アマヤドリ -140ページ目

夢/死期、ロープウェイ


夢。

何故か私は3月17日に死ぬということになっていた。それは夢の中では明日のこと。

家族でロープウェイに乗る。


ロープウェイには前日にも乗っていて(学校の先生みたいな感じの人と)どこかに行くには必要な乗り物だということになっていたけれど、そのことはよく思い出せない。

ロープウェイの乗り場までは自転車できていて、だけどその箱に自転車は入らない。なので箱の外で自転車を抱え、逆の手でロープウェイの箱の手すりのようなものに掴まっておかなければならない。

なだらかな道はいいのだけれど、160mまで上昇する箇所があってものすごく危ない。

自転車はもちろん重たいし、手すりと隣の箱の出っ張りを足がかりにするしかなくて、あとは外にさらされている。

おまけに私は左手にカメラまで持っていた。

実際なら怖すぎるし絶対に無理なことなのだけれど、夢の中では怖さも大変さもさほど感じなかった。

だけど一度手が滑りちょっとでも諦めたら落ちるところだった。これは17日に死ぬより早く死ぬことになってしまうかもしれないと思い、カメラはひもを手首にかけてぶらさげておくことにした。


家族で乗ったとき、その役は父が買って出た。

一度平らなところで箱がばらばらに壊れ、紙のおもちゃの家を組み立てるようにのりとかで貼り付けて直そうとするが、なかなかうまいことはりつけられない。もしばらばらの状態のまま160mの地点に来てしまったら大変だとものすごく焦る。

母と祖母、私と父と弟、の2組に別れて箱に乗ったのだけれど、人と自転車、というふうに分ければよかった、そうしたら外で自転車を支える必要がなかったかもしれない、と悔やむ。

なにしろ私は父が心配でたまらなかったから。

弟に、「パパはいつもすぐいらないことをするから落ちたりするんじゃないか」と心配のあまりイライラして話していた。

前日には気付かなかったけどそのロープウェイは途中で宙返りし、そのまましばらく進んでひねるような形でもとにもどった。

ものすごくスピードが遅いから怖くはなかったけれどどうして私達が床(というか逆さまになっているから天井)に落ちないのかは解らなかった。


何故私が死ぬのかはわからなかった。

家族も、先生も、友人もみなそのことを知っていたし自分でも分かっていた。

病気というふうではあったけれど、私はその夢の間、だんだん自分の死期が迫っているというただその事実をすとんと受け入れていて、だけど体もわりと元気で、タイムリミットのような要素を感じることが出来なかった。「死ぬのだ」という予告があるだけで体のどこにも死の予感をかんじることができなかった。


周りのひとはみなさみしそうだった。

だけどそのことを受け入れて、納得しているようだった。だれもすがりついたりはしていなかった。


私は、死んだ後自分の洋服を友達にあげてもらおう、と思う。

何故か友人のHちゃんを思い浮かべたんだけどどうしてだろう。私よりずっとお洒落な子で、私の服などきっといらないだろうに。

だけど死んだ人の服を着るなんてやっぱりイヤだろうか、だったら寄付してもらおうかな、と考える。


自分がいなくなっても服や、なにかものが残っているんだと思うと寂しかった。

ほること



あ!そうだ!

って新しく発見したように思うことは、もうすでに当たり前のようにそこにあったことで、時々口にするのが恥ずかしくなってしまう。でも口にしてしまうし、日記に書いたり手紙に書いたりしてしまうのだけれど。


いつも繰り返し確かめているに過ぎない。

ただ再体験するだけ。

新しくピンで留めて、眺めてみてるだけ。


まるでひとのつくったものがいつかは土に還るみたいに、私の掘り出したものはすべてになじんで(なじんでいて)、だからそれをことばに、私なりのものでもいいんだけれどとにかくことさら形にする、という作業が難しくて、ほぼいつも、陳腐なものになる。

かたちにした、と思ったものは必ずもやもやと逃げてゆき、溶け込み、また私はそれを見つけなきゃならなくなる。

くりかえし。


でも見つけたときにまた知らなかったことのように眺め、試してみることが出来るから、幸せなのかもしれない。


夢/どこにも存在するからだ

熱のあるときに見た夢。


私はベッドに寝ているのだけれど、気の毒に思った知り合いが私を他の部屋に連れて行ってくれようとする。

右手を取ってずっと引っ張っていってくれるのだけれど私のからだ全体は進むことがなく、どんどん長く伸びていってしまう。

ガムを引っ張った時に伸びるみたいに細長くなってゆくんじゃなくてからだの太さはほとんど変わらぬまま、関節が少し薄くなりながらどんどん伸びてゆく。

そのひとはどんどん色んな部屋に私を連れてゆくんだけれど、私の体はどの部屋にも存在している。

全部の部屋を感じていた。

ダム、乾いた街


水際に立っているおんなのこのことを考えた。

湿った赤い葉を踏み、新しい枝の割れた肌を数えて、ぬかるんでいないところを歩いてゆく。

泥にはまったっていいのだ、と気付きそれからは小枝の散る空ばかりを見て進んできた。

底に沈んでいるのはなんだろうと目を凝らすけれど空の光と水中に入りこんだひかりとの区別がうまくゆかなくて、そのものの大きさが測れない。

うんと遠い底にあるとすればとてつもなく大きい。

そんなはずはないと光るつぶを水面に手繰りよせようとするがすぐにしりぞき、たちまち街の灯のようなものに姿を変えてしまう。

そのままあの坂道をゆくことにした。

ゆるく下る坂。

水の中ではすべてが乾いている。

日のひかりはときおり割れたようにはじけながら全景を垣間見せる。

湿った匂いは朽ち木のものではなくて静かな貝や巻き上げられた泥の雲のものだ。

水のなかに指を入れてみようか、という誘惑に駆られるけれどもちろんそんなことはしない。

水鳥が水面を蹴るまでずっとそこにいた。

やっと日本語。

今友達のうちです。

やっと日本語が打てる、読める!

お元気ですか。

私は元気です。


ぎゅっと詰まった10日程のひとり旅も本当に楽しかったけれど、やっぱり友達と会ってほっとしました。

ほっとしてないでやっぱりオーディションはがしがし探さなきゃいけないのだけれど。


Magdeburgは小さい街と聞いていたけれどそんなことはなくて、とてもひらけた街です。広いし。H&Mもあるし。

昨日はその友達の舞台を見て、とても楽しかった。

やっぱり踊りたい。

さぼってたこの体も鍛えなおして、またすべて思うように動くようになるのかな・・動くようにしなきゃ、と思った。

(って、オーディションに来ていてそんなこと思ってるようじゃ遅いんだけど!!)


Magdeburgに来る間の電車の隣がたまたま日本の男の子で、友達になりました。

なにかしらこうして、人との縁をつなげるきっかけが私の周りにはある。

すごく受身でいてもそういうチャンスがあるのだから、それを大事にして、さらに受身じゃなくなっていけたらいい、と思う。


ドイツも暖か。

去年はあんなに雪に閉じ込められていたのに、今年はもう春が始まりそう。


今年は日本で桜をみられそう。