私は曲がっていても私
子供を生んだせいか、今年に入って親子についてよく考える。
子である自分、親である自分。
おばあちゃんが死んでしまい、ますます考える。
親子の形は本当にさまざまで、本人が間違っていると感じても間違っていないかもしれないし
本人があるべき姿だ、と感じていても実はそうではないのかもしれない。
そんなこと考えたって答えなどないし、意味はないのかもしれない。
ウチの娘は成長がとても遅い。いろんなことが他の子と比べて遅いそうだ。
初めての子供だし、私の母、つまり娘にとってのおばあちゃんがいないのもあって
他の子供と比べることがとても少ないせいか、私にはよくわからない。
遅いけれど成長がまったくないわけではないし
日々の中でぐぐっと成長することもあれば、全然変わらないように見えることもある。
でも娘は元気で笑っている。それでいいとも思う。それだけでもいいと思う気持ちもある。
これから先、日々過ごしていく中で苦しみ、涙を流すこともあるだろう。
それを何とかしてあげることなど出来ないかもしれない。
子供も生んで育てることについて迷い悩む気持ちもないではないし
その実毎日の中で本当になんと言っていいかわからない気持ちで涙を流すことだってある。
娘にとって何が良いのかわからない。
どんなことを選んでもそこには後悔が付きまとうだろうし、喜びもまたあるんじゃないかと思う。
後悔したことは次のときは捨ててしまえ、とも思う。
ことさら悩むわけではないけれど深く迷う。
親として出来ることは、自分のこととしてきちんと確立したことだけだろうから
自分のことをまずちゃんとする。
娘が笑っていられる間はそれを守って行けたらと思う。
私のやり方は間違っているかもしれないし、それはわからないしどうでもいい。
ただ、きちんと根本的なところまで突き詰めて突き詰めて、納得のうえでやり方を選びたい。
風邪をひいて、熱を出し、咳がひどくて寝付いたと思ったら吐いてしまう
苦しむ姿はやはり可哀相で何とかしてあげたいと思う。
けれど医者へ行き、身体を押さえつけ、喉を診るために口をこじあける
気管が狭まっているから気管支を広げるため吸入する。そのために再度身体を押さえつける。
それらは娘にとっては咳をして寝付けないよりも辛いことのようだ。
これを経験した後、いろんな記憶が出来始めた娘はしばらく私を許してくれない。
抱っこしても拒否され、夫のかげにかくれてしまう。
夜中に目覚めて寝付けずにいるから、相手をして、喉が渇いたのかもしれないとお茶を飲ませ
抱っこして寝かせようとしても身体をのけぞらせ下ろせ!と怒る。
仕方なく下ろすと眠っている夫の方へ急いで行き、眠る夫に寄り添う。
その姿は理由がわかっていて、仕方のないことだと思っていても辛い。
私は何をしているんだろう、と思わずにいられない。
涙が出てとまらなくなる。
医者ではないから、結局のところ対症療法でしかない薬など飲まず
夜中に横になると辛いならば、ずっと抱きつづけてあげれば良いのかもしれない。
吐いたら洗濯物だらけになってもいいから乾いている服がある限り
乾いたシーツがある限り変えてやればいいのかもしれない。
咳がとまらなかったら止まるまでツボを押してやってもいいのかもしれない。
そんなことが普通に生活している中で可能かどうか、ということではなく
する、しない、を選択するのは好むと好まざるとに関わらず自分なのだと、きちんと認めてなければ、と思う。
それでも、何が子供にとって本当に良いのかわからなくなってしまう。
迷いが深くなる。
でも、その気持ちを持ちつづけようと思う。
迷いつづけようと思う。
開き直り、これでいいのよ、と思った方がいいのかもしれない。
だけど、やっぱりそれでいいかはわからないのだ。
わからないのに、これでいい、と決めてしまうことが怖い。
私は私が理想化する母親像にはなれない。
そんなカッコイイスーパーママンにはなれない。
いつも迷って、おろおろして、ぐずぐずと泣き言を言っている。
娘のことは世界で一番に守ってやるべき存在と思っているけれど
可愛くて暖かく、いとおしいと、本当に思うけれど
日々の雑多な、そして瑣末な出来事に私はイラつき、優しくなれない瞬間を数限りなく持つ。
うちには娘の他に猫がいて、猫の存在も娘とそう大きくは変わらない。
癒される瞬間はあるけれど、存在が苦悩なことも事実。
(これchargeupさんの記事のコメントに書こうと思ってたのですが、時期を逃してしまいました)
(猫いるけど家は臭くないですよ(笑))
何年生きても言葉を発することのない彼は、いつまでも赤ん坊のままの子供のようでもある。
それでも、娘が生まれ、娘にかかりっきりになってしまう私を求め
とことことついてきては撫でて欲しいと訴える。
