることにこだわりつづけるその訳が、そこにはある。
「集」への理解は好意をもとにするとなると、日本では多くの人が特性として持っている
共通意識というものが強くなければならない。ここを司るのが平等性を求める本能。
この本能は希薄な人も現実的にいる。それは育った環境かもしれないしもともとかもしれない。
共通意識が強くなければ、コミュニティの中では出来ることを出来る限り頑張るという形で
表すようになるが、それを出来る限りでは許さないというケースもある。
その共通ルールを守るべし、という部分を司るのが優越性を求める本能。
みんなだって我慢しているんだから我慢しなければならない、のような常識という名を冠する同化圧力。
もっと努力すべし、許される平均値に達することを喜びとすべし、
それが精神・根性論という軍隊式指導を生み出す。
達することの出来ないものを、ヒエラルキーの下層部や支配下に置くことで優越性を保持するというわけだ。
そしてそれは日本や一部の国ではとても根強く正当化されている。
正しいことではないという明確な答えがないばかりに。
この本能部分から結論までの過程を文化や風土、国の歴史などがつくりあげて行くことが多い。
それは上層部や支配層となる基準は違っても、より本能的な自然な形でももとよりあることではある。
そんなアプローチはずるいかもしれない。
その多面体のまた別の側面にはそういった方法の良い面もまたあるのだろうから。
多面体における個人的な是非は、私は好悪をもとに選んでゆくしかないと思っているということだ。
万人が認める絶対的価値というものは存在しない以上、それは「絶対的良」であったり
「絶対的善」とは言えない。99%以上の高確率をもってしても完璧ではない。
それなら私は私が選んで、結果は甘んじて引き受けるという道を選ぶということだ。
何故同じでないといけないのか、どうしてもわからないことが多い。
どうしてみなが足並みを揃えなければ滅びていく生き物なのか、どうしてもわからない。
いろんな説があって、いろんな感心するような素晴らしい思想にも出会っているのに
私の中には「わからない、どうして?」という思いが消えない。
同時にもともと人の持つ優越性を排除しさえすれば良いという思想にも疑問は拭えない。
本当にそうなのかわからないから。
だから私は「集」のルールを押し付けられ、説教されるのが大嫌いだ。
少しずつでも違うのなら「同じ」ではないのだから共通の理解はごく表面的にならざるを得ないし
全体の8割が満足するなら残りの2割は我慢して生きることの意味がわからない。
10割が満足するものでないのならそれは結果的には、ないも同じで犯罪も差別もなくならない。
多数の人がより満足するものを、という美しい思想の中には弱者を虐げる側面が必ず含まれる。
結局のところ出来ないものを納得させるための理由であって
「わからない」は満たされないことに変わりは無い。
理想論を語ったところで、実際的に役立てられないのならば意味がないのと同じように。
そんな理由から私は「個」にこだわり続ける。自分という「個」に。
自分の中に存在する、差別や偏見自体をどうにかしようとは思わない。
どうにかしようとは思わないというと語弊があるかもしれないけれど
今の私にはそのハードルは高すぎて目標として成立しないということだ。
だから今は、そこに至る自分の思想の軌跡を常に意識して、丁寧に紐解こう、と思い続ける。
私は何かを理解するときに、濃度の高い部分からのアプローチが一番有効だと信じている。
なぜかといえば、低いところは飽きてしまうから。
浅いと感じるのは濃度が低いだけで、決してそのものが浅いわけではないと私は思っている。
理解が深まれば、浅いものなんて存在しない。
ならば最初の段階で理解を望んだら、そのとき手の届く最も濃度の高いところに私は入りたい。
優先順位をつけねば生きていくことが難しいのなら
濃度の高い「個」に好意や好奇心をもつのは必要不可欠だろう。
人はつまるところ、欲求に従ってしか生きられない。
多分、そういう理由から私は自分が好きになった人や事物を理解したいと望む。
そこから私の好きなその人や事物の帰属する「集」へ興味を持ったり好奇心を持ったり理解を望めたらと思う。
同時にそういう風に生きることで逆差別をしてしまうことは多そうだな、とも思うけれど。
好意が何らかの理由で嫌悪に変わることは日常でもよくあることで
そのときにも同じことが果たして出来るだろうか、という不安定かつ曖昧な側面も含んでいる。
