アマヤドリ -80ページ目

ソシテ…


フィンランドを旅している友達からメール。
好きなものがいっぱいつまったフィンランド。
ムーミンにオーロラに白夜に国境の不思議なまち。

フェリシアは元気かな。
風邪をひいていないだろうか。
いろんなことを文章にできたらいいのに。
昨日つくってみた年賀状をあげてみようか。


タルコフスキーのポラロイド写真の本を中古で手に入れた。
ちらっと見たものの、もったいなくてじっくり読めない。
どうしたらいいんだ。

霧に包まれた町のことを思い出す。
ぬかるんだ道を飛ばしながら陽気にはしゃぐサンナ。
急にあらわれる岩や、壁の影。

ひとりだったな。
でもひとりきりじゃなくて、ひとりずつなんだと思った。


ブリュッセルに旅立った友達からのメッセージ。
今日もドイツで踊っている、大好きなおどりこ。
12時間後に南の国に明日発つ幼なじみ。

決して折れないひと、ばかりだ。


そして…

人生は続く、よね。
ほんとだ。

『幽体』


友達のソロ公演へ。
mixiってすごくて、そこでつながったダンサーさんがいっぱいいる。
そんななかのひとり。

以前から何回かやりとりをしていて、イメージとしてはものすごく静謐なものを創るのかしらと想像していた。
けれど表面的になにかをかむることじゃなく、静けさを内面が破り侵食して覆ってしまうというような…生っぽい作品だった。
たましいは無から、他に気付き、触感を得て感情を覚えて、どんどん外への領域をひろげてゆく。
同時に深く内面に降りてゆく。
照明が思いがけず劇的に(あの雰囲気のなかで私が抱くイメージより劇的に、という意味だけれど)変化するのは、喚起させられる外界とか、内面の変化…を表していたのかな。
だとしたらそこにある精神はものすごくピュアで痛みやすくもあり、思わずぎゅっと目を瞑ってしまうこともあった。

手が美しかったよ。
存在感のある、手の骨にときどきこころを奪われた。

それから最初の片栗粉のような装置も素敵だった。


次も楽しみ。

『三月の5日間』/チェルフィッチュ

森美術館主催の六本木クロッシングのなかの企画のひとつ、チェルフィッチュの公演を見る。

アートのひとつとして演劇を美術館が企画のひとつに入れることって、とても面白いことだと思う。
踊りとか演劇といった分野が持つ過ぎ行く時間にこそ語られる、というような性質は作品をピンで留めて見てもらうという場で展示されるイメージのある展示会のなかにはなかなか考えにくい…からなのかなあ?ちょっと珍しいなあという気がした。
世界のアート祭りではよくあることだから、日本でもそんなものめずらしいことじゃあなかったのかもしれない。私が勉強不足なだけで。
でも今回のこの企画を知って、見たいなと思って、そして見てみて、もしかしたらわたしたちこそ舞台って舞台小屋でしかできないと思っていないかなあ、とふと思いあたる。舞台は非日常だから…というような思い込みは、私たちのほうから断絶を生んでいたのかもしれないなあ、とか。
いや、もちろんそんな部分も好きだし大切にしてゆきたいのだけれど、型枠にはまって考え付かなかった、というようではいけないなと。

前々から見てみたかったチェルフィッチュ。
何故か私はこの劇団を踊りと芝居との融合だと勘違いしていた。
多分ユリイカとか美術手帖でこの劇団を知ったときに演出家がダンサーと対談していたり、身体と意識のことを語っていたからだと思う。
けれど私の考えていたような踊り、といった意味でのからだの動きはなかった。

ストーリーはごく短い、ある男女がライブで出会ってホテルで5日間過ごす間に戦争が終わっていたらいいねと話した、というたったそれだけのこと。
それだけのことを何人かの登場人物が「聞いたはなし」として観客に語りかけ、語りかけていたかと思えばその時間に入り込み、語っていたそのひとの人格がいつのまにか入れ替わる。
さまざまな時間から角度から、たったそれだけの出来事/時間をなぞりかえすように語る。
登場人物は思いつきのように話を進め、脱線する。
相手が話していても全然聞いてなくてまったく的外れな反応をことばや、からだで返す。
行って帰って…という時間の間にどんどん余計なストーリーが増えてゆきもする。
台詞も、からだの動きも、その余計なストーリーも、すべてわさわさとした半端なもの。
ノイズみたい。
なのにそれがとても自然に、切り分ける必要などなく意識に入ってくる。
このがさがさ感がすんなりといつのまにか収まってしまったのはなんでなんだろう。

以前のインタヴューを引っ張り出して読んでみたら、なんだか納得することが書いてあった。
(岡田さんが言いたかったことは、それを私が読んで「そうだなあ」と感じたこととは違うかもしれないので、もしとんちんかんなことを書いていたら恥ずかしいのだけれど、だからあくまでも私が意識を塗りなおされたように感じたこと、です。)
それは、台詞を話すときの動作がその台詞ということばからの連鎖で生まれるものではないということ。
わたしたちが感じている、イメージしているなにかがあって、ことばも動作もそこから発生する。
つまりイメージのようなものがあって、そこからことばと動きは兄弟のように生まれている。けっして動きはことばの副産物ではない。
そしてさらに、言葉は発生からかたちにされるまでに時間がかかる。
動作はそういう作業がことばほど必要じゃないから、ほぼダイレクトに表層に達する。
だからそこには動きが先行するといったタイムラグがあっていいし、タイムラグがあるからこそ、その動作とことばとは一致しないこともありうる。