なかなか以前のように猫だけを見ていることが出来なくて彼はストレスを持つ。
歩けるようになった娘に追い回され
撫でているつもりで毛を引っ張られ
寝ていれば頬ずりのつもりなのか上に頭を乗せられる。
おかげで年取った彼は少しやせて、円形脱毛症になってしまった。
私は猫にもストレスをかける。
それらを苦悩することで夫にも苦悩を負わせる。
生きて、考え、決断したことが自分以外をも苦しめる。
それは辛いけれど、どうしようもない。
どうすることも出来ない。
だから出来うる限り誠実でいるしかない。自分に。
2005年10月26日(水)PM:1:04に上げた記事です。
最近は、力を抜いて、娘がどうしてもパパ!というときは、ぷんさんを思い切り可愛がっています。
ぷんさんも今年の夏で丸15年。もうそんなにたくさんは生きられない。
残された時間を仲良く暮らしたい。
娘とだって、どれくらい一緒にいられるかなんてわからないけれど。
今日も明日もあさっても。可愛いなぁと思いたい。どちらの子も。
メロスと私の違い ~シリーズ補足~
理屈が出てき始めました。
出てき始めたものの、まだまだリハビリが必要そうで上手く言葉にしきれていないようです。
私は書いたものを何度か読み直して、投稿した後も何度か目を通すのですが
満足した思考状態の時は、自分でも納得のいく、補足などいらない文章になるのですが
こういう状態は長く続きません。
昨日の文章は読み返すたび「何か足りない」と感じます。
誤解されてしまうことは、ある部分では致し方ないと思っているのですが
主旨自体がまったく伝わらないのは困ります。
伝えることが主目的ではないのですが。
どんな文章も本当のところ、伝わったか伝わらないかはわかりませんが
自分で何度読んでも毎回「何か足りない」と感じるようでは
ひょっとすると備忘録にすらならないかも、と思います。
ちょっと補足してみます。
昨日の文章で書ききれていないところを今のところ具体的に箇条書きできるほど
今の状態がクリアかというと、これまた微妙なのですが書いてみます。
えーと、どんな文章も、私は基本的には自分に向けて書いています。
自分以外の誰かに何かの在り方を問う形はとらないようにしています。
昨日も文中いくつか、ルール的要素に触れていますが
私にとって「ルール」は他者を評価するためのものではありません。
あくまでも自分のためだけ、自分の在り方へのルールであり
それをしている人(体現している人)を好きかと言えば
そうとばかりも言い切れないですし
現に昨日私が書いたことなんか、鼻にもかけない猫のような友を
私は「走れメロス」できる友人として、とても大切に思っています。
彼女は私が私自身に課したルールを持つ「理想の自分像」とは
まったく違う人です。快楽主義者ですし、刹那的であり、自己中心的でお人好し
お調子者でウッカリ者です。(いや、もちろんそれだけじゃないですが)
ですが、私にない素敵なものが彼女の中にはぎっしりつまっています。
「難しいこと書いてあるとコメントできないからつまんね」とか言うけど。
どんなにどんなに努力をしたとて得られぬものを持っています。
この「違い」に私はどうしようもなく惹かれているのだろうと思います。
こんなにも相反するものばかりの私に好意をいだきつづけてくれる。
不思議ですが、本当にありがたいです。
もちろん「違い」があるうえで共にあることに、何らかの意味を持たせることが出来るよう
心を砕いてはいますが、わたしたちはあくまでも自分をまげません。
なんかね、それでいいんじゃないの?と思うわけです。
善き事と考えていること、正しさ、悪しきことと考えていること、誤り
そういうものに対する価値観が違ってもいい
何が違っていても、それはそれでいいじゃない?と思うのです。
私は世間一般のようなものに足並みを揃えることが出来ない人間だからかもしれませんが
「同じ」でなくとも理解は出来るはず、いや、理解したいと思っています。
補足終わり。
やっぱり補足自体が無意味かもしれませぬ。むぅ。
ま、いいや。流れの中の一部だと思ってください。段階の途中なもので中途半端です。
2005年10月26日(水)AM:10:51に上げた記事です。
と、言うことです。
気持ちはずっと変らないものではない。いつか、なくしてしまうのかもしれない。
ふっと、好きだなぁという思いがかききえる日が来るかもしれない。
だから今日、好きだなぁと思う、この気持ちが私は大事。
なんでブログの話から補足がこんななんだろう。我ながら謎。←考える気がなさそう
ブログは人のためならず ~シリーズ1~
昨日書こうと思ってたのですが
何故か忙しくて昨日はパソコンくんとはコミュニケーションすら取れませんでした。がく。
今月に入って肩こりが悪化してきてつらいですばい。
…運動不足がばれる!