好意をもとにする、ということが嘲笑の的になるというのは多分そういった理由からだろう。
たまに見かける「感情でものを言う」というやつ。難しいな、と思う。
事実のみをそっくりそのまま理解することと、感情や実体験が伴った理解というのは同じようで全然違う。
エピローグとプロローグをうっかり間違えるように、感情や実体験が伴わないものはなかなか身につかない。
人は「心」という脳活動にかなりの部分を支配されているから。
だから自尊感情を育てたいと思う。
それは、価値軸を他者の評価だけに置かないということに着目していて
私にとってはそれが有効であるというのと同じことだと思う。
つまり誰もが自分のことだけを、他者の評価を別軸として捉えて考えることによって
人を罰することや、同化圧力をかけることから少し距離が取れると思っているということ。
自尊感情の時にも少し触れたけれど、なんでもポジティブに考えればよいと思っているわけではない。
ポジティブである、ネガティブである、そのこと自体が他者評価を基本軸に成り立つことが多いからだ。
それは自尊感情とはまた別のものだと私は個人的に思っている。
ただ、その考えには大きな落とし穴があって、その穴は死刑についての世論調査に似ている。
それはその世論調査の質問項目が「無くさない方が良い」という前提に基づいて設定されているように
ここでは社会生活、社会性、コミュニティにおける文化というものを排除した設定だから。
社会で生きる中で他者からの評価をないがしろにして上手くゆく、というのはちょっとありえない。
ある一部にしか落とし込めない私の考えというのはたわごとに極めて近いのだろう。
だから何の答えにもならないのだ。
けれどそれは選択の自由だとも思っている。
私は社会生活をなるべく少なくすることを望んでいるし、それに付随するリスクは甘んじて受ける。
結局のところそういう考えを告げるだけでも「責任を取れ」とか言われたり
責められることがあるけれど、責任だとかリスクは家族でもなければ他者が受け持つことはありえない。
自分がとった行為に付随する結果は甘んじて受ける。
そのあたりのことを人にとやかく言われても私はあまり苦ではないし、変わらない。
罪とされることのほとんどは責任など取りきれるものではないからこそ、平等性と優越性を求める本能の
備わっている人間社会では「責任をとれ!」「自己責任でお願いします」と言われる。
そのことは忘れてはいないけれど、本来自分以外に責任を取ることの出来る人はいないのだから
そんなことは言われるまでもない。だから何かを選択し、表明することには恐怖を感じることがある。
それでも、差別や偏見についてもそうして生きていくことが今の私の結論だ。
2007年5月6日(日)AM:0:55に上げた記事です。
差別したい ~5・さらに暗い部分へ~
◆お断り◆
毎回鬱陶しいほどに、くどくどと書きますが、今回のテーマはあくまでも
他者の、万人の中にある差別・偏見を糾弾したり、それを問題としているのではなく
自分自身の差別・偏見の元となる価値観や基準から、それを実行するまでの変化の部分を
解きほぐしたいというものです。
なのであっちへ行き、こっちへ行き、めちゃくちゃな進み方をすると思われます。
人のそんなもん知っても無駄だと思うことも多々あると思いますので最初にお断りしておきます。
読む価値はこのへんで見極めてください。
次で終わりになるかも、と言ったものの終わりませんでした。正直すまんかった、という気持ちです。
さて、今回は私の場合の差別・偏見の芽を育てるものを考えてみます。
「選民思想」「男尊女卑」「年功序列」「優越主義」「善意啓蒙」
このどれかに由来する何かを感じるとその人を嫌いになってしまう。たいてい。
(「何か」は多分、価値(観)の押し付けと、それに付随する私的な価値(観)による評価への盲信の押し付け)
嫌いになることで急速にその人へのマイナス要因、感覚的なものへの嫌悪感も
カウントされるようになっていく。
人は人は、と書いているせいで誤解を生むといけないのでしつこく書くけれど、私の場合は
そういったことを含む心情が、嫌いになった原因とともに差別の種や偏見を育てているように思う。
それはどうなのかと個人的には悩む、だから下した評価をなるべく細かく丁寧に分解して確認する。
その作業内で「ここは別のフォルダにしまう」「修正する」などしていって最終的には
「嫌い」という感覚に収めることで差別や偏見を行動や言動にしない、とリミッターをかける。
