こんにちは、philosophiaです
「最強の城ランキング」(歴史人5月号)の部門別ランキング
第2弾は<土塁・石垣>部門の発表です(^^♪
<土塁>部門の堂々の1位は、
最高点29点(30点満点)の<諏訪原城>が単独1位でした!
<続 日本100名城>に選定された諏訪原城は、戦国時代の掻き揚げ城の典型で
まだ攻城できていないので(^^;、簡単に紹介したいと思います♪
諏訪原城は、武田氏と徳川氏の境目の城として武田信玄が砦を築き
武田勝頼が遠江への侵攻を計り、天正元年(1573)に築かれました。
当初、母方の高遠諏訪氏を継いだため諏訪四郎と言い、その諏訪に因んで
<諏訪原城>と名付けたと言われています。
<諏訪原城跡の縄張図>
(島田市教育委員会より)
最大の特徴は、武田流築城術の<丸馬出>と<三日月堀>で
(日本城郭協会より)
発掘調査で、徳川家康に奪取された後に土塁や堀の改修がされたことが判明し
近年、二の曲輪北馬出の<薬医門>が復元されたのがニュースになっていました。
(日本城郭協会より)
続いて
<石垣>部門の1位は、30点満点の<熊本城>でした(^.^)/~~~
せっかくなので
被災前に撮っていた「在りし日の熊本城」の写真で
ご紹介したいと思います(^^♪
行幸坂下にある清正公像(通称:三角公園と呼ばれている)
倒壊する前の<長塀>
震災後「奇跡の一本石垣」として注目された<飯田丸五階櫓>
扇の勾配とも武者返しとも呼ばれる加藤清正公の石垣技術は、
謹慎中だった文禄5年(1596年)慶長伏見大地震に遭遇し
その後の熊本城築城で地震対策として誕生したと言っても良いと思われます。
実際、2016年の震災では清正公時代の石垣はほぼ崩落を免れていますから♪
櫨方門から入って、竹之丸からの石垣越しの天守
連続する桝形虎口を何度も折れて抜けると
<二様の石垣>
天守前広場には、被災前<ひごまるくん>がいました(笑)
大イチョウ脇からの大天守と小天守
二の丸側から登城すると
奉行丸には<西大手門>(現在は解体中)があり
<宇土櫓と続櫓>
(宇土櫓の内部は傾き、漆喰の壁がひびや欠落し、続櫓が倒壊してしまいました)
宇土櫓側からの大小天守
小天守横には、非常時の脱出路がありました
そしてしばらくはその姿が見ることができないのが、
櫓部分が倒壊してしまった<不開門>(あかずのもん)
右手下方に見える<東十八間櫓><北十八間櫓>は石垣とともに
熊本大神宮側に倒壊してしまいました!
この時は、桜が満開でした(^^♪
在りし日の<飯田丸五階櫓>と<備前掘>
この櫓台石垣の中に清正公時代の石垣がそのまま残っているとは
想像だにしませんでした!(被災後の発掘調査で判明しました)
曲輪側から見た飯田丸
正月にはKKRホテルで、大小天守を愛でながらおせち料理
今にして思えば、2016年に正月と3月の2回も登城したのは
清正公に呼ばれていたのかもしれませんねぇ~。
ちなみに、<大坂城><名古屋城>も同点の満点でした!
challenge → change → chanceの精神で!
アメブロのペタの代わりに下のボタン「読書備忘録」を
クリック応援していただけると嬉しいです。
ジャンル別ランキングに参加しています。
今日の記事が「いいね!」と思った方は、 応援クリックをお願いたします