そうなんです、なんとなくブログのお休みとともに毎日の運動もお休みしていたのです。
がーん。
やっているのといないのとでは、身体のほぐれが全然違いますね。
誕生日は嬉しいけれど、やはり年を重ねているので衰えが如実でございます。はぁ。
年をとって、物覚えが更に悪くなったりするのはまだいいけれど(いいのか!?)
体力が落ちて、身体にガタがくるのが切ないです。
美的なものの衰えは(まあ、あるのでしょうが)何故か全然気になりません。
それはそれでまずい気もしますが。
そんな私ですが、娘のお友達に
「ちょっちぷんJrのお姉ちゃん」
と呼ばれると、それはそれで嬉しいものがあります。くくっ。
今日の本題。先日いただいたコメントからの芋掘りです。
ブログとはなんぞや。答え、ツール。
私にとってブログとは、備忘録に近い日記みたいな、月記みたいな年記みたいな。
そんな単語はないですが、実生活の日々のアレコレ、と言うよりは
日々の心の中に渦巻く言葉や思考の整理整頓、という感じです。
ブログに対する大仰なスタンスとかポリシーとかはハッキリ言って全然ありません。
特にこれといって姿勢、のようなものを持っているとは言い難いです。
言い難いけれど、私は「生きる姿勢」は持っている。
そしてそれは、ブログであろうと、なんであろうと私が「持つ行為」全てに対して持つ姿勢であります。
ブログというツールに対するものではなく、ここで書くことには
ものすごくこだわりはありますが、それは私の側の問題であって
誰かが読むことを前提としたこだわりではありません。
私の場合、生きて、私が関わり、行動し、言葉を発すること、
全てに関して、この姿勢というか信条というかこだわり、みたいなものが根底にあります。
発展途上ではありますが、これを「生きる姿勢」としています。
なのでブログにしても、あえて人様に「こうです」と公言する必要性は感じませんが
自分自身の中にはかなり明確な基準があります。
実際の日々の中でしないことは、ブログの中でもしない。
ま、そういうことです。
何に対峙する際も「生きる姿勢」のもとに対峙しています。
そして、私は、私自身の思考を誰かと共有したいとは思っていません。
感情に対するものとか、モラルや常識、それらの定義、
そういうことは私にとっては極めて「個人的」に思考するものであり
線引きや善悪も「個」とし、世間的な視点や一般論を交えた思考ではなく
特に、「私、個人」が「どう思っているのか」がまず土台に欲しい事柄です。
その上で誤った認識は、経験し、体験し、改めたい。
当然、それについて付随する責任は負う。どんな形であれ。
公の場で、私がこうしてある一部について語ることを避ける理由はそういうことだと思います。
ディベートや受身の知識で得た「姿勢」は私の性格上、多くは身につかない。
検証しないとだめな応用力のない人間なのでしょうね、多分。
私は、私の人生をいくつかの段階にわけています。
それはあくまでも「私」という人間の極めて局地的なものであり
他の誰にも当てはまらない、私のための分類だけれど
自分が悩み、苦しみ、笑い、喜んで、そして学んできた経験から
私自身が感じたこと、思考したことをベースにしたものです。
ここで交流することは、とても楽しく、そして得るものもとても多いです。
ただ単に、演説を聞き(読み)感想文やファンレターを送るのと違い
生のやりとりの中に、ほんの少し見せてくれる「人の本質」は
恐ろしいほどの戦慄とともに私に大きな気付きを与えてくれます。
これ、記事からというより、コメントから得ることが多いです。私の場合は。
単体の記事ではなく、記事の全体像からも得ることは多いです。
もちろん、その学び、体感の一つに、ブログも当てはまりますが
ただ読んでインスパイアされたこと、共感したことが身につくタイプではないのだと思います。
思考を共有したくない、という表現しか今のところ思いつかない愚鈍な頭ですが
この言葉、大いなる誤解を呼びそうです。
なんて言えばいいのでしょう。
何度かコメントのお返事に書いたのですが、私が感じた一事例、私の一見識、を
例えこの公の場で明文化したとて、それについて議論の余地はないと思うのです。
「一個人の考え」でしかない事柄を議論するのって
その個人の人柄というか在り方を議論しているようで、
そうなると、もうそれは「私の問題」ではなく「議論する人の問題」になってしまう気がするのです。
感じたことは事実であり、それ以上を実際に経験しているわけではない。
発展途上であり、そこからまだ変化を遂げる可能性がある以上
生きた歴史の一部分のみを抜粋して「こうじゃないか、ああじゃないか」
という定義違いの決まりごとは意味をなさないように思うのです。
定義違いの決まりごとでなければ、意味があることもあると思いますが。
これが例えば「小泉政権」についてであるとか「大地震」についてであるとか
具体的なテーマがあれば、また違うのでしょうけれど
うーむ、例えが難しいなー。
議論や、反論、批判等は必要なものは当然ありますし、それが大きな意味を持つ
事柄もあるけれど、それを介入させる余地のない、そして介入させることによって
