アマヤドリ -123ページ目

ブリュッセルよりお客さま、私信



今日はうちにベトナムの友達が来た。

彼の予定を私がちゃんと把握してなかったからなかなかちゃんと遊ぶプランをたてられなくて、赤坂見附でスタバ、原宿をぶらぶら、新宿をぶらぶら、また赤坂見附でスタバ、というかんじになってしまった。
でも最後は私の友達も彼の友達も合流して恵比寿のもつ鍋やさんに。
ここでやっとフランス語のできる日本の男の子が加わったので話がはずむ。
私もほっとした。

電話は難しいけど目を見て話せば少しは伝わる。
だけどやっぱり。
ことばをひとつでも多く話したい。
こうして世界中のひとと友達になる機会がまたいつどこにあるかわからないもの。

畳でぐっすり寝てくれるといいな。

彼は朝寝坊するつもりらしいけど、うちのちゅんがそれを許さないだろう。
最近ちゅんは5時前に起きて歌ってるから。

***

今日突然遊びに誘ったみなさん、急なことでほんとにごめんね。
しかも丁寧にお返事ができず、取り急ぎの返信になってしまいました。
ごめんなさい。

また改めて召集するね。
だってB級グルメ会、しばらくやってないもんね。

うつくしいということ

うつくしさについて語るなんて一万年くらい早いのだけれど。
今、わたしが思ううつくしいということについて。


うつくしさってものすごくとらえどころがなくて、だけどそれをとらえたらもう突き抜けてしまうもののような気がする。
さもないし、見逃しがちだし、気張ったところで醸し出せるものでもないし。
なにをうつくしいとするかなんて、ひとそれぞれ。
時間によっても刻々と変化してゆく。それは感じる側もとどまらずにうつり変わってゆくから。
もしかしたら流行りみたいなものもあるかもしれないな…私の中のうつくしさを感じるあるものごとのブームのようなものは、今の世界の動きとシンクロしているのかもしれない。もしかしたらシンクロしない立体交差を主張することではっと誰かの肌に気付きを与えるのかもしれない。
淘汰されたかと思うとまた内側から鮮やかに顔を出して、その色合いに驚かされる。
だけどどんなにうつりかわっても自分が感じるよいもの、その芯にあるものは同じ…そんなに大きくはかわらないのかもしれないな、とも思う。
かたちや表現方法、受け取るやりかたが変わるというだけで、たえず広がり、同時に凝縮もしているのかも。

表現者はやっぱり生身であることが私は好きだ。
本気で、もう腹のそこから信じていなければ。
生身や本気を見せられるようであるためにはそれなりの下地がなければそこには到達しない。その下地は肉体的な鍛練のことかもしれないし、考え抜かれた構成に裏打ちされるものでもいいし、もしかしたらただ強い信念、願いのようなものでもいいのかもしれない。
たくさんのかたちがある。
だからたくさんのうつくしさが生まれるのだから。

私が動くひとに求めるのは、動きの軌跡なんだろうと思う。
光をあてた時に軌跡が、まるで光を発していたかのように残る動きをするひとが好きだ。
オーラに似ているかもしれない(私にはオーラが見えないからわからないけれど、感覚として)。
自分が纏っている布は動きに時間差でついてきて、さまだげない。さまたげるとしたら、それは効果的な瞬間を生むという確信のある時だけ。意図のある、逆行。
動きにともなう空気の流れ、渦そのものを表したくて、もしかして踊る人の衣裳はあんなふうにやわらかなのかもしれない。

静止しているときは、そこにどのくらい確かに存在しているか。
これは信じること、生身であることが如実にあらわれるから、だから動くことよりもとても難しい。
次にどんなふうに動くのか、どきどきさせられるのが好き。そしてきっと、裏切られることに、ぞくぞくする。

動くとき、自分勝手に動いているだけではやっぱり見ているひとに伝わらない。
会話と同じで、一緒につれていってあげなきゃいけない。
呼吸を見せて、予想させる。予想がつけば安心するから、視線を手放さなくて済む。軌跡を切ってさまたげてしまう動きばかりだと、先の読めない一方的なお話みたいで留める暇がない。
だけどここでもやっぱり裏切りは必要で、退屈させないためにはふいをつく何かが要る。はっとまた座り直すことになる、瞬間。

…何だかうつくしさから離れちゃったかも。
心が動く瞬間のこと、になっちゃった。

アラン・プラテル・バレエ

オーチャードホールにアラン・プラテル・バレエを見に行った。

またもまったく内容を予習せずに行ったのではじめは真っ白の状態。
進んでゆく空間を手探りで辿り、自分を同調させてゆく。

スーツを半脱ぎにしヒステリックに動きを止め、反芻し、痙攣する。その動きは実際はものすごく洗練されたひとのそれなのになんだか居心地が悪く、滑稽なものになる。
身を乗り出して見入ってしまった。
日常においてすんなり感覚に入ってくるものと、違和感をともなうものの違いってごくごく小さいものなんだなぁと思う。
間のずれ、テンションのずれ。
あとでパンフレットを見たら、感じたことはそう大きくずれてはいなかった。ということは表現がうまかったということだから…むずむずするようなその感覚をうまく把握していてそれを静的に、的確に表現できるなんて。うなってしまう。
後半、だんだんエネルギーが高まって、混乱のなかに導かれるのだけれどそのなかでもこのひとの動きや空気をつかむ感触はひとつ違っていた。

