NDT
昨日はNDTの舞台を観に新宿文化センターへ。
新宿文化センターと言えば私にとっては中学時代の合唱コンクールなので久しぶりだなぁと建物を眺める。何だかやっぱり汚れたな。
会場には知っているダンサーもちらほら来ていた。それから今日は出ないらしいNDTのダンサーも。
ここの公演を実際見るのは2回目。…たぶん。1回目はあまり記憶にないくらい。たぶんあまり好きじゃなかったのだろう。どうしてかな。
★ ★ ★
1部目。
面白いオブジェが時々存在感を光らせる。刺さりそうな形、でも永遠のうねりのような曲線を描きつつ。
ダンサーたちの重力を感じさせる動きに驚いた。あれは振付家の狙いなんだろうな。重い。でも早い。
空間をカットするみたいに。
雨音のような音楽を本当に細かく刻んで、ダンサーが蒼い光の中に秩序をつくる。
時々フランス語の詩。
見ていてばらばらになるかんじと、ふたつがすれ違うかんじと、両方が交錯する。
2部目。
1部以外はキリアンの振付けではない。35歳くらいかなぁ?のふたりの作品。
私はこの2部目が一番すごいと思った。ちょっと衝撃を受けた。
こんなに流れるようなコンタクト…というかパドドゥは観たことがなかった。
全くお互いの動きをぎこちなさで妨げることがなくて力の方向が受け継がれ、再生される。
一回も男の人は女の人を持ち上げるための踊りへの躊躇や素になっちゃう場面がなくて(プロダンサーだったら当たり前のことみたいだけれど、実際には余計が見えない男性をあまりみたことがない)引き込まれて途切れることがなかった。
女性もすごくよかったんだけど、男性。
ここ最近良いなあと思う男性ダンサーが多い。
こまやかさやしなやかさは女性特有のものみたいだったのに、今の男性はそれをどんどん身につけつつある。
当然筋力が女性よりもあって身体も大きくて、そのうえ女性に劣らぬしなやかさや柔軟性や情緒があったら。そりゃ、ちょっと負けちゃうかもしれない、と焦った。
うん。本当にちょっとまずいぞ、と思う。
まずいぞと言えば日本のダンス界も相当まずい。世界はあそこに手をかけちゃってるんだ…日本はそれをちゃんと見ないと、どんどん遅れをとる。おいてかれる。
3部目。
これは今クルベリーバレエの演出をやってるひとが振付けていて、やはりキリアンではない。
あんなに楽しい気持ちになるボレロを初めて見た。
2部を見たあとだとちょっと踊りの質には見劣りがするけれどそれでもみせられるところはあった。
ものすごく暴力的に踊るところにも隅までコントロールが生きていて、ふむふむ、と思う。
動きとか雰囲気で笑わせられる、わざとらしくないユーモアはやっぱり日本人には真似できないのかもしれないなぁ。
★ ★ ★
思いつくままに書いちゃった。
やはり、
向こうにいきたい。
ダンサーの質よりも、作品や体制の意識。
真剣に考えよう。
今度は早いうちに。
高尚な銀行、Cafeユイット
市民税を納めようと思い付き銀行に寄ると全く場違いな感じに驚き、スーツ姿のおじさんに「ここは普通の銀行ですか?」と思わず質問する。おじさんはにこやかに、「3時までなら税金の納付も受け付けているのですが今は住宅の借り入れなどを扱っています」と言う。なんだかよくわからないけれど私には無縁の場所のようだった。だいたい市民税すらこんなぎりぎりにやっと重い腰をあげて払うようなひとのくる場所ではない。受付カウンターもどっしりとした大きな茶色の椅子で、待っているひとびとはTシャツなんか着ていない。
おじさんの頬笑みを振り切るように早々に立ち去った。
明日しか納付のチャンスがなくなってしまった。
いつもぎりぎりだ。
でもそもそも、私はおうちに居ることなど殆どなくて市民である資格などないような気がするのだけれど、義務だけはつきまとうのだな、とため息をつく。