何かを決定的に損なってしまうこともある、そういうことが言いたいのです。
もちろん「他者の生きる権利を侵してはなりません」が。
外界へ向けたことを思考するのと、内面への思考とでは同じ思考とはいえ全く違いますし。
生きる権利、というものに関してはまた後日。
ものの価値観、見方、そして考え方は、他者を尊重すれば、同意や共感などなくとも理解は出来る。
そう思っています。
それが出来ない、そんな世界は獏にでも食われてしまえばいいのです。
2005年10月25日(火)AM:11:24に上げた記事です。
獏にでも食われてしまえばいい、今も思っています。
なんていうか、他者の権利を侵すようなことではない限り、
ツケは自分につくのだから放っておいて欲しいです。
…シリーズとか言って、続きを見たことがないような気がしないでもない。
途中でブログ論がすごく嫌になっちゃったのです。
ブログがどんな目的でどんなことを書いてあっても、どんなにたくさんあってもどうでもいい。
雑多な中だからこそ、自分にとって価値あるテラ・インコグニタが貴重なことに気付くんだから。
また曇ってる
パソコンくんがちょっぴり元気を取り戻してくれて
さて、何か書こうか、と思っていたのですが、何故か言葉が出てきません。
不思議です。
まあ、こちら側の世界では毎日いろいろなことがありますが。
それはそれ。これはこれ。
頭というか心というか、私の中に言葉はたくさんあるのですが
さて、一つの形にしよう、と思うと、次々と余計なものがこぼれてしまい
当初考えていた形で表すのが難しくなっていきます。
苦心しながらも整えてみるのですが、最終的には
「何やってるんだ?」
という疑問が湧いてきて中断してしまいます。
一体全体、私は何が言いたいのか。
多分すべては繋がっているのだと思いますが、今ひとつ形になりません。
私は、ここで外へ向かう思考はほとんど書きません。
外で何があっても、それらは更に外へ向かわず、私の内側内側へとじわりじわりと入り込みます。
そして私はその染み込んだことを考えます。深く。
深く深く考えて突き詰めていくと、全ては「私、個人」の内面を形成する
信条というか、私自身の在り方へと繋がり、それは人と共有するものではなく
私個人が責任を持ち、誰かの目だとか、世間の価値観だとか
常識だとかモラルだとかを幾分か知りつつも、そこにはまったく関与しない
ただ私、という人間のものの価値観であり、在り方であるのでしょう。
なーんて、ここまで読んで
「まーたちょっちぷんのやつぐじぐじぐじぐじ暗くなってやがるぜ」
とか思ったでしょう!猫!こんにゃろー!
あ、ちょっちぷん、今日誕生日なんですよ。
いやー何年生きてもめでたいなー。誕生日は良いものですね。
おめでとう!自分!わーい!
…。
天気が悪いのがちょっぴり哀しいですが。
自分でおめでとうと言うと何故か切なさ倍増(笑)
夫が美味しいケーキを買ってきてくれるそうなので、楽しみです。わくわく。
娘はさっきまで、へちゃへちゃしていた積み木をくれました。きちゃない。
しかも私が「ちょうだいな」と言わなかったらくれませんでした。(当たり前か)
ブログを先週から休んで、今週もほとんど何も書いていない間
ちょっと気が付いたことがあります。
ある程度の期間、一人でいろいろとぐじぐじぐじぐじ考えていたりすると
凶暴な面が出てくるような気がします。
その人その人によって、色々なのでしょうが
ブログと言わず、こちら側の人間関係でも、ネット上の何かでも
それが絵でも書でも音でも言葉でもいい、とりあえず何らかの形で
何か、それは人かもしれないし、触媒となるものかもしれないけれど
その「何か」を、内なる何かを外へ排出しないと、実に凶暴な面が育つような気がします。
私の場合はブログで内面を明文化することによって、整理し、
それを公の場に置く、ということ
そして格闘技という実際的なスポーツによって排出しているようです。
時に足りなくて、猫をとっつかまえて話したりもしますが
猫と話すと、たまに余計なストレスを作ります。
いや、楽しすぎて話しがそれまくるってだけですけど。
30過ぎて電話で「タイムボカン」の歌の話から
実際に歌って歌詞を確認しているだけなのに、最後は物まね合戦になっていたりするもので。
「たぁぁぁ~~ぃむ ぼっかぁぁ~ん♪」
の「ぁぁぁ~~」のあたりについて深く語り合いました。
矢井田瞳さん並にしないといけませんね。いやそれ以上か。氷川きよしくん並で。
笑いすぎて疲れます。
ここ数日、なんだか言葉を組み立てるのが難しくて
それをしなかったせいか、スパーリングに比重がかかっているらしく
怖い、と言われました。いやん。
気をつけようっと。
涙も一定の期間流さないと、サザエさん見て涙が出ちゃいます。
泣く理由がないのに、泣きたくなるのはきっと水分が飽和状態なのかもしれません。
まあそんなの私個人の一見解でしかないですけどね☆あはは。
なんか投げやりだな。ま、いいか。誕生日だし。
2005年10月22日(土)PM:0:17に上げた記事です。
誕生日でした。ここ2、3年自分が何歳かうっかり忘れてしまいます。歳か?
