女の子との距離
今日は早めに家に帰ってゆっくり本でも読もう…と思っていたのに、帰り際に仕事が終わらず結局残業。まあいつもさっさと帰っちゃうんだからたまにはいい。できる時にはやらなきゃ。
仕事先ではみんな当然ながら定時まで働いているから、早く帰らなければならない身の私はいつも心苦しい。二つ仕事があるからっていつまでもこうして甘えさせてもらっていいのだろうかと悩む事もある。一緒に仕事をしている女の子も「お疲れ様でした」っていつもにこにこしてくれるけれど、私がいないからしなくてもいい残業をしているのかもしれない。悪いなあと本当に思う。
だから終業時間中は私は本当に真面目だ。全力で仕事をしている。初期の頃の、息もつけないほどに、というのとはもう違うけれど。
まあそれでも後ろめたい事にかわりはない。
ついつい職場で私がちゃんと他の人と仲良くなれないのはこの後ろめたさからなのだ。
変なの。でもいい時だけ仲良くしちゃいけない気がして。
私は真面目なのだろうか。
ただの小心者なのだろうか。
よくわからない。
明日は沖縄料理を食べに行く。
こないだの銀座お好み焼きに続き、職場の女の子だけの会合。
前回「こんな風に○○ちゃんと飲みにいけるなんて嬉しいよ!」って言ってくれた人がいてそれだけで私は浮かれた。
やっぱり、少しずつ仲良くなりたいな。
本当は、仲良くなりたいんだ。
なんだか子供みたい。「本当は仲良くなりたいのにな」なんて、まるで小学生じゃない?
小学校低学年の時、体育の着替えは男女が一緒だった。
私は転校してきたばかりの女の子の背中のチャックを上げてあげようとして「ちかん!」といわれた。本気で男の子だと思われたのだ。確か、すごくショックだったと思う。
その子とはそれからかなり仲良くなった。
関西弁の、瞳の光の強い子だった。
ある時「目を瞑って」と言われて目を閉じた。
「舌を出して」と言われて舌を出した。
そうしたら、急にその舌を舐められてビックリした。
その子がどんな表情だったか覚えていない。何か、不思議な秘密だ、と私はその時に思った。
今思い出すと変な行為だけれど、その時には深い意味はなかった。多分相手にも。でもやっぱり変な気持ちで、笑い飛ばしたと思う。
二人で遊んだ時間はそう長くなかった。もしかしてひと夏だったんじゃないだろうか。
その子はすぐにまた転校してしまったのだけれど、転校します、っていう挨拶の時に私が好きだった男の子と目配せをしていた。きっとその時に私ははじめて切ない気持ちを知ったんだと思う。嫉妬とかだけじゃない、自分の気持ちの矛盾についての。
私が女の子を苦手だと思うのは、多分この子との経験からだと思う。
本当に仲が良かったし、今でももしめぐり合えたら嬉しい。
でもそれとは別に女の子に対して緊張するようになったきっかけだと確信もしている。
不思議なものだな。何か決定的なことがあったわけでもないのに。
ふたりでいた時の、印象的な風景がある。
隣町へ向かう橋に続く小高い芝生を歩いていたら、突然雨が降り出した。
あまりの突然さに驚いて走ったら、すぐに雨の降っていないところへ出た。見上げてもわからなかったけれど、雨雲のはしっこに私たちはいたんだ、と同時に思って顔を見合わせた。
雨は足早にふたりを追う。
きゃあきゃあ、必死に逃げた。
あの耳に当たる雨の音と、自分の笑い声と鼓動。
走りながら可笑しくて止まらない呼吸と一緒に草のかおりが入り込んだ。
濡れた私の腕はとても白くて、この腕が真っ黒になるまで夏が終わらないで欲しいと思った。
つつじの樹、モノレール猫
私はこのつつじにこだわりがあり、広い公園(2つの広場がくっついた形になっている)の両方にもう少したくさんのつつじがあった方がいいからと沢山種を撒こうとする。そこのつつじは大きい樹に咲いていて、赤やピンクや夕焼けの色や薄紫や…蘭のような形のものもある。花を見て種らしきものが出来ているものをポキンと折り、土に埋めれば次の日にはもう樹になっている。
私は自分が主役だから一生懸命花を増やそうとしていると思われるのが嫌で一人でその作業をする。