Cafeユイットで友達を待つ。美容院に行って犬にご飯をあげ、それから来るらしい。髪型が楽しみだ。
ユイットは久しぶり。
久しぶりに来てもまだミヒャエル・ゾーヴァの絵が飾ってあったので眺める。
雑然としているのにどうして可愛いんだろう。そういえば日本に帰ってきたらお部屋を可愛くしようと決めていたんだっけ。まだ全く可愛くなっていない。蝋燭を安く買えるお店はないかな。
少し、落ち着かない。
ときどきそんなことがある。
背骨に当たる椅子の背が丁度痛い。本を読んでいたけれど途中で集中しきれないことに気付いて顔をあげた。
友達の教えが昨日まででおわった。どんな気持ちでいるのかな。
私の教えていた子供たちのことを、考える。
震える灯り
忙しくて、でも自分なりの最大限の努力がなかなか報われぬ感じがしてちょっとへとへとになっていた、ここ何日か。
でも今日、最後の最後でそれがばっと消えた。
不思議なものだな。ほんのわずかなことで気持ちはこんなに甦る。
ちゃんと期待されていると感じるだけで、
ちゃんと可愛がられていることを感じるだけで。
なんてへなちょこなんだろ。
単純だ。
冷や汗やら変な汗をかきながら頑張って働いてよかった。
報われない気がしてもやもやしていたことすら恥ずかしい。
まだまだ、こんな意識なんだなぁ。
★ ★ ★
みなとみらいに遊びにいった。
イルミネーションがとてもきれいで茫然としてしまった。
なぜ、こんなにたくさんの灯りをひとはつくるのか。
ここらへんの建物はたいていが知っている人が建てている。よく、うまく行かなくてこっそり泣いたんだ、と男の子に聞いたりもしていた。男の子っていっても大の大人だ。
新しい施工法を絵を描いて説明してくれたおじちゃんもいた。わからないけど、ふむふむ。
そんな想いや、今の私みたいに喜怒哀楽のたくさんこもった時間が、この灯りをともしている。
きれいだなぁ、
とそれしか口からは漏れてこない。
こんな時に言葉なんか全然選べなくて、やはりそのまたたきを目に映すしかできない。
でもやっぱりここにもいろんな思い出があって、
そのこともわたしのしんぞうをぎゅっと押した。
消えることはない。
他のひとはどうなのかわからないけど、私はずっとそれが積もってゆくから、
曲がり角をまがったりしないから、
振り返るといつでもそこに残像がみえる。
ばかかもしれないけれどわたしはそれをずっと、
宝物みたいに大切にみつめるつもりだ。
光と時間のトンネル
こんな日には四次元のことを考える。
なんだそりゃ。だけど。
正確には私には四次元がなんなのかよくわかっていないのだけれど。
たぶんひとびとに、自分に、光るもやがかぶさっているように見える気がするから。
電車に乗ったり歩いたり、小さい頃からずっと成長してきてる私、もちろんヨーロッパに行った私。それは全部連続して私の身体と時間にくっついて体のかたちのトンネルみたいに、延々と続いている。終点はお母さんのお腹だ。
猫や犬がもうそこにはいない仲間の匂いを感じるみたいにずっとそれをたどってゆけるとしたら、私は私のたどってきたすべての場所、すべての時間に帰るこまとができる。存在していることになる。
でもその私はいつものっぺらぼうだ。
トンネルだから。
金太郎飴に似ているな。
時間を止めて、区切らないかぎりその瞬間の顔はわからない。
時間ってなんだろう。
やっぱり私には、時間は光だし光が存在なんだよな。
走ってもはしっても追い付けないところ。
光の速度で走っても光はお隣で待ってはくれないし、
その時間についてゆきたくても身体のなかでは時間が待ってくれることはない。
それともぜんぶ、
名付けたことこそ発端で、
ほんとうはそこに不思議なんかないのかもしれない
いつかはっと、ちゃんと辻褄が合うのかな。
わたしのからだのなかで。