この頃涙が溜まってるころなのか~。今も溜まっていて、何かと泣いています。
今日は夫が見ていた、世界まる見えに出ていたドミニカの少年たちを見て号泣。
その前は砂の城で号泣。
アウトプットは習慣というかクセというか、出すことに慣れないとダメですね。
インプットは知識や経験の蓄えとは別に、生きてれば絶対やってるけど、
アウトプットはきちんと意識しないと出来ない。
インプットばかりだと脳が都市化してしまう、というのも頷けます。
この記事、なぜかたくさんいろんなところに組み込まれていて不思議だったけど
読み返してみて納得。こぶしの回し方の例で氷川きよしくんの名を出してるんだ。
どうして「氷川きよし」ってキーワード系のところで紹介されてるんだろう、と思ったよ。
ちかちかまたたくぴんくたち
あまりにも目が痛いので速攻で変更。
こらえ性なくてすみません。
耐えられなかったです。
ほんの数日休んだだけなのに、パソコンの中身を綺麗にしたせいでしょうか。
なんとなーく、落ち着きません。
それに午前中にあちこち出掛けてみたら
アノヒトもアノヒトも「ブログ休止」「ブログ卒業」…
秋だからでしょうか。
(自分が休んでおいて、どの口が言うのか)
気温が下がってきて、楽になったかと思いきや
気温の急なアップダウンと湿度の急なアップダウンで体調も崩しやすいし
しかも「秋雨前線」が梅雨並にはりきっているようで
ちっとも秋晴れの日にめぐり合えません。
こう毎日毎日、太陽がろくにささない日が続くと気も滅入ります。
自分の内側に目を向けていると、曇りの波動みたいなものが
どんどんどんどん伝わって暗い気持ちになります。
からっと晴れた日が1週間続いたら
きっとみんなも元気になるような気がする。
台風の名前見て笑えるのも最初の5つくらいだ。
早く晴れないかな。
2005年10月17日(月)PM:4:24に上げた記事です。
休み明け第一弾は今はなき限定キティ背景だった模様です。
ピンク可愛いけど、目には厳しいものがありました。
はー、早く秋が来ないかな。夏もまだ来てないわけですが。
だめだ
昨日からいくつか記事を書いてて思ったのですが、今さっき
そらさんの記事へのトラバ記事を書いてて悟りました。
書くことによって整理されたり、すこし回復するのでは、と思ったのですが
今は言葉をつむぐのが難しいようです。
この間ちょっとだけお休みした時のことなのですが
祖母が亡くなりました。
祖母を亡くしたことは自分が思っているより、心理的に大きなダメージがあるみたいです。
特に激しく落ち込んだり、悲しみに打ちひしがれて食事を摂れないとか
そういうことはないし、むしろ落ち着いています。
穏やかですし、毎日は滞りなく過ぎています。
ただ、多分…感情を揺らして耐えられるわけではないのかもしれない
ということに、やっと気がつきました。
普段、喜怒哀楽の感情が激しく、いちいちふり幅の大きい私なのですが
今は喜と楽を感じる箇所が凍っていて
怒と哀のふり幅はMAXになっているため、振ったら最後、という感じがします。
最近、ブログを閉じられる方も多く、ご心配いただいたりもしましたが
特にそれは考えていませんが、しばらくの間パソコンから離れようと思います。
ちょうどハードディスクもガリガリいっているし、メンテナンスに出してみようかな。
そんな感じだし、ブログお休みします。
休んでる間の様子は、猫が何か書くかもしれませんので、チェキしてみてください。
ここと同じくアフォ全開ブログですけど(笑)
敬愛する、わたりとりさんの記事を読み、きちんとした記事も書きたいので
宿題もありますし、じっくり考えて、すっきりした記事を書けるように
のんびりしてみます。
んで、リアル猫んちに遊びに行ったら、みなさんちに遊びに行きまーす。
ではまた!←ちから☆メンのパクリ
2005年10月8日(土)PM:0:24に上げた記事です。
しかしよく休むな。この休みのおかげで、リフレッシュしてるといえばしてるのですが。
で、この時メンテナンスして、リカバリした(あれ?リカバリは別の時だったかな)のですが
最近またなーんか調子悪いのです。パソコンが。
ではまた!