サーカスの女の子と男の人のようなアクロバティックな動きをする2人のダンサーも面白かった。
特に私はその女の子(あとでカフェで会ったときに女の子というような年令でないことに気付いたのだけれど)が好きだった。アクロバティックさで言えばもっと磨かれたものももっと驚かされるものもあるんだけどこのひとからはなんだかいっぱいの透明感をともなった白いエネルギーを感じた。ぎゅっとひろげた手のひらの先、やわらかそうな薄い皮膚の先まで輝いているような。そしてたぶん、その真逆のなにかも。
ぼうずにしていて元気いっぱいなのに声が、小鳥のように美しかったからかもしれない。
もっと2人のからみがスムーズであったなら、と思った。

クワンはちょっとびっくりするような身体能力を秘めている、と思う。楽屋に行ったときも日本人の演出家がクワンを誉めていた。彼はいったいなんなんだ、と。どんどん進化しているね、と興奮気味に話していた。
あれがからだをつきやぶって外にでてきたらなぁ。ますます素敵になるだろう。しなやかなんだけどまだ押し止めている。
膝の技、私もやってみたい。会ったら教えてもらおう。

音楽が素敵だった。
ダンサーのひとりが歌う、ちょっと暗い、中近東のかおりのするメロディーに魅了された。
なんでも、王さまお抱えの音楽家のバンドなんだとか。
帰りにCDを買おうかなと思ったが並んでいたしクワン探しのためあきらめた。

あとは舞台装置。
ムックみたいにもしゃもしゃの氷山のようなセット。もしゃもしゃ部分を掴んでうえの方に上ることもできる。崖からぶらさがったりすることもできる。あれ、いいなー。あれをつかって踊るの楽しいだろうなぁ。
去年Galiliのもじもじくんダンスを観てから、壁で踊ることにとても興味がある。
それにはもっと身軽にならなきゃ。


クワンと待ち合わせしていたんだけど結局すれ違い。カンパニーのひとに連絡先を渡してもらうことができたのでひとまずは安心して帰ってきた。
私の英語は相変わらずひどい…のだが、目を見て話せば通じることもあるのだなぁ…。
あ、相手が汲んでくれただけか。

お世話になったサヤカちゃんのお母さんにも逢うことができてすごく嬉しかった。

『スパイダーマン3 』、HOMESTAY

『スパイダーマン3』を見てきました。めずらしく話題に乗れそうだぞ。

しかし、CGはどこまですごくなるんだろう。
スパイダーマンもすごかったけれど、宣伝で見たペンギンがサーフィンをするのもすごかった。動物の毛がふさふさしていてそれがなんともさらさらになびいているんだもの。
CGではこの毛と水の表現に苦労したということをちょっと前に聞いたのだけれど(CGの進歩の早さはものすごいから、こんなことだいぶ昔の話ということになるのかもしれない)、これはその集大成じゃないか。と思った。
…と同時に、私たちはすごいCGを見たいんだろうかね、という疑問も浮かぶ。
こないだ見た『キリクと魔女2』のきりんとお散歩の話が私には宝物のように美しいものに見えて、滝の表現なんかたったの2色と線だけなのにそれはそれは見事なものだったから。
今のCGを純粋にすごいなぁって感心するし、これからの期待ももっているのだけれど、だけど技術がいきつくところまでいってしまってその先何を求めるんだろうといったら…やっぱりたちかえる場所は人間のこの脳のやわらかさなんだろうな。そこから離れることは絶対にない。
…あ、でもCGだってそこから生まれているんだもんな…。
やはりひとってすごいんだ。
安心。


スパイダーマンのあまりの運動神経とやられっぷりの激しさに全身の筋肉が疲れました。
昔ドラえもんの映画で、のび太くんたちがすごく重力の低い星に行ってスーパーマンみたいになるというお話があったのだけれど、あの時に、叩いても大丈夫かもしれないけど刺したらやっぱら地球にいるのと同じだけの傷を負うんだよね…と考えたことを思い出した。
スパイダーマンはあれだけ激しくあちこちを打ってもあざにもならないのに、やっぱり刃物には弱い。
ドラえもんの場合はその理由が重力の差にあるけれど、スパイダーマンはたぶん皮膚も骨も血管もかなりパワーアップしているのだろうから、もうちょっと切れにくくてもいいんじゃないかなぁ…というのが違和感だった。
感覚的に。

どうでもいいことだけれど、こういうたぐいの不自然さには昔もっと敏感で、いちいち取り上げてはなんでだろうなんでだろうって納得のいくまで考えていたような気がする。それか、感覚のずれを沈めるために自分なりの理論をあみだしていたような…。
私もいろんなところが麻痺しているんだなぁ。


明日は友達のお友達のバレエを文化村に見に行って、そしてその子が来週頭、うちにステイする。
ベトナムのひと。

ヨーロッパに行ったときいろんな人にお世話になったりステイさせてもらったから、私もそういうことができたらいいなぁと思っていた。
こんなに早くその機会がくるなんて。

何も大したことできないけれど、だけど楽しみ。

グレイ

微妙な紅色も好きみたいだ。
舞台でいただいたバラやガーベラ。
青みがかったピンクの大群のなかに新しい鮭のような色を見つけると触れたくなる、つつじ。

くもりの日や夜の闇のなかの色はなぜこんなに存在感が強いのだろう。
夜の海がおおきく感じられるのと同じ理由かしら。
光のなかの色よりもずっとひとごとではないくらい私の心のそばまで入り込み、棲みつく。
それぞれの温度を、貪欲に、静かに発しながら。

こころを奪われるのはそれとも、そこにある湿度ゆえだろうか?
生のかおりのような。
そうだ。急に生きてくるんだ。
ルソーの絵みたい。って言ったら、少し可愛らしすぎかな。


ときどき存在があやうくなる。
それぞれにくすんだ覆いをかけているのがただ、私なんじゃないかという気がする。