今のところはそういう感じの対処方法を暫定的にとっているような気がする。
一般的に差別や偏見を持たれることとして、出身地、人種、職業、障害の有無、性別などがあるけれど
多分(あくまで多分、あんまり考えたことがない)それらについては
差別意識を持たないタイプの性格ではあると思う。もともと気にならない性格であることを含め。
ただし例としてあげたものの中で「性別」については先に記したように、一番差別に近い暗黒面に置かれている。
単に私がデリカシーの足りない人間なのかもしれないし、持っている価値観が変なのかもしれない。
自分がそういった部分で深刻に差別される側になったことがないからかもしれない。
想像はするし、深刻に立ち向かわねばならないとまでは感じない差別は受けたことがあるけれど。
そのせいで就きたい職に就けない。結婚したい人と結婚できない。コミュニティに参加できない。
そういう物理的な損害もさることながら、精神的なものも想像する。
見下し、劣等感の植付けに始まり、権利の剥奪、性質や環境の強制的矯正。
一つお断りすると性差別も深刻なものを受けたことはない。
なのに何故それだけは反応するのか、そこはキーポイントの一つであると思う。
私の物事や人への評価基準というのは、多分一般的なそれとは大きくずれがあると思う。
たとえば偏屈であるとか、変わっているとか、自分と違う文化を持つとか
自分の知らない常識を持つとか、そういったことは興味や好奇心を抱くことはあっても
私にとっては自分の何かしらの恐怖心を突き動かすようなものではない。
そんなことを含めて今回いろいろ考えた中、私の差別・偏見の芽はほとんどが
「恐怖感」から生まれると感じた。
ほとんど、と言ったのはまだ私の中には暗闇があり、それだけではないかもしれないと思っているから。
その残りの部分に「差別された」と感じた後の対応は含まれていると思う。
そしてそう感じさせる、最も暗黒的側面を呈している「支配」への感情。
これについては「恐怖」が先か「支配」が先は判断に迷う。ニワたま話だ。
結局のところ、差別の種があり偏見を持っている状態からそれを行動に移さないでいるというのは
小心さの為せる業なのかもしれないし、世間という場ではそれを「理性」と呼んでいるケースも
あるのだろうと思う。
人は恐怖や、身の危険を感じたときに、それを感じさせたものを排除しようとする性質を持っている。
その排除の行為が差別であるとしたら、それをさせない、そしてそれが罪であるという認識を
万人に根付かせることの出来る方法があるのだろうか。
私はその方法の最終的な答えを知っている気がする。
「何故人を殺してはいけないのか」への倫理的なもの以外の答えがはっきりしないように
原罪とされるもののほとんどの命題に明確な答えはない。
原罪とされるもののほとんどは「支配」を禁じているに近いものの
(私の使う、支配という言葉の定義はちょっと独断的であると思うのをお断りします)
多くの生物が共存して暮らすことへのルール制定にもっとも簡単で
最も最大公約数的で成り立ちやすいのが、その「支配」を使った形成方法でもある。
その答えがなく「支配」以外を望む以上、私に出来るのは精神構造を紐解くことをやめないことくらいだろう。
それも他者のそれではなく、自分のそれを。
考え始めてから今日までいくつもシミュレーションしたけれど
私は娘の意思と無関係に、娘の根本的なものを損なうようなパワーゲームが加熱し
娘を損なわれたとき、いくらこの先細かく丁寧に自己分析して原因を究明したとしても
差別をしないとは明言できない。
差別どころでなく、基本的な権利を奪うようなことをしでかす(そうとする)自分しか見えない。
メカニズムを知ったところでそれを完璧にコントロールすることなど出来はしない。
思いやりと同じように、つまるところ余裕のある状態でしか発動できないものに価値などないと思っている。
このシリーズを書き出してから、特に考えたのは差別や偏見、特に差別という
一般的に罪と認定されることの一部分だけを抽出して考えるというのはひどく難しいということだ。
その言葉や行為の持つ定義はもちろん、判定もなく考えたり人の言葉を聞いたりするのは困難だ。
私が興味を持つブログや人というのは、結論でなく「過程」を見せてくれるものであり
私がブログを書くのもそれを表しておきたいという欲求からのような気がする。
それを考えると、このテーマをここに書き残すのは幾分本道からずれているようにも思った。
2007年4月8日(日)PM:1:31に上げた記事です。