お母さん欲しい
結婚するとき、役所に届けを出す際、ふと頭をよぎりもしました。
これから毎日ご飯作るのかなぁ…
出来るかなぁ…
三食作れるかなぁ…
と言うのを聞いて、そうか、料理は出来ないとダメなんだなぁ、とか
「料理が上手い女性がいいなぁ」
と言うのを聞いた時には、上手くなるように頑張った方がいいのかなぁ、とか
漠然と考えたりもしました。
食事を担当していたので、料理は出来ましたが
料理は好き、とは言えません。
お裁縫も嫌いだし、好きなのは掃除と洗濯くらいです。
そんなんで結婚しちゃって大丈夫かしら、と思いました。
上手いヘタ以前に「持続力」が要求されるのだ、と。
毎日毎日、来る日も来る日も、朝、昼、夜、に食事を作ります。
毎日、外食、出前食、または宅配材料食、専属シェフに作ってもらう、なども可能ですが
大抵はやっぱり家にいる時間が長い方が作ることが多い気がします。
今、私は夫のジム関係の経理や諸手続き等を家でやっているので
完全に仕事をしていないわけではないですが
一日のうち、ほぼ9割家にいます。
夫は好き嫌いもほとんどなく、出したものは「美味しいね、美味しいね」と言って
ほぼ、残さず食べてくれます。
娘も、そんな夫に似たのか、ぱくぱくとよく食べ、残すことはあまりないです。
そんな二人が食べてくれることが私のパワーの源になっているかと言えば
そうでもないのです(笑)
自分のために作るよりは、誰かのために作る方が持続力は生まれるような気がします。
一食の単価と栄養、好み、手間、これに加えて食材の旬、これを考えるのは
作る行為もさることながら、本当に大変です。
いや、多分、適当にやっても結構大変な気がする。
お弁当になれば汁ものはアウトだし、制限も増えます。
離乳食も時期によって、食材や味付けなどにあれこれ制限があり、完全に別ものになることも多い。
離乳食も後半で3食食べるようになり、さらに間におやつを挟むとほぼ5食。
大人の食事3食に離乳食5食…この時期は本当に辛かった。
ずーーーっと、一日中何か作っているような錯覚に陥ったものです。
ていうか、手際が悪いんだな。多分。本当に一日中キッチンにいたと思う。
腰痛が激しく、夜、横たわると腰からギィ~っという不気味な音がしていました(笑)
私は結婚して初めて、そらさんが考えているようなことに気付きました。
世の中のお母さんて、本当に大変なんだなぁって。
夫と娘だけなら、たまには
「今日、食事作るの面倒だし、外で食べたいなぁ」も許されるけれど
これが、同居の人は許されないことの方が多いだろうし、ものすごいストレスになりそうです。
なんとか組み合わせて行かないと、手間が増えて大変です。
そこに食は必ず組み込まれているので、本当に毎日毎日、食事を用意するのは大変です。
なんでそんな大変なことが出来るんだろう。
家事全般が好き
喜んで食べてくれる人がいるから
要領を得るのは得意
自分が食べることが好き
私の場合…なんだろう?