わたしたちはそんなに単純じゃないのだ、あたりまえだけれど。きっと毎日これを繰り返しているのだ。
こんなこと、改めて言われるとそうかあって思ってしまうけれど。
だからこのノイズを感覚として受け入れることにはそんなに抵抗はなくて、けれど同時にちょっとどこか可笑しい、という認識も生じる。


よく演技の動作を考えるときにことばと動作を繋げたときのそのバリエーションに乏しい気がしていて、同じような動作しか生み出すことができない。
でも実はこういうふうに考えれば、ことばと動作は必ずしも決まりきった対応をしなくていいわけだし(もちろんそのイメージ自体が台詞とか物語といったことばから生まれるものなのだけれど)、感じればいいのはことばそのものじゃなくてことばが生まれるその発生源、自分のなかにあるイメージなのだなあと、なんだか可能性がぐんと広がった気がした。
気がした。という段階だけれど。

このイメージとかたちの往復、のようなものはこのひとの脚本にも通じているのかも。と今ちょっと思った。


『ビル・ヴィオラ』を見たとき にはっとしたのだけれど、からだが動くということはそれ自体でとても面白くて、だからこそダンサーは日々訓練をしないとならないと思うのだけれど(じゃないと埋没しちゃう)、こうしてあらゆるアートが身体に関心をより持ち始めている今、なんだかどきどきわくわくするしまたそれと同時にすぐれた美しいもの、突飛なもの、笑っちゃうもの、芯をふかくふかく見つめたもの、のなかでいったい何を提示できるのかという緊張も覚える。
けれどその緊張は、可能性があると確信しているからこそうまれる、のだなとも思う。
ユリイカ 2005年7月号 特集 この小劇場を観よ!

トロンプルイユ


見たり触れたりしたことに対して、今の自分の受け取りのブーム…のようなものだけでしか噛み砕けないことではもったいない。
この2日間でたくさんの作品に触れたけれど、そのなかからなにを選びとるかということももちろん大事で、さらに、感じた全体の空気のようなものも覚えておきたい…けれどそれをうまくことばにするすべを見いだせないままに薄れてゆくことが、惜しいと思う。
とてもすべては追い掛けられないことに焦るけれど、それでも、一度この表面で触れたことなのだからそれでもいいのだ、と考えてみたり。

はしからひとつずつかたちにしてゆくしかない。

かわいた魚


わたしのなかに、のどの乾いた魚がすんでいる。
でも何故乾いているか、その魚はしらない。

***

ことばそのものは感じていることに比べたらはるかに指し示す範囲が少ない。
わたしのなかにあるこのことはどのことばに換えればいちばん馴染むんだろう。どの単語がいちばん近い温度や色を持っているんだろう。
いつも迷っている。
いつも話すのに時間がかかってしまう。


そのひとは大きくて澄んだ、深い海のようだった。
たくさんのいきものをつつんでいる。
なにひとつおろそかにせず生みだされることばはたぶん、瞬時に選択されたものなんだろう。一番ふかいところからわきでてきたたくさんのことばから。
聞いているだけでここちよくて、ずれや、ひっかかりがなくわたしのからだの中にしみ込んでゆく。
あまり馴染むものだから頭を通過しなかったそのことばたちをかたちとして思い出すことが困難なくらい。

私はそのひとを、一番近いところから全身でみていた。
瞬きをすることもできずにただただ、受けようとした。
からだの中心、呼吸に近いところは締め付けられ、でもからだの中のたくさんの部分は世界にむかってひらかれてしまった。
そんなごちゃごちゃをそのひとのことばは丁寧に針で掬い、いっぽんにつなごうとしてくれているようだった。

友達を別にして、こんなに響き続けたことがあったかしら、と思う。
ことばの内容ももちろんだけれど私はそのひとの持つもの…辿ってきたこと、たいせつに育んできたこと、畳んでなかに仕舞ってきたこと…そのひとの存在に魅了されてしまった。


踊りを見る前にすでに恐いような気持ちになっていた。
ことばだけでこんなにすごいのに。
そして…
やっぱり踊った彼女はすごかった。
わけのわからない涙や息や、芯のちからや、そんなあらゆるものがからだから抜け出してしまった。


年末、彼女のワークショップを受ける。
すごくすごく、楽しみ。
たぶん私はそこでは無力。
でもそれでいい。
気張ることなくただ染まってこよう。

***

冒頭のことばは、レニという哲学者のことばだそう。
このことばをきいて、おどったり書いたり、伝えたかったり…こうして生きていくことがそれ以外のなんの理由もないのだ、ということにまた近づいた気がした。