全速力で競う必要があるのであまり体力を消耗しないように心がけながら変わった色のつつじの種を探すのに一生懸命だ。
一つ目の公園には普通の(でも樹なんだけど)赤いつつじばかりだが2つ目の公園には変わったものが多い。熱帯の植物のように大きくて鮮やかな色。少しでもきれいなつつじを一つ目の公園にも以て帰ろうと種を探しているうちに、いつのまにか種はひまわりのようにできる設定になっている。
公園を歩いていくうちにもだんだん樹は成長し種をつけ枯れてくる。ひまわりが種を付ける頃には首を垂れるように、つつじの巨樹のその枯れ枝は見事だった。夜の森のようになってくる。ふくろうのように見える樹があったり…オブジェみたいなので感動して携帯で3枚写真を撮った。
上の夢と繋がりがあったかは分からないがモノレールのようなものに乗っている。一番前で隣には女の子がいてその日は晴れてよく陽が出ている。
猫の多い地帯のようでレールのぎりぎりに猫が寝そべっている。モノレールが走りだしても動く様子がなく焦るがどいてくれるだろうと思う。運転手も焦った様子がないので。でもいざ動きだすとぎりぎりに逃れているものもいれば踏まれているらしきものもいる。モノレールはその度嫌な上下をする。
私は隣の女の子に嫌な思いをさせたくなくて猫が踏まれていることを悟らせないように、気付かないふりをする。
猫はどんどん増えてレールに群がった。
もう触れてもいないのに
今日は練習していないどころか楽譜も持たず来ちゃったなぁと思う。
先生に会ってみるとそういえば久しぶりだと思う。少し年を取っているし家の状況も少し変。どうやら先生はちょっと気持ちの病気みたいだ。前から同居していた人(実際にはそんな人いなかった)が出ていった、とかどうもそんなようなこと。
先生の親戚の方が尋ねてきてこれから親族会議が始まるようだった。
来て間もないのに私は帰らなければならない雰囲気。
先生の気力のなさが心配だった。
生活の設計
まったく私とはかけ離れたような素敵なオンナノコのブログを、時々覗く。
“オンナノコ”であるということに対する意識にへぇ、と感心させられる。こういうのってもはやプロ意識だ。踊りとか仕事とも一種通ずるものがやはりあるからおもしろい。何でも究極を突き詰めれば案外シンプルなところに行き着くのかもしれないなぁ。
私のおばあちゃんはとにかく肌がキレイ。必ず人に誉められるらしくそれを誇りにしている。会うたびに「あたしね、とてもそんなお年に見えないキレイな肌ですねって言われるんだけど、そう?」と嬉しそうに話す。そんなおばあちゃんの様子が好きだ。
おばあちゃんは毎日お風呂からあがったあとのコールドクリームでのマッサージを欠かさない。もう50年以上毎日だ。小さい鏡を置き、その前で丹念にマッサージ。化粧水さえ面倒臭い私には信じられない。私はそんなことに時間を使うなら本を読んだりしたいとか思うくらい、もうとにかくずぼらなのだ。
でもそうやって一日の時間のうちの何分かを大事なことに当てる。しなくてはならないことに切り分ける。それが生活というものなのだろう。
そう考えるとなんだか少し胸が痛くなる。おかしな感覚だけれど…ひとってなんて健気なんだろうって。おばあちゃんのその積み重ねられた時間をとてもいとおしく思う。
私はとてもそんな風にはなれないような気がする。本当にそれを求めてもいないくせにおかしなことだけど、それは私にとって最大の暗やみなのだ。私だけに備わっていない何か。どうして、どこで落としてきたのか。
どのくらい私は縛られているのかを考える。
大げさだけれど。
うん、大げさだな。
きっと私はただ甘えているだけなのだ。
そしてただ、なまけてきた。
きっとそれだけ。
やっぱりno music
私は何かを待っている。
待っていても、仕方がないと知りつつも。
一時の感傷なのか…ただ離れていかれるのがつらかっただけなのか。
一瞬冷静になってそれが分かった気がしたけれど。
ただあのときのあのひとに、私は会いたいのかもしれない。
待っても、そしてもし今迎えが来ても、またえんえん、待たなくてはいけないって知ってるのに。