喜んで食べてくれるし残さない、がもう少し多く
夫に作ってもらうと「ザッツ漢の料理」的で毎日は厳しい、がまた少し
あとは、自分が一番選り好みが激しいから、というのが残りを占める
現在は専属シェフはやとえませんし(笑)
しかも手料理を毎日食べられることって、ありがたいことだったんだなぁ。
そういう日々の感謝、結構忘れてるのかもしれないなぁ。
主婦の労働を賃金に換算すると年収はかなり上位に入るって
どこかで聞いたなぁ。
そうだね、外で働くことも本当に大変。
男性は外に7人の敵がいる、と言うけれど
女性が外に行ったら37人くらい敵いるし。
とっても大変。
家庭にある仕事は喜びも多いし、気楽だと思うかもしれない。
でも、好きな人との生活だけに葛藤も激しい。
しかも休みはない。大晦日もお正月も高熱が出てもやる。
私は偏った人間なので、あくまでも自分がそう思っている、というだけで
世間の主婦はこう、というわけではないです。
きっと世の中には
2005年10月8日(土)AM:11:56に上げた記事です。
適当に手を抜くときは抜く。
娘に関しては、自分以外の生き物の人生がかかっているので
日々、かなりの努力のウェイトをかけています。
家事もパーフェクトに、と考えると死んでしまうような気がします。
私は自分の立てた予定が崩れることに非常にストレスを感じるので、今はそんな自分改変中です。
娘はガジラそっくり。夫は孫くんと、鳥山明系の我が家で予定通りは無理だよな。
くぴぷー。くぴくぴ。
あのぅ
もう一つ記事として上げていいですか?ってもう上げちゃってるけど。
みなさまに伺いたいのですが。
ブログバナーってヤツとお名前のアイコン、ちょっと新しくしてみようかな、と思うのですが。
バナーは
・motocicletta
・chocchipun
のどちらが良いと思いますか?(1の質問)
そして、お名前のアイコン変えると誰かわかりにくいですか?(2の質問)
変えるとしたら英字にしたいのですが、名前見にくいですか?(3の質問)
良かったら、お答え、お聞かせくださ~い。
2005年10月7日(金)PM:2:36に上げた記事です。
…おおうっ!これこそ写さなくて良さそう…。
いや、でも「あ、この時アイコン変えたんだー」とか「この日にバナーつけたのね」とかわかるからいいや。
うん。
そして、当時ご協力いただきまして本当にありがとうございました。
グラッツィェ!ミ、バンビーナ!ウンナ、フンギポルチーニ、プレーゴ!チャオ!
(真面目に訳したりしないで下さい。絶対に(笑))
誰?誰?誰に聞いたの?
わくわく。
ちなみに、そらさん!明日もトラバしますから!←何故か予告(笑)
いや、本当はそっちが先だったんだけど、今日はもう記事一つ書いちゃったから。
明日の方かいいかな、と思って(笑)
「ズバリ、ちょっちぷんさんといえば?」
怪談が上手 …28人
離婚 …10人
セスナ機を持っている …1人
★た、確かに完走してるし…。怪談したことないし、離婚もあり得ないけど、セスナ機は持ってます(嘘)
「ちょっちぷんさんは誰に似てる?」
井森美幸 …22人
椎名林檎 …16人
浅野ゆう子 …1人
★ふ、ふはははははははーーーーーー!!!紀香だって!!あはははは!!に、似てねぇ~!
て言うか、全員共通点がないのが気になります。
「最後に、ちょっちぷんさんに一言!」
次回作楽しみにしています …22人
いつも見てます …9人
浮気もほどほどに …1人
★誰だ!茶番とか言ってるヤツ!!…ハッキリ言ってツボです(笑)プロレスチックさに完敗です。
次回作とはやはり妄想小説のことでしょうか。しかもストーカーが9人もいるようです。
笑うと気分がぐんと良くなりますね。ありがとう、そらさんと100人に聞きました!
ちなみに私は自由に文章を作るところで
どんなシチュエーションやねん(笑)
ま、いつものように何かに憤ってたんでしょうね。
2005年10月7日(金)PM:2:06に上げた記事です。
次回作…ドキッ!なんの次回作かしらん。(なんでもねーよ)
嫁たるものってなんじゃらホイ
今日は太陽が顔を出しているせいでしょうか。
朝からちょっぴり気分が良いです。
何か書こう!と思って2つ、3つ書いたのですが…。
聞いてください!
暗いんです!
て言うか攻撃的なんです!
やたら何かを糾弾してしまうのです。
なんか嫌なので、しばらくもんで
やさしくオブラートに包めたら改めて上げることにします。
攻撃的に糾弾したいこと、と言えば「嫁」についてですか。
この間、友人(男性)が遊びに来たのですが、
妙齢の(男性には使わないか)男子、うちへ来るたび
「結婚」について語るのです。
前にも書いたことがありますが、友人たちは我が家に触れると
ま、お世辞も含まれるのかもしれませんが
「いいなぁ、幸せで」「羨ましい」「理想の旦那さん(奥さん)だよね」
と言います。
そこから発展すると、どうしたらそういう結婚が出来るのか
ということに話がなっていきます。
それに私は「さあ、わからないけど、すごく好きな人を尊重すればいいんじゃないの?」
と答えているのですが、実のところ本当にわかりません。
私の人を好きになったときの様子は先日も書いたけれど
「勝手に好きになる」これに尽きるのです。
何事も自分がどう思っているか、そしてそれをいかに率直に伝えられるか
これくらいしかしていません。
相手からの、リアクションがあった後はまた少し違いますが、基本的にはそんな感じです。
その友人とそんなような話をしていたら
「やっぱり見た目じゃない、中身だ」
「性格が合うか合わないか」
「価値観が同じじゃないとダメ」
「嫁として出来なきゃいけないことは出来ていないとダメ」
こんな言葉が次から次へと出てきます。
そりゃあね、中身は良い方がいいでしょうね。
でもその中身は、必ずしも世間が良いとするものでなくても良いじゃないですか。
性格や価値観が合わなくても、お互いがお互いを尊重できればたいした問題じゃないと思うし。
嫁として出来なきゃいけない、なんてことがあるのなら
夫として出来なきゃならないことだってあるぞ、おい。
お金稼ぐだけが夫の出来なきゃいけないことじゃないぞ。
終いに言ったのは
「俺の家の家業を継いでくれる人じゃないとね」
ぶわぁぁ~~~~か!!!!このハナタレが!!
ふざけたこと言うなっ!!
何でお前の人生の課題を人に背負わすんだよ!
それはキミが望むことで、キミがやって初めて意味があるんじゃないのか!?
この男、教師です(笑)
娘の教師がコレだったら倒れそうです。
しかもね、自分は教師を続けたい、だから代わりに嫁さんに家業を継いで欲しい、と。
おかしいでしょ、あきらかに。なんじゃそりゃ。
言ったんです。そう。
そうしたら嫁さんてそういうものだし、家を継いで行くんだから当たり前って言うんです。
バカでしょ~?何様ですか(笑)
こういう男子多いんですね。
自分の苗字になることが、その昔法律で支えられてきた
「家長制度」とイコールになっちゃってんの。
結婚したら女の人は、○○家ルールに合わせる、的発想なんですよね。
ばっかじゃないのぅ!?あり得ません!
昔はね女性は働く場所を奪われてたの。
栄養も足りない、何もかも足りない、だから身体も丈夫じゃない。
そこへ持ってきて出産する。当然医療だって今ほどのケアはない。
だから働くことの戦力になれなかった。
ま、今でも女性の社会進出の意義は論じられてますけど。
そして今でも「出産は病気じゃないから怠けるな」とかいう人多いです。
確かに病気じゃない、運動だってしたほうが楽に出産できるケースも多いようだ。
でもね、出産て大の大人が何ヶ月もガッタガタになる大仕事なんすよ。
身体の中の臓器の1つが、ぶよんぶよんに膨らんで空気を抜いた後の風船みたくなるんです。
それを1年近くかけてもとどおりにしたりもするんです。
その間黙って寝てられないんです。
育児をして、家事をしているんです。ホント大仕事なんですよ。
昔の女性が今ほど楽できなかったのに頑張ったのは素晴らしいことだと思う。
学ぶべきこともいっぱいある。
でも時代の移り変わりで楽できることが増えたからって
今の妊婦さん、お母さんを責めるのはおかしい。
それを享受することをもっと楽にさせてあげるくらいの広い度量持ちましょうよ、と言いたい。
はっ!徐々にずれてきていますね!
話をもどしましょう。
私は友人に言いました。
「あのね私は女尊男卑と言ってもいいような考えなの」
だからその「嫁たるもの」みたいな考え方は好きじゃない。
だって、現実的に考えて男性は仕事だけしかしないでしょう。
女性は妊娠して、出産する、育児も出来る、更に言えば
今の世の中男性と同じくらいの賃金で働くことすら可能なの。
ね、女性の方が優れているでしょう。
実はここまでは私も思っていません。
男女平等主義でもないし。
男性には男性の素晴らしさがあって、女性に勝る機能がある
女性には女性の素晴らしさがあって、男性に勝る機能がある
それを尊重できないから、そう言ってみたのですが
思ったとおり帰り道、夫に
「よく我慢できるね」
と言っていたそうな(笑)
さっきまで「幸せでいいなぁ」とか言ってたくせに。
尊重してくれる人のことは、人間尊重するんだよ、きっと自然に。
…うーん、やっぱりちょっと攻撃的になったかしらん(笑)
2005年10月7日(金)AM:10:23に上げた記事です。
この先生、今年めでたく、ご結婚なさいました。
早速奥様と揉めていらっしゃるそうです。
例の「自分は家にいないけど、同居して親とともに家業をしてもらう」と宣言したところ、
大喧嘩になったそうです。
つーか、付き合ってるときにそういう話しないのかー。
彼はとても特殊な教諭でして、自宅には月に2、3回帰れればいい方でしょうか。
で、年間の休みも2、3回。誰と結婚するのかわからなくなりそう。
最初からそれがいい、という人を探せばよかったのに。
って、いたみたいなのですがお顔が好きになれなかったそうで。
とりあえず、「言う事聞いてりゃいいんだよ」って言うのはやめた方がいいんじゃないのー。
なんであんたの言うこと聞かなきゃいけないのさ。
つーか、もっと言う事を聞きつづける依存型パーソナリティーの人を探せば…(ry
…ともかく幸せになって欲しいです。夜中に突然来るのはやめて(笑)